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第1話
「やだ。雨が降ってきた。どうしよう……」
カウンターの女性が、困ったようにそう呟く。洗ったグラスを拭いていた大沢薫(おおさわかおる)はくすんだガラス窓の外に目をやり、それから女性に顔を向けた。
「傘ならありますよ」
「……そう」
女性の言いたいことはわかっている。薫は何度も、この年上の女性から誘いを受けている。薫がこの店の二階に住んでいることも常連なら誰もが知っていることなので、引き止めて欲しい、そういうことなのだろう。今までそういう客は何人もいた。女性はもちろん、男性もだ。
だが、薫は一度として、客を泊めたことはなかった。この店を始めてから、一度も。どんなに客が酔ってもタクシーを呼んで、通りまで送っていった。ここは小さな店舗が入り組んでいる小さな路地なので、それは薫にとって容易なことではなかったが、ここには、誰も泊めたくなかった。
ぼんやりと、窓に叩きつける雨を見つめている薫を見て、彼女は諦めたように立ち上がり金を置いて、薫の差し出す傘を借りネオンがぼやける路地を歩いていった。それを見送りながら、薫は眼鏡を外して空を見上げた。かなり強い雨だ。もう、今夜は客はこないだろう。店は閉めてしまおう。そう思った時だった。コートの襟を立てた、長身の男が突然視界に飛び込んできた。視線が交わる。薫は反射的に招き入れるような形でドアを開いてしまった。男もためらいなく店に飛び込む。顔には出さなかったが、驚いた薫は手にしていた眼鏡を落としてしまった。それを見て、すぐ男は跪いて濡れた手で眼鏡を取り、薫に差し出す。薫は小さく頭を下げて、奥へと歩いた。突然の雨で飛び込んでくる、初見の客もたまにはいる。用意してあったタオルを持って、薫は男に近づいた。四十代前半、というところだろうか。濡れた前髪がなければ、もしかすると後半かもしれない。俯き加減の視線はなぜか淋しげで、それは雨のせいかもしれないが、彼を包む雰囲気が全体的にそれだった。薫は手を差し出した。一瞬、男は首を少しだけ傾げたが、すぐにコートを脱ぎ薫に手渡した。用意してあるタオルをそっと押し当てながら、薫はこの男がだいぶ金を持った、いい身分であることがわかった。さまざまな客を見ているうちに、それは自然にわかるようになる。本当に金を持っている人間は、上質のものをさりげなく持っているし、着こなしている。決して一目でわかるようなものを持っていたりはしないものだ。けれど、これほどの客が薫の店に来るのも珍しかった。大きくもなく名も知られてはいない、薫一人で細々と続けている店だ。カウンターにスツールが七席という、こぢんまりとしたというよりは窮屈な店である。酒もそんなに置いているわけではなく、高級なものもほとんどない。だが新宿の裏通りにしては良心的な店だと自分では思っているが。
コートを壁に掛けると、男を振り返る。髪を拭きながら疲れた顔をしていて、仕事帰りか? と一瞬思ったが、どうも仕事帰りというわけでもないようだった。それも薫の長年の勘、だったが。入り口に一番近いスツールに座った男の側に行き、タオルを受け取ると薫はそれで自分の眼鏡を拭き耳に掛けた。カウンターに入り、男の注文を待つ。だが、男はなにも言わず、窓の外を眺めていた。
薫はなにも言わず、勝手に「ホット・ウィスキー・トゥディ」という温かいカクテルを作り、彼の前に差し出した。男はその香りで一瞬、我に返り、薫を見て小さく頭を下げた。薫はその場から離れると残っていた洗い物を、なるべく音を立てずに洗い出した。それが終わり、することもなくなると、薫は男をちらりと見た。まだ、外を見ている。その横顔は、やはりとても疲れているようで、薫は男に背を向けてカウンター内の椅子にそっと座った。客がいない時に少しずつ読んでいる小説を手に取り、開くと読み始めた。
どのくらい、そうしていただろうか。ふと、気がつくと、かなりの時間が過ぎていた。本に熱中してしまえるほど、男は気配を感じさせなかった。薫が振り返ると、男はまだ外を見ていた。雨が好きなのか、それとも深く考え事をしているのかわかりかねたが。すると、わずかな薫の動きを察知したかのように、男はこちらを見た。暗い瞳。薫は色目遣いをされるより、そうした視線のほうが苦手だった。手にしていた本を置くと、視線を落としたまま男の前に立つ。ホットグラスは空になっていて、それさえも気づかなかったのか、と、薫は不思議に思った。これほど存在感がない人間も珍しいな、と思う。もっとも、意識してそうしているのかもしれないが。そういう点では、薫には都合がよかった。
薫はあまり人付き合いがうまいほうではなかった。人といても話をすることが滅多になく、扱いづらい人間として敬遠されることが多かった。薫としては言葉にしてきちんと伝えたいと思うのだが、その考えをまとめるのに時間がかかり、他人はそれに苛立つようだった。そんな自分が店を持ち、一人で切り盛りすることになろうとは思ってもみなかったが。そんな感じなので、常連はみんな沈黙を楽しみにこの店に来るか、そんな薫を目当てで来るかのどちらかだった。
だが告白されたり、むりやり行為を強要されたり、それらは男性はもちろん、女性からもしてほしくはなかった。薫にとっては迷惑以外のなにものでもなかった。過剰な期待をされても、薫にはどうすることもできない。適度な距離を保つとは、なかなか難しいことなのだな、と思う。客とも、そうでない人間とも。
薫は少し顔を上げたが、また、男は黙って窓の外を見ていたので、なにか他のものを作ろうと思った。客がいる限り、店はいつまでも開けている。別に客に気を遣っているわけではなく、することもないからだ。
すると男が立って、コートの掛けてある壁へと向かった。薫は足を速めてコートを取ろうとしたが、それより早く男の手がコートに触れた。薫はその上に手を重ねるような形になったが、その冷たさに慌てて手を引いた。思わず、男の顔を見る。淋しげな瞳とまたぶつかり、薫は顔を下げた。男はコートを羽織ると、内ポケットから長財布を取り出して、一万円札一枚を薫に渡した。慌てて釣りを取りに行こうとすると男が扉に向かったので、薫は思わず追いかけ、その腕に手を掛けた。男の足が止まり、振り返る。ほんの少し微笑みかけられて、薫は思わずドアに向かい鍵を閉め、扉を背に男を見つめた。自分はいったい、なにをしようとしているのだろう。男が変に思うだろう。薫はなにも言えず、ただ、淋しげな男と視線を交わした。男が少し驚いたように薫を見て、それからゆっくりと歩いてくる。男はどうするだろうか。その手が伸びる。鍵に? それとも、自分に?
男はそっと、その冷たい手で、薫の頬に触れた。そして思いもかけない力で薫を引き寄せ、苦しいほどに抱きしめた。
狭い部屋に置いてある安いパイプのベッドが、二人が動くたびにきしんで揺れる。薫はめまいがしそうになって、汗が滲む目に手の甲を当てた。薫は全裸にされ、男の冷たいままの両手で、唇で、さまざまな場所に触れられた。男はコートを脱いだだけで、服を脱ごうとはしない。そして、唇にだけは触れなかった。薫の薄い皮膚が服に擦られ痛んだが、そのような些細なことに意識を集中していないとおかしくなりそうだった。人に身体を任せるのは、いったい何年ぶりだろう、と思う。最後にこの肌に触れたのは、男性だった。年上の横暴な男だった。なので、このように、愛おしむように、大切に、それでいて熱情を感じる触れ方をされて、薫はとても混乱していた。自分の欲望を、まったく押しつけようとしない。ただ、薫の、時々不規則になる呼吸を正確に感じ取り、その部分をやさしく愛撫する。雨はまだ止まず、ぱたぱたと窓を激しく打っている。ネオンが滲む暗い部屋の中で、ただベッドのきしむ音と、薫の弾んだ呼吸と、規則正しく刻む時計の針の音だけが交錯する。許してほしくなるような、息づまる快感に、薫はつい逃げ出してしまいそうになる。そのたびに男の腕が絡んできて、やさしくシーツに押さえつける。背に伝う汗を唇がすくい取る。胸に這う指に自分の指を絡ませて、薫は大きく呼吸した。その指が薫の中心へと降りていく。力を込めて、その手を止めようとしたが、男の指はそれをすり抜けるように下腹部へと向かっていく。誘ったのは、自分だ、と思いながら、薫は仕方なく手を離しシーツを握りしめた。緩やかに擦られ、薫は思わず小さな声を上げた。男のもう片方の手が薫の喉に絡んで、そのまま身体を起こされた。二人は膝立ちのまま、胸と背を合わせる。熱い。真冬なのに、こんなにも熱い。しなう背に汗が伝う。ゆっくりと濡れたそこをしごかれながら、肩をしっかりと抱かれる。もっと声を上げてしまいそうになるのを、必死に唇を噛み締め我慢する。愉悦の声など、聞かれたくなかった。呼吸が速くなる。だが背後の男の息は静かで、薫は余計に恥ずかしくなった。湿った音が聞こえてきて、薫は両手で耳を塞いだ。すると男の唇が薫の反った首筋に当てられ、少し強く歯を当てた。思わず薫はぐっと腰を突き出し、ぬめった液体をシーツに放った。見開いた目に一瞬閃光が走り、薫はそのまま意識を失ってしまった。
気がつくと、男はコートを着て、部屋を出ようとしたところだった。きちんと布団が肩まで掛けてあり、とても暖かかった。ぼんやりとして男を見上げると、はっきりとその顔の輪郭が見えて、もう外が明るくなっていることがわかった。いつの間にこんなに眠ってしまっていたのだろう。男は一晩、なにをしていたのだろうか。だが昨夜、確か、男の腕を取り、むりやり二階のベッドへ連れて行ったのが三時くらいだった。壁にかけてある小さな時計を見ると、七時を少し回ったところだった。起き上がろうとすると、男が来て、それをゆっくりと制した。もう一度、薫が横になると、男はまた、あの淋しそうな顔をほんの少しだけ緩ませた。なんと言えばいいのか。迷っているうちに、男は部屋を出て行った。階段を降りる音が、少しずつ遠ざかっていく。それから鍵を開け、重いドアが開いて、閉まる音が小さく聞こえた。自分はいったい、どうしてしまったんだろう。薫はぼんやりと天井を眺めながら、不安な気持ちになるのを抑えられなかった。行きずりの関係、とでもいうのだろうか。薫はこれまで特定の恋人以外と、こんな行為をしたことがなかった。それなのに。しかも男は薫だけを存分に甘やかし、自分はなにもしなかった。そういう趣味なのだろうか。彼が四十代半ばだとして、と薫は思った。こんな誘い方をする二十くらいは当然下に見える青年になにもしないのは、やっぱりなんだかおかしいような気がした。薫が知っている四十代は、まだまだ現役で、もしかすると自分などよりよほど強いような気がしたけれど。子供をあやすような感覚なのだろうか。それとも、あまりに子供で最後まで抱く気が失せたとか。けれど、薫の誘いに大胆に乗ってきたはずなのに。まぁ、一晩だけのことだ。薫はそれ以上、考えるのを止めた。
昨夜の雨は嘘のように上がり、外は眩しそうだった。ふと気がつくと、枕元に置いてあった睡眠薬のシートがない。乗り出して下を見てみると、床に落ちていた。行為の最中に落ちたのか、と思うと、また恥ずかしくなる。しかし、睡眠薬を飲まないで眠れたのは、いったい何年ぶりだろう、と思う。しかも朝まで熟睡だ。以前、付き合っていた男性とは、どんな激しい行為の後でも、睡眠薬がないと眠れなかった。その前の女性も、その前の……薫はうんざりして、目をつむった。付き合いが長く続くはずもなく、本当に付き合ったのか? と問われれば、自身でも首を傾げたくなるくらいだからだ。結局求められたのは、薫のすべてではなく、人より華やかで見映えがすると言われた顔と、それにふさわしいと思われる身体だけ。一生懸命、考えて話そうとする時、うれしいと思った時、哀しいと思った時、困った時、さまざまなシチュエーションで、薫はあまりにも無表情だった。それを誤解して、他人は薫を責め立てる。でもそれは仕方がないことだ、と薫は思う。感情が表せず、ただ無表情に言葉もなく見つめられていたら、自分が相手だったら、やはりどうしていいかわからないだろうということはわかる。反論の余地はなかった。
そういえば昨夜の男とも、一言も言葉を交わさなかった。不思議だった。ただ目を見れば、その気持ちがわかるような、通じるような。ただひとつだけ、あの淋しげな瞳だけ除けば、自分と彼は似ているような気がした。
薫は大きくため息をひとつつくと、もう一眠りしようと思い、目をつむった。けれど、薬がなくては眠れるはずもなく、結局昼までなにも食べず、ただ、だらだらとベッドの中で寝返りを打ち続けるのだった。
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