1 / 1

邂逅

 許嫁とは言え、顔も見たこともない女性について、好きも嫌いもあろうはずがなかった。私の五つ年下。健康状態は良好。この春に短大を卒業する。彼女について知りうる情報はそれだけだった。  私のほうはと言えば、大学を出て二年ほど働いたのちMBAの取得のための渡米準備中という状況。そんな私の元へ突如として彼女の写真が届けられた。その存在は幼い頃から言い聞かされていたが、姿形を知るのはこれが初めてのことだった。 「蘭子さんの成人式の写真よ。こんなに綺麗なお嬢さんをお待たせするのだから、必ず結果を出してきなさいね。それと、海外だからといって羽目を外さないこと」  母の言葉でようやく写真の意味を理解する。許嫁はこんなに魅力的な女性に育ったのだ。なんの不満もあるまい。早々に成果をあげて帰国し、さっさと結婚して両家の関係を盤石にしろ。今更になって提示された写真には両家のそういった思惑が込められており、彼女は――蘭子といったか――私を奮起させるための「餌」というわけだ。  初めて見る許嫁の顔。よそゆきのぎこちない笑顔でも、彼女は確かに美しかった。生まれ出ずる前から私の許嫁と定められていた蘭子は二十歳を迎えたばかりで、その成人式の晴れ着姿を見る限りでは、美醜を理由に「断る」という選択肢はなさそうだった。私は無意識のうちにため息をついた。  そう、あの頃の私は、どうにかしてこの縁談を壊したかったのだ。  何故ならば私にはおよそ恋愛感情というものが欠落していたからだ。どんなに魅力的な美人であろうと、関心を寄せる理由にはならなかった。不能ではない。自慰では達する。だが、誰かに心惹かれるという経験をしたことがない。何人かの女とつきあったこともある。だが、目の前に脈打つ人体があり、そこに感情が詰め込まれていると思うと、反吐が出そうになり、セックスどころではなくなるのだ。最初はそれを私の緊張ゆえのことだと勘違いして慰めてくれた女も、優しい言葉をかければかけるほど具合を悪くする私に幻滅し、やがては不能と嘲笑し、罵倒し、去って行くのだった。  そうして別れを選択できるのならばいい。だが、蘭子は違う。親の決めた相手との結婚に文句一つ言わない彼女のことだ、ひとたび籍をひとつにしたならば、親の期待に背くことなどできないだろう。いくら欠陥人間の私だとて、相手が不幸になると知れている結婚をするほど酔狂ではない。かと言って穏便な婚約解消の手立ても思いつかないままに、私はアメリカに発った。  一年後、無事にMBAを取得して帰国していた私を待っていたのは、取得の祝福でもなければ、美しい許嫁でもなかった。大の大人がする土下座を、初めて見た。横柄な印象しかなかった蘭子の父親は、しかし、娘のためならばこんなことまでもするのか、かくも親なるものは我が子に関して盲目的になるのかと、自分には理解しえない「愛情」というものへの恐怖心は増幅されるばかりだった。  私の不在の間に、蘭子嬢の前には別の相手が現れたのだという。会話一つ交わしたことがない上に、いつの帰国になるかも分からない私よりも、日々熱心に求婚してくる青年に心が動かされたといって蘭子を責め立てるわけにはいくまい。それに蘭子の気持ちだけでもなかったはずだ。相手は私の一つ二つ年上ではあったが、既に青年実業家として注目を浴びていた男で、病院経営の拡大を図っていた蘭子の生家にとって、ここ数年事業がうまく運んでいなかった私の父の会社よりも魅力的でもあっただろう。また、破談に際しては相応の金額が動いたようで、私の両親の憤慨は実のところ形ばかりのものであった。つまり、この破談は誰にとっても円満な決着だったのだ。むろん、私にとっても。  アメリカで私はひとつの発見をしていた。  初めて人間相手に性的興奮を覚えたのだ。  彼はビジネススクールで指導を受けた講師の一人で、そう小柄でもない私より更に一回り大きく、筋骨隆々とした美丈夫だった。プレゼンテーションの後に一人呼ばれて彼のオフィスを訪ねると、その場で性的関係を迫られた。特に成績に問題はなく、それを脅しの材料にされる筋合いはなかった。暴力的に体の自由を奪われたわけでもない。自らの意志で、私はその誘いに応じた。試してみたかったのだ。「抱く」ことに興味を持てない自分が「抱かれる」立場になったらどうなるのか。彼はひとつひとつ丁寧に質問を重ねてきた。オーラルセックスをしてもいいか、ローションの香りに問題はないか、バックでしてもいいか、ロープで束縛してもいいか。そのすべてにイエスと答え続けた挙げ句、私は両手両足を拘束された状態で、覚えたばかりの卑猥なスラングを口にしながら、彼の上ではしたなく腰を動かし続けることになった。初めて他人の体温を感じながら、射精した。そして気付いた。  私は支配されたかったのだ。  そのためには私より力強い者でなければならなかった。私を恋愛感情抜きの性的欲求のみでコントロールしたがる者でなければならなかった。帰国の直前まで、彼との関係は続いた。彼を通じて別の男とも関係を持った。彼を交えて複数でプレイすることも、そこに女性が混じる場合もあった。誰かに蹂躙されている間であれば、女の中で果てることも可能だった。たとえば背後から大男に押さえつけられ犯されながら、自分のペニスは女に挿入する、といったやり方であれば。目隠しでもされて女の顔面が見えなければより好都合だった。  数年後、蘭子の夫となっていた桝谷の顔を見たのは、偶然だった。若き成功者としてビジネス雑誌にインタビューが掲載されていたのだ。  その瞬間の衝撃は今でも覚えている。蘭子の写真を見せられた時とはまるで違っていた。言うなれば、「恋に落ちた」のだ。それまで一度も感じたことのない感情だった。革製のソファにふてぶてしくふんぞりかえる桝谷圭史という青年は、写真で見ても大柄であることが分かり、スーツ越しにも鍛え上げられた体が想像できた。  不思議なことに、その時思ったのは、この男に抱かれたい、ではなかった。この男と仕事がしたい。それが私の内に真っ先にこみ上げた願望だった。初めて性的興奮をもたらしたのがビジネススクールの講師であり、そのオフィスではビジネスに関する話もいろいろとしていたせいかもしれない。セックスの相手とビジネスの相手とが、どちらも欲望の対象として私の中で完全に混ざっていたのだ。  桝谷にたどりつくのは容易だった。落ちぶれた生家とは言え、実業界にまだ伝手もある。桝谷もまた、「鳳城」の名にすぐにピンと来たようで、二人きりで会えるよう算段した食事の席での第一声は「俺を刺しにでも来たのか?」だった。 「あなたの会社に入りたいのです」と言うと、さすがに驚いた様子だったが、次のセリフは「明日から来い」だった。「信頼できる相手との仕事は楽だが、楽な仕事などしたくはないんだ。いつ殺されるか分からないような奴と仕事がしたい。はなから信用してなきゃ裏切られる心配もないしな」と笑った。  改めて、この人に支配されたい、そう思った。この男に組み伏せられ、犯されたいと思った。  桝谷は他人の欲望に対して敏感な男だ。人が欲しいと思ったものを即座に察知する。この時もそうだった。二人きりの料亭の個室。座敷に向き合って、下半身など見えるはずもないのに、どうしてだか私の状態を見抜いた。 「勃ってるな。俺と一緒に仕事するのがそんなに嬉しいってわけか?」 「いえ、これは」 「男がいいのか?」 「女でもやれないことはないです」  それを聞いた桝谷はいかにも愉快そうに笑った。 「そうか。俺は女はダメだ」 「え……?」 「俺の妻、おまえから取り上げたあの女とも、だから、ヤッてない。どんな味なんだ? あの女は」 「知りません。彼女とは親が決めた仲というだけで、会ったこともありませんでしたから」 「なんだ、せっかく奪い取ってやったのに、おまえも相手してない女だったのか。じゃあ嫉妬に狂うこともなかったわけだな。つまらん」 「羨ましくはありましたよ」 「ほう?」 「彼女ならあなたに抱いてもらえるんだって。……違ったようですが」 「俺に惚れたのか?」 「そうかもしれません。でも、分かりません。今まで人を好きになったことがないので」 「好きになったことがない?」 「ええ」 「こんなにしてるくせにか」  桝谷はズボンの上から私のそこをぎゅうと締め上げた。当然痛いが、それよりも快感が先に立つ。 「肉体的な刺激には反応します。でも、この人と一緒にいたい、この人でなければダメだと思ったことがないんです。恋愛って、そういうものなんでしょう?」  桝谷はしばし考え込んだ。 「その理屈で行くと、俺も恋愛感情ってのを抱いたことはないな。あるのはただ、自分のものにしたいという欲求だけだ。俺が持っていないものを他の奴が持っているのは不愉快でね」 「それで私のフィアンセも奪ったというわけですか」 「だが、恨んではいないのだろう?」 「ええ」 「おかしな奴だ」 「あなたも」 「ああ、しかし似てはいない」 「私もそう思います。あなたと私は全然違う」 「試してみるか」 「試す?」 「おまえが俺のものになるかどうか」 「なりませんよ」 「何故だ」 「そう易々とあなたのものになったら、すぐに捨てられてしまう」 「なるほど」 「でも、あなたと仕事をしたいと思ったのは本当です。あなたなら会社をもっと大きく出来る。そのために私に出来ることがあればなんでもします」 「なんでも?」 「はい。好きに使ってください」 「よし。じゃあ、手始めにこいつが」  桝谷は容赦なく股間を握りしめてきた。 「痛っ……」 「萎えないうちに、行くぞ」  桝谷はさっさと店を後にした。こんな突然の行動にも慣れているのか、女将はコース途中の退席に動じる素振りも見せず、待ち構えていたように桝谷の車が店先に停まっていた。桝谷に続いて乗り込もうとすると、桝谷は手でそれを阻止した。それから運転手に万札を握らせ、自力で帰れと言い放ち、代わりに私に運転をするように言い出した。 「明日からはおまえが運転手をやれ」 「私がですか」 「おまえにはゆくゆくは秘書をやってもらいたい。運転手をやれば、だいたいの俺の行動が把握できるようになるし、車の中が一番安全に秘密の話もできる」 「さっきの方は」 「あれはダメだ。真面目過ぎる。口が堅いのはよかったが、俺が死ねと言えば躊躇わずに首を吊るタイプで、まったくそそられない」  私はようやく、この男を手中に落とすのが相当に難しいことを理解し始めていた。  行き先として指定されたのは、かなりグレードの高い有名ホテルだった。顔を見ただけでフロントのスタッフ達が対応に動き出すのが分かる。ほとんど会話もしないうちにキーを受け取り、誰の案内もなしにエレベーターに向かった。荷物らしい荷物もないから、慣れているならそのほうが楽だということか。そして、それら一連の流れが出来上がっていることから、こういったことは度々あることが察せられた。 「じゃあ脱いで」  桝谷がそう言ったのは、ドアの前だ。それも部屋に入る前、つまり廊下でのことだ。聞き間違いなのかと戸惑っていると、桝谷は繰り返した。 「聞こえなかったか? 脱げと言ってる。下だけでいいが、下着も、すべて」 「ここで……?」 「無理か?」  私はごくりと生唾を飲み込み、ベルトを外した。それから廊下に誰もいないことを再三確かめてから、一気に下着ごと膝まで引きずり下ろした。 「そう、そのまま」桝谷がやっとドアを開ける。「入れ」  私は膝にズボンと下着をひっかけたまま、よちよちと無様に部屋に入った。普通ならほんの数歩の距離がなんと長く感じられたことだろう。 「下を全部脱いでドアに手をつけろ」  まるで違法薬物の取り調べにでもあってするかのような指示を受ける。私はそれにも従った。 「また固くなったぞ。変態」  毒づく桝谷の言葉の通りだった。このような辱めに、私は明らかに興奮していた。 「悪くないな」  桝谷はそう呟くと、浴室のほうから何か持ってきた。シャンプーか乳液の類だろうか、人工的な甘い香りのする液体が桝谷の手によって塗り込められていく。 「自分でほぐせ」  更にはそんなことを言い出した。  実のところ、アヌスを使っての自慰はしたことがなかった。アメリカでの経験はあれど、自己処理の際にそれを再現しようとは思わなかったのだ。しかし、私の手は躊躇うことなく、自らの後孔に伸びた。桝谷の視姦を受けながらの自慰は、普段の即物的なだけの刺激の何倍もの快感を帯びていた。 「桝谷さんっ……」 「なんだ?」 「もう、大丈夫です、から……早く」 「何が大丈夫なんだ?」 「柔らかく……なってます」  私はわざと激しく水音をたたせた。 「それで?」 「挿れて……ください」  次の瞬間、私は頭をつかまれ、無理矢理に膝をつく姿勢となった。眼前には桝谷の怒張したペニスがあった。何を言われずとも指示は理解できた。私はそれを口に含んだ。 「後ろは自分でいじってろ」  言われるまでもなくそうしていた。飢えた獣のように、私は彼のペニスをしゃぶり、それを迎え入れるために自分の孔を拡げた。 「んんっ」  時折えづきそうになる私を、桝谷は余計に性器へと押しつけた。舌先より喉奥で味わえと言われているようで、私はますます興奮した。やがて、桝谷が髪をひっぱり、私の顔を上げさせた。 「続きはベッドでしてやる」  それが最高のご褒美であるかのように言い放つ桝谷だったが、その実、ベッドで楽な姿勢にさせてもらえるでもなかった。私は両手をベッドにつけ、体をくの字に曲げ、立ったままバックから犯された。 「あっ、あんっ……は、あっ、ああって、そこ、いいっ」 「もっと締めろ、この淫乱が」 「んっ、はい、あ、あ、ますた……さん、ああっ」 「飽きたら、捨てるぞ」 「……はいっ、ん、んんっ」 「俺を楽しませられるか?」 「はい……」 「どこまでやれるか、みものだな」 「んん、はい、やり、ます……ずっと……」 「ずっと?つまらんことは言うなよ」 「ずっ……と……ぜっ……いに、あなたのものには……なら、ない……」 「ふん」  それは桝谷の期待通りの答えだったはずだ。桝谷が鼻で嗤ったのがその証拠だ。  私の体の奥底に容赦なく精液を注ぎ込むこの男を、私はきっと愛するのだろう。これが私の初めての、そしておそらくは生涯ただ一度の恋となるだろう。この男のためにならなんでもしよう。この男に愛されるためなら、誰に恨まれても構わない。どんな罪も厭わない。この男の指先ひとつで、言葉ひとつで、私は鬼にも悪魔にもなるだろう。  ただひとつの約束は、私がこの男のものにはならないということ。愛し、愛されるがために、私はこの男から逃げ続けるのだ。 ――地の果てまで。 ――地獄の果てまで。 (了)

ともだちにシェアしよう!