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偽りの家族 2

 まだ明るい夕方の空の下を、テクテクと歩くこと二十分。二人は十四階建ての分譲マンションの前に着いた。周囲に庭木がある新築のそこは最寄りの駅からは徒歩十五分とやや離れているものの、閑静な環境で治安が良い。  持っている電子キーでオートロックの自動ドアを潜り抜けると、自動感知式のエレベーターが彼らを迎え入れ、一階から八階まで送り届ける。そこから降りてすぐの角部屋が、純が暮らす扇家だ。  玄関に着き扉を開けると、すでに上がり框に揃えてあるキングサイズの革靴を目にして、純がパッと目を輝かせた。 「あ、パパの靴だ! パパ!」  純は靴を脱ぎ捨てると、一目散にリビングへと走っていく。ひっくり返った小さな靴達を前に、藍時は「あちゃあ」と額に手を当てた。自身もすぐに靴を脱ぐと、上がり框を上がってから身体を屈めて、自分と純の二足分を大きな革靴の隣に揃えた。 「純。靴は揃えないと、お行儀が悪……」  そうしてママとしての注意を最後まで言い終える前に、上からフッと黒い影が落ちた。すると、それまで開いていた藍時の喉が瞬時にきゅっと窄まった。  パクパクと唇を動かすも声は出ない。藍時は静かに嘆息する。いちいち落ち込んでも仕方がないとはわかっていても、自然と悲しいため息が出てしまうのだ。  膝に手をつきながらゆっくりと立ち上がると、先ほどまで自身の膝下にあった純の顔が、藍時の頭よりもうんと高い位置から戻ってきた。 「ごめんなさい、ママ……」  反省しているのか、しゅんと目を伏せる純。藍時は「気をつけてね」と目で諭しながら彼の頭へ手を伸ばすと、ポンポンと優しく撫でた。  その隣で、「次からは気をつけるんだぞ」と純を嗜める人物がもう一人。純を抱え、今の藍時が着ているようなTシャツとジーンズの組み合わせで立っている大柄な男だ。注意を受けてから「今度はちゃんとやる」と純が言うと、男は表情を切り替えて二人に微笑んだ。 「おし! 改めておかえり、純。今日も一日、楽しかったか?」 「うん! 今日ね、みんなでお絵描きしたんだよ! ほら見て! わんちゃんとねこちゃんと、わしさんと、それからぷてらのどんを描いたんだよ!」 「なんだそりゃ。わんことにゃんこの中に猛禽類と恐竜を放ったのか?」 「うん!」 「あははっ! カオスな絵だなぁ、おい! ま、お前が楽しそうで何よりだよ。ママも、おかえり!」  藍時をママと呼ぶその人物は、グレーのハイライトが鮮やかな黒髪を持つ精悍な強面男。藍時の雇用主であり純の父親でもある、扇秀一だ。  純の好きな鷲のように鋭い目つきの秀一だが、白い歯を見せてニッと笑う顔へ藍時は純に向ける笑みとは少し違う微笑を浮かべると、彼に向かって手指と唇を動かした。 『ただいま……パパ』  藍時が扇家で働き始めてから一ヶ月が経とうというのに、口を介して喋ることのできる相手は純だけだ。雇用主である秀一とは、いまだに声を介して話せていない。彼の前で声を出したのは、驚いた時に発する短い悲鳴くらいだ。 (ごめんなさい……)  かつてない好条件で雇ってくれた恩人ともあるべき人に、藍時は恐縮する。対して秀一は気にする様子なく「ん」と頷くと、純を連れてリビングへと移った。  藍時もまた後に続き、スパイスの香ばしい匂いで満たされた廊下を潜り抜ける。それに気づいた純が鼻をクンクンと嗅ぐように動かし、秀一に向かって喜色の声を張り上げた。 「あのねあのね! 今日の夜ご飯ね、ぼくとパパの大好きなカレーなんだって!」 「おっ。どーりでいい香りがすると思った! 今夜もご馳走だなぁ」 「うん! あ、ぼく手を洗ってくる!」 「よく気づいたな。えらいぞ、純」  秀一がリビング手前で身体を屈めると、純はパッと彼から離れて洗面所へと駆け出した。まだ身体が小さく洗面台には届かないものの、子ども用の脚立を使えば自分一人で手を洗うことができる。純は「うんしょ、うんしょ」と声を張りながら脚立を運び、一人で手を洗い始めた。  その後姿を微笑ましく思いながら、藍時はキッチンへと移動する。最新式の炊飯器を見ると、その液晶画面には「5分」と表示されていた。つまり五分後に米が炊けるということだ。  純とは別に、藍時はシンクで手を洗い、自前のエプロンを身に着ける。副菜のサラダは純を迎えに行く前からすでに用意しておいたので、今からやることといえば、これから炊ける米をかき混ぜることと、カレーの温め直しをすることくらいだ。  普段ならここから一時間ほど後に食べるのだが、秀一が早く帰宅したことで純のテンションが普段の何倍も上がっている。休日はともかく、平日の夜に父親と食卓を囲むことなどなかなかないので、早めの食事を望むだろう。炊飯時間を早めたのはそれが理由だ。純にとって習慣作りの大切な時期だが、今日ばかりは仕方がないと思いながら、藍時はしゃもじを手に取った。  そうしてせっせと手際よく動く藍時の頭に、まるで帽子のような手の平がポンと被さった。 「純のお迎え、いつもありがとな。ママ」  秀一が藍時に労いの言葉をかけた。そのごつごつとした質感と確かな温かさに、藍時は手話で答えた。 『仕事ですから』 「ええ。助かりますよ」  藍時から手を離すと、秀一はコロッと態度を切り替えた。

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