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第20話 嘘か誠か
屋敷に戻ると、リグレットが約束していた恋愛小説を準備してくれていたけれど、読めるような気分ではなかった。
頭の中はサブライムのことでいっぱいだ。落ち着かなかった。太陽の塔へは行く。これは決定事項なのだ。
歌姫にからだを乗っ取られて消えるのか。
太陽の塔へは行かずに殺されるのか。
どちらを選んでも結果は死だ。肉体は残っても、おれが消えてしまったら、死ぬことと同じだと思った。
どうせ死ぬなら、人のためになって死ぬべきだ。おれのことを、ずっと見守ってくれていた人たちの思いを考えたら、そうするしかないってことはよくわかっていた。
けれど、サブライムがおれをつがいにしたいと言ってくれた。おれは消えたくないし、死にたくもなかった。サブライムのそばで、少しでも長く過ごすことができたら、どんなに幸せだろうか。
夕飯も喉を通らない。急に色々なことが襲ってきて、頭がいっぱいだったのだ。
その夜。ふかふかのベッドから布団を床に下ろして、そこに丸くなった。到底眠れそうになかった。
恋愛小説を開いては閉じを繰り返し、結局は諦めて大きな窓を開いてみた。そこから身を乗り出して外に視線を遣ると、中庭にある噴水のそばにエピタフが立っているのが見えた。
おれは窓の外にからだを滑り込ませると、近くの木を伝って庭に降りた。
「子どもは夜更しをするものではありません。早くお休みなさい」
そっと降りたというのに、振り向きもしないエピタフはそう言った。
「エピタフは、なにしているの?」
「なにもしていませんよ。ただ——月を眺めているだけです」
エピタフの隣にそっと立つ。すると、エピタフは唐突に言った。
「凛空。サブライムは諦めなさい」
話の意図がわからない。おれはエピタフの真紅の瞳を見返した。
「王宮での獣人の扱い。あの冷たい視線を貴方は感じましたね」
「うん——」
エピタフは「なら話が早い」と頷いた。
「天地がひっくり返っても、獣人が王のつがいになることはありません。サブライムが望んでも、周囲の者たちが許すはずがないのです。もし仮に、それを抑え込んで獣人をつがいにしたら——彼の求心力は今よりも更に低下するでしょう」
「それって。王様として、認めてもらえなくなるってこと?」
「そういうことですね。あの者たちには、獣人が悪魔の如く見えているのですから——」
エピタフの言葉は、どこか鬼気迫るものがあった。彼が常日頃、感じていることなのだろう。人間ばかりのあの王宮で、エピタフはたった一人の獣人なのだから。
「じいさんは、どうして兎族の長をつがいにしたんだろう。エピタフは王宮で一人ぼっちなんでしょう? 自分の子どもや、その孫が困るって思わなかったのかな……」
「あの人の心中は知る由もありません」
「でも——エピタフだって、好きな人くらい、いるんでしょう?」
彼は一瞬、目を見開いたが、「そんなものはいません」と震える声で言った。
「ともかく。サブライムには王宮で選定をしたつがい候補者が決まっています。王というのは、つがいを自由に選べる権利もないくらい管理されるべき一族だということです。凛空。サブライムに心寄せてはいけません」
まるでおれの心の中を見透かしているような言葉に、心臓が止まるかと思った。おれは黙ってエピタフを見返す。彼は眉一つ動かすことなく、静かな口調で言った。
「サブライムは自由奔放な性格で、思っていることを素直に口に出す人です。勘違いしてはいけません」
それは、おれに言っている、というよりは、まるで自分に言い聞かせるかのように聞こえる。
(もしかして、エピタフはサブライムのことが好き?)
二人の間にある絆。サブライムはどう思っているのかわからないけれど、エピタフは彼に愛情を寄せているのだろう。
美しい白兎の獣人。エピタフを目の前にして、心動かさない男がいるというのか。彼が獣人でなかったら、サブライムのつがい候補になっていたに違いない。そう。獣人でなければ——。
「あ、あの。エピタフは、サブライムのことが、好き……なの?」
彼は目元を朱に染めたかと思うと、視線を外した。
「皆が、彼が好きになる。王は皆に愛されるべき人です」
(それでは、答えになっていないよ……)
胸がぎゅっと締めつけられるように苦しくなった。王宮とはとても冷たいところだ。獣人であるおれに向けられる視線は、まるで刃物みたいにおれの心を傷つけてくる。そんな場所で、サブライムがおれをつがいにする、なんて言ったら。サブライムの立場だって危うくなるに決まっている。
エピタフはそう言いたいのだろう。耳が垂れた。なんだかしっぽも力なく垂れてしまっていた。ずきずきと痛む胸を抑えて、おれは俯いていた。
「我々は獣人。太陽の塔に行くこと。サブライムのこと。切り離して考えなさい」
エピタフは小さく頷いてから言葉を切った。
「貴方のするべきことをするのです。私は私のするべきことをします。獣人とは、それだけの存在なのです。——さあ、眠りなさい。明日の朝、答えを聞きに王宮が出向いてくるそうですよ。貴方は明日の朝までには決断をしなくてはいけません」
彼は雪白の耳を揺らすと、屋敷に戻っていた。
一人になってしまうと、とても静かな夜だった。大きな月が蒼白い光を地上に注いでいる。人間たちは眠りに就き、獣人たちは静かに行動する夜だ。
噴水の淵に腰を下ろし、流れる水音を聞く。
おれは、少し浮かれていたのだろう。サブライムがおれのことを好きだと言ってくれたことを、真に受けていたのだ。彼が優しくしてくれるのは、太陽の塔に行かせるためなのではないか。きっとそうに違いない。
太陽の塔に行って、歌姫として覚醒すれば、このからだの主がおれであろうと、歌姫であろうと関係がない話だからだ。
昔からおれのことを見てきた、と言うが、そんなことはなんとでも言えること。じいさんの報告書を読んでいれば造作もないことなのだから。
胸がちくちくと痛む。
(サブライムが欲しいのは、おれじゃない。歌姫の魂を宿している存在なんだ。おれは——)
このまま、この庭から外に出て逃げることだってできるはずだ。エピタフは、おれがそうするかも知れないというのに、さっさと屋敷に戻っていた。これは、おれに選択肢を与えているということなのだろうか。
物言いも厳しく、愛想もない。彼が笑っているところを一度も見たことがない。けれど、その厳しさの中には、優しさも隠れている気がしてならない。これはおれの願いでもあるのかも知れないけれど……。
(エピタフは、おれに逃げろって言っているの? おれはどうしたら……)
誰もいない庭は広すぎて、なんだか心が落ち着かなくなった。ぎゅっと拳を握りしめると、じいさんにもらった指輪の存在に気がついた。
『凛空。お前はお前だ』
(じいさん——。おれはどうしたらいいの? おれ……独りぼっちだよ。じいさん。じいさん……)
頬を撫でる夜風は、まるでじいさんの手みたいに優しかった。
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