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秀一の正体

 藍時を連れて向かった先は、秀一の知り合いが勤務しているという総合病院だった。何も殴られた頬のためにわざわざ病院へ行かずとも、と藍時は断りを入れたが、秀一が受診させたい理由は他にあった。 「せいしん、か?」 「お前はこの一年、ずっとヤブ医者にいいようにされてきたからな」  これまで陸から私的に処方されていた薬や抑制剤が、本当に藍時の身体に合ったものなのか、また長期間服薬していたそれらを急に断薬して良いものなのか。その判断を正しく医師に診てもらい、判断するためだという。  藍時はなるほど、と納得するのと同時に、そのために行動する秀一へどうしても言いたいことがあった。 「あの……秀一さん。俺……自分で歩けます、から……その、お、下ろして、ください……」 「やだ」  あれからずっと、秀一は藍時を抱きかかえたまま離さない。目的の病院は徒歩で行ける距離だと言うが、行き交う人々がこちらを見るため、藍時は羞恥で顔を赤くさせていた。  人の目を気にしていないのは、抱きかかえている本人だけだ。しかも抱きかかえているのをいいことに、信号待ちで度々立ち止まる合間に、藍時の首に鼻先を擦り寄せてはチュッ、チュッ、とキスをしていた。  いったいこれは何のプレイだと、恥ずかしくて堪らない藍時は秀一の腕の中で身じろいだ。 「逃げんなよ。ずっとこうしたかったんだから」 「ず、ずっと……?」  藍時は秀一へ、語尾を上げて聞き返した。すると秀一は、「やっぱ、すぐには思い出せないよなぁ……」と残念そうに肩を竦めた。  それはきっと、本当に初めて秀一と出会った頃のことを言っているのだろう。秀一は控えめに頷く藍時を見て「そうか」と、顔に微苦笑を浮かべた。 「熊田はヒナが戻ってくるなんて言っていたけれど、あの野郎を裁いたところで、そう簡単に記憶は取り戻せないよな」  ヒナが戻ってくる。それはつまり、自分の記憶が戻ることを意味しているのだと藍時は悟り、申し訳なさそうに俯いた。 「しまったな。手加減せずに、本気で殴ればよかった」  さらりと恐ろしいことを呟く秀一。あれが本気でないのだとしたら、陸はどうなっていたのだろうと、藍時は想像しかけたところで頭を振った。  パッと青色に変わる信号機。秀一は左右を確認してから、横断歩道を渡り出した。 「あの……」 「何だ?」  本当に自分を下ろす気がないのだとわかり、ついに諦めた藍時は彼の腕に抱かれたまま、訥々と聞きたかったことを口にした。 「俺は……秀一さんと、純に、ずっと前に……会ってるん、ですよね? それで……その……俺達が……番になったのは……」 「ああ」  秀一はやや目線を上にしながら、少しだけ考える素振りを見せた後、 「今から向かう病院の医者に診てもらってから話そうと思っていたんだが……聞きたいか?」  と、尋ねた。  藍時はやや迷ったものの、コクンと頷いてみせた。 「どこから語るかなぁ」  藍時の返答に、秀一が過去を振り返りながら、かつ懐かしむように、それまでの経緯を話し始めた。 「本当に初めて出会ったのはさ、隣町の公園でだよ。一年以上も前のことだ。お前はその日も、あの野郎から酷い暴力を受けていて、傷だらけの身体でぼーっとベンチに座っていたんだ。着の身着のまま出てきたって状態でな。それを純とオレが見つけて声をかけた。当時のオレはホストをやりながら、藍時みたいに酷い目に遭ってきた身寄りのないΩ達を保護する活動をしていた。出会った当初、お前はオレの質問に何も答えなかったけれど、嫌な予感がしたからな。放っておいたら、何をしでかすかわからねえと思ったオレは、お前を連れて『L‘oiseau』に向かった。そんで一旦、店の上にある部屋に上がってもらったんだが、お前ってばさっきみたいに飛び降りちまったんだよ。いや~、お陰様で両腕が痛い痛い」 「じゃ、じゃあ……その、時も……俺を……受け、止めて……?」  恐る恐る尋ねると、秀一が当然とばかりに頷いた。 「ま、それがきっかけで、お前の呼び名がヒナになったんだよ。可愛いだろ」 「か、かわいい、って……」  その言い方が、まるで子どもにでも接するかのようで、藍時は口を噤みつつ、少しだけ唇を尖らせた。  そんな様子を微笑ましく見つめる秀一は、その後も藍時が気になっていたことに対する答えを口にした。 「そこから、これは危ねえわと、当時住んでいたオレん家へ一時的に来てもらったんだ。今のマンションじゃなくて、別のところな。しかしオレがいるからといって、四六時中見張るわけにはいかないだろ。だからお前の傍に純を置くことにしたんだ。幸い、お前は子どもが好きだったし、何より純相手だと大人しかった。急に飛び降りることもそれきりで、もう離れても大丈夫だと思っていたら、今度は純が泣いて暴れるようになった。一緒にいるうちに、ものすごく懐いちまったんだ。それでオレは、じゃあどうするかと考えて、お前の身の振り方が決まるまでという期限付きで、オレ達三人の生活が始まったんだ。子どもがいるとはいえ、こっちは独身だから何も問題なかったしな」  独身とはっきり耳にして、藍時はそれまで気に病んでいた苦しさが、霧散したようだった。同時に、それまで頭の片隅で気になっていたことを、秀一に質問する。 「秀一さんって、ほんとは……ピアニスト、じゃない、ですよね……?」 「お。やっぱりおかしいって思ってたんだな?」 「ピア、ニスト……なら……苦手な包丁を……怪我するまで、使わない、と……思うので……」 「そりゃそうだ」  秀一は当たり、と照れ臭そうに笑った。 (ああ、この人は本当に……)  藍時の中で散っていた点と点が結びつき、フッと笑みを零した。熊田の言っていた、自分のことよりも他人のことばかりにかまけてしまうというオーナー。それが秀一の正体だった。

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