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さらなる不運

 それから一週間が経った頃、藍時はさらなる不運に見舞われる。  朝の六時。職場の郵便局に着くなり、彼は上司から呼び出された。その時点ですでに嫌な予感はしていた。ああ、またかと肩を落としながら連れていかれた先は、面接時にも使用された個室だった。向かい合わせのソファに自分と上司がそれぞれ座り、開口一番「残念だよ」と嘆息混じりに言われた。 「困るんだよね、本当に。ここは仕事場なんだからさ。Ωだから仕方ないじゃ済まないんだよ。こっちも企業だから、障がい者とΩは雇用義務があるけれど……もう苦情が数えきれないほどあるんだよね。ねえ、本当に抑制剤って使っているの? 雇う前に言ったよね。社員を誘惑しないでねって。勘弁してよ。まったくもう……真面目にやってくれないとさあ……」  掴みどころのない文句と苦言をブチブチと並べられ、藍時は悟った。 (ああ、クビを切りたいのにそれができないから、俺から辞めるように返事を待っているんだ)  恋人と別れてからこの一年、色目を使ったこともなければ、誰かとまぐわったこともない。抑制剤の甲斐あってヒートもなく、身体の方は比較的に落ち着いていた。日常生活、社会生活ともに支障があるのは、声を出せないことだけ。だから言葉を話さなくても済む仕事ばかりを、藍時は選んできた。  今いるここも、ハガキの仕分けなら人と接することがほとんどなく、それならば問題ないとニコニコ笑いながら藍時を受け入れたのは、彼の目の前で苛立ちを見せているこの男だった。実際、作業時間と休憩の合間は誰とも関わることなく、常に一人で過ごしていた。そんな藍時が、いったいどこで誰を誘惑をするというのだろう。  藍時は弁明しようとスマホを取り出すも、ガン! と机を蹴られて肩を震わせた。言い訳は聞きたくない。そういうことだろう。  ようやく仕事にも慣れてきたところだったが、話も聞いてくれないのであれば仕方がない、と。藍時は荷物を手にして、頭を下げた。 『辞めます』  顔を上げ、面と向かって唇を動かした。これは声に出さずとも、相手に通じたようだった。 「うん。そうだね。それがいい。はい、じゃあ昨日までご苦労さんでした」  待ってましたとばかりに捲し立てられ、最後はシッシッ、と手で払われる。藍時は震える唇を必死に堪えながら、荷物を纏めてその場を去った。 (ハローワークの人からまた嫌味を言われるだろうな)  まだ明るい帰り道、藍時はトボトボと歩いた。どうしていつもこうなってしまうのだろう。はじめは快く受け入れてくれる職場も、一か月と立たないうちに、今のように自分を煙たがる。どの職場でも手を抜いたことはない。藍時なりに、真面目に働いていたつもりだった。 (みんな、どうやって働いているんだろう)  どんなに考えても正しい働き方がわからない。猫背気味の背中が、さらに弧を描いた。  アパートに帰ると、部屋の扉に設置されているポストの中に、チラシや封筒がくしゃくしゃに詰め込まれていた。封筒の方は中身を見なくとも、内容がわかっていた。滞納している光熱費の請求書だ。  はみ出た分は外で取り、残りは中に入ってからごっそり取り出した。放り込まれるチラシは決まっていつも、家事代行業者やスーパー、ジムに不動産、そして高収入が狙えると謳う風俗の募集要項だ。  おそらく、他の家庭にはこのようなチラシはポスティングされていない。きっとここにΩが住んでいるという情報がどこかから渡り、こうやってしつこく勧誘してくるのだ。Ωならば誰でも股を開く。こうした偏見はいまだに根強く、いつもなら無視してスーパーのチラシ以外と一緒にまとめてゴミ箱に捨てている。  Ωとはいえ、好きで発情しているわけではない。また発情したとしても、エッチやセックスの類が必ずしも好きというわけでもない。ましてやDV被害に遭っていた藍時は、二度とセックスをしたくないと思うくらいには嫌っていた。そんなこちらの気持ちに構わず、毎日毎日同じようなチラシを、夜に働く彼らはポスティングしていくのだ。これはもはや嫌がらせの域だと、藍時はうんざりしていた。  それが今日は、そのチラシを手にして彼はしばらく眺めていた。日給平均十万円。体験入店で五万円。先程まで働いていた郵便局での仕事の、一日あたりの給金よりも遥かに高い収入だった。自分が住む築三十年のアパートの家賃が、月額四万五千円。その料金を、体験入店の一日だけで稼ぐことができるという。  今度は日焼けして禿げている畳の上に置いた光熱費の請求書に藍時は視線を落とすと、しばしだらんと座り込む。 (手や……口での処理なら……なんとか耐えられる。でも、もしも……その先を求められたら……)  職を失い、払えない金銭を要求され、崖っぷちに立たされた藍時は、ずっと避けてきた道を考え始めた。もちろん、理由によっては国から生活保護を受けることもできる。今のような状況なら、説明すれば公的な機関からの支援も受けられるのだろう。だが、藍時は自分の力でこの状況を打開したかった。 (他にも困っている人はたくさんいる。まだ動くことのできる自分が、それを頼っちゃ駄目だ)  背に腹は代えられなかった。  藍時はその日の夜、財布にスマホ、それから身分証と判子を持つと、アパートを出た。

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