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第276話

「アシェル」  ボンヤリとした頭の中に声が響く。優しい声だ。何故か身体が重怠い。このまま眠ってしまいたい。 「アシェル、ごめんなさい。少し起きてください」  眠い。眠くて眠くてたまらない。だけど、こんなに悲しそうな声を無視するのは可哀想だ。  嫌だ嫌だと駄々をこねる重い瞼を持ち上げて、何度も瞬きをしながら瞳を覗かせる。  黒い髪に、赤い瞳の美しい青年がアシェルを覗き込んでいた。アシェルが起きたことで少し、口元に笑みを浮かべている。どこかの貴族のようだが、その瞳は随分と優しい。 「アシェル、もう少しだけ起きてください。いま眠ってしまうと夢が続いてしまいますから」  少しだけ、ほんの少しこうしていましょう?  囁く声は優しい。否、声だけではない。抱きしめてくれる腕も、汗をかいていたのだろう、額に張り付いた髪をはらい除けてくれる指も、柔らかな微笑みも、彼のすべてが優しい。  だが、だからこそアシェルの胸はわずかに痛む。わからないけれど、きっと、彼を傷つけてしまうだろう。 「……ごめんなさい」  ツキリと頭が痛む。でも、答えが見つからないから、言葉にするしかない。 「どうしました?」  何を謝ることがあるのだろうかと首を傾げる彼を、どうしてか狭い視界の中で見つめる。 「……だれ、で、しょうか……」  華美ではないが、一目みただけでわかるほど高価な衣装を纏っている。きっと貴族だろう。誰かわからない以上、礼儀を欠いては後々問題になるかもしれない。そう思って視線を彷徨わせたアシェルは、彼がほんの少し瞳を揺らめかせたことに気づかなかった。 「……私は、ルイです。ルイ・フォン・ロランヴィエル。あなたの婚約者です」  婚約者? 彼が? 「ロラン……ヴィエル……?」  誰だ。わからない。知っているはずなのに。だって、僕は――。 「僕、は……」  どうして何もわからない。自分に何が起こっているのか。 「アシェル、大丈夫です。そう難しく考える必要はありません。大丈夫、大丈夫です」  明確なものなど何もない。わからないことも沢山ある。どうしてここにいるのかも、なぜ、彼が自分の婚約者であるのかも。なのに、 「大丈夫ですよ、アシェル」  その優しい声が耳に届く度、どうしてか力が抜ける。  大丈夫。  なにが?  大丈夫だから。  何もわからないのに?  でも、彼は大丈夫だって、  誰かもわからないのに?  でも……、でも……、きっと、 「大丈夫です。側にいますから」  それはきっと、信じられる。  眠る前からずっと握っていたのだろう懐中時計を両手で包み込んで、アシェルはゆっくりと瞼を閉じた。次に目を覚ましてもきっと、彼は隣にいてくれると信じて。

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