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落つる甘露

幸長の屋敷の氷室には神さまが住んでいる。 そんな話が語り伝えられるようになったのは一体いつの代からだっただろう。 かつての大地主、幸長家の屋敷は広さだけは健在で。 その山の一部に埋もれるように建てられた日本家屋とだだっ広い庭。 その隅にぽつんと見える氷室。 電気が通り、家電製品が人の生活を担う今となっては不要な存在。 庭の隅で忘れられた、役目を失った過去の遺産。 小さく、簡素で、薄暗い。 そんな氷室の底で彼はひそかに息をしていた。 幸長翔太は久々の帰省で疲れていた。 まぶしい日差し、うるさくわめく蝉の声。 夏の熱気がむせ返る田舎の空気は大学生の翔太には苦痛でしかなかった。 コンクリートですらない田舎道は土を踏み固めたようなあぜ道。 スニーカー越しの感触はアスファルトよりはるかに柔らかい。 進学を期に都会で暮らすようになった翔太。 帰郷のたび懐かしさを覚える前に馴染めないまま都会へ戻ることを繰り返す。 きっと学生のうちはいい。暇があるから、親にどやされて行くことが叶うから。 多忙になればいつか帰らなくなるだろう。 だって田舎は退屈だ。 自発的に忙しいのに帰るなんて今の翔太には考えられない。 子どもの時も楽しい記憶なんて全て色褪せるか吹っ飛んでしまった。 なんで子どもの頃は時間も忘れてこんな山の中を一人で駆け回れたのだろう。 親族同士の宴会もたけなわ。 翔太が抜け出しても数が多い分気付く者もいない。 夕暮れのまだ蒸し暑い庭を歩く。 柔らかい土の感触とゴツゴツとした石が混ざり合う慣れない感触。 一歩ごとに違和感を訴える。 不意に冷たい風が翔太の横を通り過ぎた。 気になって風の方向を向くと庭の隅にある氷室が真正面に見えた。 「ほぅ」 濡れた肌とため息のような声がどこからかもれて聞こえる。 氷室の入り口にもたれかかるようにして翔太を見ている人影。 夕暮れの薄明かりの中、透けて見える美しい髪。 ぱりんぱりんと割れては落ちる氷の髪。 口から漏れ出す冷気。 目が合うとその瞳の色彩が美しいせいで声まで凍りついてしまう。 育ちきった男の骨格をしているくせにどこもかしこも細いそれ。 美しい指を伸ばされると体が凍って動けなくなる。 瞳ももう彼から離すことができない。 「ッ」 彼と目があった瞬間、縫い付けられた翔太の影は冷たい風の吹きこんだ方へと進む。 影が進めばおのずと体も進む。冷たい風の吹きこんだ方へ。それの方へ。彼の方へ。 一歩、一歩と足を進め、ついに氷室の中を覗き込んだ翔太は邂逅した。 凍った氷の髪と透き通った色をした碧い目玉。 真っ白な肌と冷たい吐息を吐き出す桃色の唇。 白の中に金の混ざる美しい施しの成された着物と金魚の尾のように真っ赤でふうわりとした帯。 美しい。おおよそ人ではない風体の青年。 彼が自ら手を伸ばして翔太に触れた。 触れた先から絡み付つくみたいに抱きしめられる。 「あったかい」 子どものような無邪気さを声ににじませ、目元には安堵の笑みが浮かぶ。 氷の髪が彼を濡らす。 近付いた翔太の体の熱で溶けだすほど繊細な氷が彼を翔太をじわりと濡らしていく。 「あったかい」 濡れることなど気にも留めず、彼が何度も繰り返す。 その声があまりにも嬉しそうで。 翔太も同じく彼を抱きしめた。 「あったかい」 それだけを繰り返す彼はとても嬉しそうだったから。 氷の髪が溶けて二人して濡れるのも気にせず抱き合い続けた。 「あったかい」 それだけの言葉を何度も重ね、彼は翔太の頬に触れる。 髪を指で梳り、確かめるように唇に触れた。 指の腹で何度も翔太の唇の輪郭をなぞり、彼を見上げた。 「……いいよ」 翔太が許すと彼が笑う。 きゅっと首に細い腕が回ってきて、飛びつくように唇を奪われた。 遠くで蝉が鳴いている。 弱く響く蝉しぐれの中、冷たい彼の吐息と熱いの翔太の吐息が混ざり合う。 「あったかい」 彼の顔がくしゃりと崩れて大粒の涙がほろほろとこぼれる。 溶けて濡れる冷たい彼を溶かすのは彼がこぼす熱い涙。 「しょーた」 全てが溶けきる前に流れ込む優しい温度。 ひんやりと体を濡らす、その冷たさを翔太は知っていた。 昔この手と一緒にどこまでも行った。 山の中を、沢を、川を。 この手を繋いでいればどこへでも行ける気がした。 それほどまでにたくさん遊んだ。 小さい頃の翔太と遊んでくれた存在を思い出す。 この家に帰る夏、子どもの頃の翔太には大切な友達が居た。 見知らぬあの子の柔らかい手の温度が翔太の中によみがえる。 「ああっ……!」 蝉しぐれが真上から降り注ぐ。氷室を包む。楽しい夏を思い出す。 名前も知らないあの子と遊んだ思い出があの夏がいくつもいくつも浮かんでは消える。 あんなにも楽しかった。あんなにも大切だったあの子は俺を忘れずに今の今まで待っていた。 それなのに……! 遠くで風鈴が鳴る。 ふうわりと新鮮な風が氷室の中に吹きわたり、ひんやりと冷たいあの子の温度を感じる。 その温度に抱かれながら翔太の中にこみあげたのは涙。 さっきあの子が流したのと同じ熱い熱い涙だった。

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