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ヒナ 1

「どうやら記憶がすべて戻ったわけじゃないようだね。仕方ない。愛はこれから再び育んでいくとして、だ。藍時。こちらへ来なさい」    陸がソファを指し示した。  藍時は即座に首を振ったが、その瞬間、陸は眉を上げた。 「来るんだ!」 「ひっ……」  怒号が飛び、藍時は短く悲鳴を上げる。  そんな命令は聞きたくない。頭ではそう思っているのに、恐怖が藍時を支配する。自分の両足は震えつつも、前に、前にと進んでいった。大人しく言うことを聞く彼に、陸は満足そうに微笑んだ。  そして再び、ボディバッグのストラップを握り締める藍時がソファに腰を下ろすと、続いて陸も隣に座り、彼の肩に腕を回した。先ほどとは打って変わり、藍時を抱く力はとても強く、まるで鷹の爪のように指が腕に食い込んだ。 「いい子だね。藍時」  途端、口調が優しいものへと戻る。それが嵐の前の静けさのようで、藍時には恐ろしく感じられた。  陸は隣にある白い髪を、くるくると指に絡ませながら、 「そんないい子の君には、いいことを教えてあげよう」  機嫌よく相手の耳元で語り始めた。 「あの扇という男がホストなのは本当だよ。少なくとも、一年ほど前まではね。シュウという源氏名で勤めていて、当時はクラブのナンバーワンだった。それは紛れもない事実だよ。君はね、私と付き合っていた頃、ちょっとした"喧嘩"をした後に彼と出会ったんだ」  ストラップを握り締める指が、ピクリと動いた。 (あれを、喧嘩と言うのか。この人は……)  過去を振り返ってみても、藍時は陸と喧嘩をしたことは一度としてなかった。あったのは、一方的な怒りと理不尽な暴力だけ。それを喧嘩と口にするこの男を、もはや同じ人間として見ることができなかった。  何を言っても無駄だと、藍時は手話をすることも、目で訴えることすらも、放棄した。  相手の様子を微塵も気にかける様子のない陸は、よほど機嫌をよくしたのか饒舌だった。 「誰もが見惚れてしまうあの容姿と、巧みな話術によって骨抜きにされた君は、ほんの少しの間、あの男と共にいたんだ。一時の気の迷いというやつだね。喧嘩をした後はどんなに愛した相手でも嫌になってしまうものだ。それは仕方ない。だから私は、君が過ちを犯していることを知っていたけれど、君が自分の意志で戻ってくるまで待っていたんだ。その後、君は今のようにあの男ではなく私を選んだ。二か月とかからず戻ってきたんだよ」  陸の話に耳を傾けていくうちに、だから自分が秀一とともに撮られた画像があるのかと納得した。今よりも以前に秀一と出会い、過ごしていたことはおそらく本当だろう。「L’oiseau」はΩの保護活動を行っている。おそらく、過去の自分もまた、彼らに保護をされたのだろう。しかしその話の先をすんなりと信じることはできなかった。  きっと過去の自分にも、優しく接してくれていたのだろう秀一よりも、この男を選ぶことなど到底考えられない。陸の下へ戻ったことには、何かしらの理由があるはずだった。  藍時はそれを、この後に続く言葉を耳にして、確信する。 「だが一時的とはいえ、他の男の下にいた恋人をただで許す人間はいないだろう? だから少し……ほんの少しだけ、普段よりも厳しくお仕置きしてしまったんだ。さすがに病院へ搬送された時は焦ったが、君は私のことが好きだからね。何も語らず、警察にも届けを出さなかった。偉い、偉い」  陸はまるで、犬を可愛がるように藍時の頭をワシャワシャと撫で回した。  藍時の喉が、ヒュッ、ヒュッ、と音を立てて窄んでいく。声が出ないどころか、呼吸をすることすら苦しく感じられた。  そして陸の、藍時に対する執着心が突き抜けて異常であることを知る。 「本当に運がよかったよ。いや、これこそ運命なのかな。君が入院した先の病院には知り合いがいたからね。退院後の通院先に、私のクリニックへ通うよう担当医に推薦しておいたんだ。町も離れることだしちょうどいいってね。何も知らない君はすんなりと同意した。私に関する記憶を失くしていたとはいえ、君は疑うことなくこのクリニックを受診した。そうして我々は、自然な再会と出会いを果たすことができたというわけだ」  藍時は愕然とした。ようやく離れることができたと思っていたこの男の手の平で、自分はずっと転がされていたのだ。 (何で……こんな……)  何もかもが仕組まれたことだった。希望など、最初からなかった。  陸は項垂れる藍時の顎を掴むと、自分に向き合わせた。 「さあ、藍時。私とやり直そう。今の私は昔と違ってとても優しいだろう? 君があの男と寝たことについても、こうして堪えてやっているんだ。あとはその汚れた身体を清めてやらなければならない。大丈夫。私も一緒についていって、あの男に解消するよう言ってあげるから」 「ぇ……?」  汚れた身体というのは、ヒートをきっかけに秀一と寝てしまったことを言っているのだろう。だが、陸の言い方が気にかかった。なぜ、わざわざ秀一の下へ行く必要があるのか。  その答えはあっさりと、陸の口から語られた。 「番の解消だよ。ヒートの勢いでそうなってしまっただけの関係とはいえ、君とあの男は番だ。そこを解消しない限り、本当の意味で私の下に戻れるわけじゃないからね」  どういうことだ、と藍時は眉を顰めた。秀一とは何度か身体を重ねてしまったものの、首元のチョーカーだけはついぞ外さなかった。Ωの項をαが噛まない限り、番は成立しないはず。しかし今回のヒートでは、チョーカー越しに噛まれた覚えすらなかった。  そもそも。秀一の番は妻であるヒナだ。自分ではない。そう思いかけたところで、藍時の頭は扇家にやって来てからのことを、走馬灯のように振り返っていった。  一年以上も前に、ヒナが扇家から出ていったこと。秀一と純に、血の繋がりがないこと。純が藍時のことを「ママ」と信じて疑わないこと。妻がいるというのに、一線を越えてしまった秀一が間違いを起こしていないと、断言していたこと。  それらがまるでジグソーパズルのピースのように、藍時の頭の中で、パチリ、パチリと当て嵌められていき、やがて出た結論が……。 (俺が…………ヒナ?)  わからない。しかしそれを確かめる術は、一つしかなかった。藍時の両手からゆっくりと、ストラップが離れた。  一方の陸は、藍時の衿を下げながら、 「ああ、可哀想に。こんなに汚れてしまって……でも、大丈夫。ちゃんと私が上塗りしてあげるからね」  と、秀一によってつけられたキスマークを見下ろしつつ、藍時の唇に自分のそれを重ねようとした。  それを、 「……っ! ぃ、ぁ……!」  藍時が跳ね除けるように、陸の頬を引っ叩いた。その勢いは強く、陸の顔からは眼鏡が飛び、音を立てて床に落ちた。

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