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決着 1

 藍時は両目が零れんばかりに見開いた。いるはずのない人間がそこにいたのだから、当然といえば当然の反応だった。藍時は秀一を見つめたまま、震える唇で「言葉」を紡いだ。 「な、ん……で、ここ……」 「ん?」  スーツ姿の秀一は、向き合う形で藍時を抱いたまま、「そりゃあ」と理由を端的に紡いだ。 「妻の下に駆けつけるのは、夫の役目だからだろ?」 「つ……っ、ま……?」  藍時はパチパチと瞬きする。一方で秀一は、藍時の膨れ上がった頬を指でそっと撫でながら、 「声、出せるようになったんだな」 「あ……」  と、目を細めて、自分のことのように静かに喜んだ。そしてその腕の中にいる藍時を、一層強く抱き締める。 「間に合ってよかった。ほんと……不甲斐なくて、ごめんな」 「しゅ、う……ぃち、さ……?」  ヒート以外での初めての抱擁に、藍時はさらに驚くと同時に、慌てて彼の名を呼んだ。 (そ、そんなことより、ここ……お、往来……!)  改めて辺りを見渡すと、待ち行く人達が遠慮ない視線を堂々とこちらに浴びせている。そこはクリニック裏の路上だった。元より人通りが少ないとはいえ、そこそこ人目につく場所で藍時は一大パフォーマンスを行ったのだ。  そのパフォーマンスを行った藍時を受け止めたのが秀一だった。三階から身を投げた藍時を、一階に等しい地面で受け止めるという大役を担った秀一は、それなりのダメージをその身に負っているはずだった。 「しゅ、秀……いち、さん……う、腕、とか……か、身体……は……」  いくら平均より軽いといっても、さすがに五十キロもの重さを受け止めるのは、巨躯の秀一をもってしても厳しいだろう。骨が折れたりしていないだろうか、打撲や裂傷などを負っていないだろうか、と藍時は人々からの視線を振り払い、秀一の身を案じた。  しかし当の本人はといえば、 「あ~……ずっとこうしたかったから、なんかすげえ心地いい。匂いとかダイレクトに嗅げるし……抱き心地最高」 「しゅっ、秀一さんっ……? ちょっ……ぁ……」  ここぞとばかりに藍時の首元に顔を埋めて、何かを補給するように深く呼吸を繰り返していた。  と、そこへ…… 「藍時っ……くそっ……離せっ」 「はいはい。大人しくなさいね、僕ちゃん」  三階にいたはずの陸が、なぜかバーテンダー姿の熊田によって両手を後ろで押さえられながらやって来た。熊田は片手で制しているが、もう一方の手にはバールを持っていた。おそらく陸が持っていたものだ。それを使って、トイレの扉を壊したのだろう。  陸の姿が目に入った瞬間、藍時の喉は窄まり、再び声が出せなくなってしまった。パクパクと口を開閉させる藍時を見て、秀一はスッと目を細めると、陸に向かって緩やかに口角を持ち上げた。 「おやおや。これは物騒だ」 (秀一さん?)  秀一はそれまでの口調と態度を一変させると、藍時を抱いたまま慇懃に挨拶を口にした。 「あなたのことは一方的に存じ上げておりましたが、こうしてお会いするのは初めてですね。改めまして、私は扇秀一と申します」 「扇……!」  陸は取り押さえられながらも、忌々しげに秀一を睨み上げた。 「よくも私の藍時を誑かして。お前、人の恋人……いや、『婚約者』に手を出しただけでなく番にもなるとは、いったいどういう了見だ。これだからホスト風情は……訴えてやる!」 (こ、婚約者?)  初めて耳にする「婚約者」という新しい自分の立場に、藍時は秀一の腕の中で狼狽えた。「違います」と目で訴えると、秀一は「わかっている」と藍時を一瞥し、陸に向き直って短く嘲笑した。 「何がおかしい!」 「失礼。この状況であなたがどういった主張をされるのか、少々楽しみにしていたのですが……まさか訴えるとはね。まあ、いいでしょう」  続けて秀一は、余裕と挑発を含んだ艶やかな笑みをその顔に浮かべつつ、陸に言い放った。 「あなたが私と藍時の関係を、あくまで不貞行為として訴えるというのであれば、こちらもそれ相応の対処を取らせていただきます」 「何……?」 「あなたは藍時に対し、数々の暴言を浴びせ、暴行を加えました。私が初めてこの子を保護した時も、身体中が傷だらけだったので、すぐに病院へ連れて行き、診断書を用意しました。また藍時は当時、日記もつけていた。それらはすでにバックアップをとってありますし、この子の口からあなたのこともたくさん語ってもらいましたからね。いい判断材料になるかと思いますよ」  要はそちらが法的手段を取るというのであれば、こちらも戦う準備ができている、ということだ。藍時に覚えはないものの、秀一が言うならそうなのだろう。自分をその手に抱く、恋人ではないこの男のことを、藍時はもはや疑うことはなかった。  さらに秀一は、藍時にとっては寝耳に水の事実を語った。 「それにこの一年ほどは、離れた町で健気に働く藍時に対して、様々な手を使い妨害されていたようですね。例えばそう、うちで勤める前の郵便局では、この子の上司に様々な嘘を吹き込み、袖の下を握らせた……とか」 「そん、な……」  思わず口を開いたのは藍時だった。おかしいとは思っていた。なぜ、行く先々でクビになってしまうのか。仕事を真面目にこなし、ヒートも起こさずフェロモンも撒き散らさないΩはβと大差がない。しかし藍時の場合、はじめは快く受け入れてくれた職場が、ある程度の日数が経つと手の平を返すように態度を一変させる。これが単に運が悪いということではなく、またΩの呪いでもないのだとすれば、ある種の法則性が働いていてもおかしくはない。  思い返すと、陸は恋人だった当時も自分を孤立させようとしていた。働く場所も限定され、門限を決められ、交友関係を断ち切らせる。金を握らせて悪評を吹き込むことなど、造作もない。  クリニックに通い出してからは、働き口は逐一カウンセリングで報告していた。場所を特定することなどいとも容易かっただろう。 (まさか……俺の家に風俗店のチラシを入れていたのも、この人が仕組んだものだった……?)  ゾッとする考えが頭をよぎった。追い込んで、追い込んで、追い込んで。すべての希望を断ち切らせて、自分の下に戻らせる。そんな卑劣な男のやり方に、藍時はこの男がもはや言語の通じる人間ではないのだと思い始めた。  秀一はカタカタと震える藍時の背中を撫でつつ、ふと思い出したように、 「ああ、あなたにとっては訴えられることよりも、ご自身の性別を詐称していたことについて吹聴される方が効果的ですかね」  と言った。

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