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「この子のママになりませんか?」 1

 眠りから覚めた藍時が最初に目にしたものは、見知らぬ天井だった。全体が水色のそこには、ところどころに雲のような形の白い模様が浮かんでおり、まるで空の上にいるかのような感覚に陥る。実際、仰向けに寝そべる藍時の下にはふっかりと、かつ弾力のある何かが敷かれている。これはベッドだろうか。この一年は煎餅布団で生活をしていた藍時からすると、この寝心地のよさは堪らなかった。  まだ半分しか開かない瞼で、藍時は視線だけを左右に動かすと、ここがどこかの室内だということがわかった。部屋の角にはプラスチックでできた収納箱がいくつもあり、そこからロボットの玩具やぬいぐるみのようなものが、ひょこひょこと顔を出していた。 (子ども部屋?)  第一印象はそれだった。初めて目にするその部屋は、当然のように心当たりがない。いったいここがどこで、何の部屋なのかを把握しようと、他の情報を探すため辺りを見渡していると、ベッドの中からぴょこっと何かが現れた。 「えっ?」  驚きのあまりに声が出る。そしてその何かは、クリクリとしたあどけない瞳を藍時に向けた。 「おはよう!」  それははつらつとした幼い少年だった。顔を見て一瞬、誰だ? と思うのと同時に、その少年の名前が藍時の頭に浮かんだ。 「じゅん、君……?」 「うん!」  少年こと純は、元気よく頷いた。 (また、声が……)  藍時はゆっくりと身体を起こしつつ、自分の喉元に手を当てた。なぜ、この少年の前では喋ることができるのだろう。そしてなぜ、この子は自分の目の前にいるのだろう。 (というか……一緒に寝ていたの?)  ますます状況がわからずに混乱していると、純は嬉しそうな笑みを浮かべてこの部屋の扉に向かい、大きく叫んだ。 「パパ! ママが起きたよ!」 「ま、ママ? あの、ママって……」  またもや自分のことをママと呼ぶ純。彼に聞き返すと、開いた扉の向こうから、ネクタイを外したワイシャツ姿の秀一が姿を現した。 「ああ、おはようございます……ってもう、昼ですけどね。よく眠れましたか?」 「ぁ……」  ふふっと笑う秀一は、以前の姿とどこかが違った。それはスーツの上着を脱いでいるからではなく、ましてや下に穿いているのがスラックスだからというわけでもない。違うのは髪型とその色だ。以前は襟足が長めのまっすぐに下ろしたミディアムヘアだったせいで気づかなかったが、室内にいるからか今はその右側を掻き上げたかのように後ろへ流している。そこに現れるハイライトのようなグレーが疎らながらも鮮やかで、丁寧な口調の彼からは想像もつかない髪型だが、強面の顔にはよく合っていた。  よく見ると、上二つのボタンを外したワイシャツの中から、シルバーのネックレスが覗いている。ついているチャームは指輪のようだ。 (それにしても……)  本当に背が高く、身体の大きい男だ。二メートル近くはあるのだろう。もたれかかっている扉の上枠に、彼の頭がつきかけている。ここがどこなのかはわからないが、もう少し彼の背丈に合った設計にはならないものだろうか。そんなことを思っていると、秀一の方からこの状況に対する説明があった。 「ここは私と純の家です。昨夜、あなたが急に倒れたので、ひとまずここへ連れてきました」 「ぁ……」  そう言われて藍時は思い出す。職を求めて歓楽街へ行き、柄の悪い連中によって無理やり風俗で働かされるところだったのだ。職を失い、金銭的に余裕がなくなったとはいえ、昨日の自分はどうかしていた。冷静になった今ならわかる。一日働くだけで数万も稼げるなど、そんな上手い話があるわけがなかった。  己の軽率な行動を恥じる藍時は、ガクンと落ちる頭を支えた。それをどう感じたのか、純が「ママ? どこか痛いの?」と心配の言葉をかけてくる。 「ん……大丈、夫。反省してる、だけ……だから……」  長らく使われていなかった声帯がぎこちなく震えて、小鳥のさえずりのように音を奏でる。 (ああ、本当に声が出るんだ……)  目元がじわりと潤んでいく藍時の頭を、純がその小さな手の平でよしよしと撫でた。餅のように柔らかなそれが、藍時にとって懐かしさを感じるほど心地よく、そして温かかった。  そんな二人の様子を秀一は目を細めて眺めながら、「それじゃあ」と口を開いた。 「出会ったのも何かの縁ですし。とりあえず、一緒に昼食を食べませんか?」

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