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一、
「康辰、俺、死んじゃったんだけど」
連絡を絶ったまま三日間帰ってこなかった長男がそう言いながら目の前に現れた時、三男である康辰は大して驚くでもなく「だからあれほど言ったじゃん」と呆れ返って低く呟いただけだった。
撫でていた猫は、康辰の手のひらの上の煮干しを食べ終わるとさっさと踵を返して路地裏から消えていく。つまらない冗談はよせ、と言わなかったのは、その猫達が当たり前のように奥光の身体をすり抜けていったためでもあり、この極寒の中パーカー一枚で突っ立っているのにやけに飄々としているという強烈な違和感のためでもあった。そしてそれ以上に、最悪こうなるんじゃないかという漠然とした予感みたいなものがどこかにずっとあったためであった。
「なー、どうしよう、俺」
故人である奥光は、然して困っているふうでもなく呑気な笑みを浮かべながら康辰の元へと歩いてくる。確かに地を踏んでいるはずなのに足音は一切しない。康辰は、冷え切った外気に晒されてかじかんでいた両手の指を擦り合わせながら、自分が無性に苛立っていることを自覚し始め、小さく舌打ちをした。
■
兄と言っても、奥光は康辰の実の兄ではない。まだ康辰が六歳という物事の分別もつかない年頃の時に、母親の再婚相手が連れてきた二歳上の少年が、奥光だった。以来、元々兄が一人と弟が一人という構成だった康辰の兄弟構成は、兄が二人と弟が一人になり、康辰は次男から三男へと降格されたてしまった。母が「男ばっかり増えていくわ。もう」と不服げに言っていたことを何故かよく覚えている。
義父に連れられて少し不安そうに、しかししっかりとした声で「奥光、八歳です。よろしく」と簡潔に自己紹介を済ませた彼の姿も、康辰は今でも鮮明に思い出せる。人見知りの激しい康辰がそれに応えるようになんとか名を名乗ると、これから兄となる男はにこっと人懐っこい笑みを浮かべた。まだ幼く素直だった康辰はその顔を見て、張り詰めていた緊張の糸が解れ、コイツはいい奴かもしれないと、新しく家族に加わる少年に対して好意的な印象を抱いたのだ。
しかし。それまでは比較的平和だった三兄弟の頂点に君臨することになった奥光は、一言で言えば、「暴君」であった。
彼は、腕っ節が強くて喧嘩っ早く、何でも自分の思い通りにしたがる自己中心的な性格をしていた。どちらかと言えば内向的で一人で遊ぶのが好きな康辰とは正反対で、康辰はしょっちゅうおもちゃを取られたり、お小遣いを取られたり、夕食のからあげを取られたりしょうがやきを取られたりと被害を被り、その度に次男である臣辰が応戦してくれたのだ。奥光と臣辰の取っ組み合いの喧嘩を前にした康辰は、無力に泣きながら「力なき正義は悪にも劣る」という事実を身をもって学び、とんでもない悪魔を連れてきた母のことを少し恨んだりもした。さらに義父も呑気な人で、悪魔に虐げられる義弟達を見て「お前たちは仲がいいなぁ」と笑うばかりで息子の悪行を止めることなく野放しにしていたのだ。当時はそれが非常に恨めしく、義父のことが結構嫌いだった。
康辰少年は一人で本を読んだり絵を描いたりするのが好きな子供だったのだが、奥光暴君はどこにいくにも弟三人を連れて行きたがるため、しょっちゅう外遊びに付き合わされるようになった。度胸試しと言って公園の滑り台から飛び降りることを強要されたり、流れの早い川に突き落とされたり、廃墟の探索に連れて行かれたり、気狂いが住んでいると噂の荒れ果てた民家の庭に侵入し、そこの飼い犬に餌をやる遊びに付き合わされたりと、毎日が過酷な修行のようで康辰の心が休まる暇は無くなった。
奥光はスリルを求めて、率先して危険な遊びを発案し、計画性もなく実行する子供だった。一度それである事件に巻き込まれて痛い目を見たというのに、全く懲りなかったのだから大したものだと康辰は思う。一人で勝手にやってくれと思う一方で、奥光の思いつく刺激的な遊びに惹かれ、楽しいと感じていたのも事実ではあった。それに、こちらがいくら拒否しようとしても、どこにでも弟達を連れて行きたがったのだ。
「一人っ子だったから、弟ができて嬉しいんだよ、相当ね」
と、放任主義の極みのような義父はまたもや呑気に言った。
そんな暴君である奥光だが、不思議と慕っている子供も多かった。物怖じせずに言いたいことを何でも言ってしまう性格や、例え相手が上級生でも理不尽な行いをされたら躊躇なく殴り返す勇敢さなど、強い男に憧れる小学生男子が惹かれる要素を多く持ち合わせていたのだから当然と言えば当然だと、今になって考えたら腑に落ちる。当時も感覚的には理解していて、それは兄の臣辰も弟の滝辰も同じだったように思う。
中学にあがって、内気な性格ゆえに同級生にいじめられるようになった康辰を助けてくれたのも、奥光だった。同級生を全員のした後に「こんな奴らに負けるお前が悪い!」と顔面を重点的に殴られたのは腹が立ったが、一応助けてくれたことには助けてくれたのだし、そういう奥光と頻繁にやり合うようになって、相変わらず内向的ではあったが多少は腕が立つようにもなった。
家から離れた公園で滝辰がすっ転んで怪我をした時も、おぶって家までの道のりを歩いてくれたし、臣辰がクラスの女子にあることないこと噂を立てられ嫌がらせを受けていた時なんか、その女子の顔面をビンタしたというのだ。いかなる理由があろうと女に手をあげないことを信条にしている臣辰は奥光と揉めていたが、康辰は「すげえな、こいつ」と関心してしまった。
幼少から引き続き理不尽な暴力や飯や金の強奪も多々あったが、奥光は奥光なりに「長男」をやろうとしていたのではないかと思う。そして康辰らも、いつの間にか奥光が「長男」であることがしっくりきていた、ように思う。
やがて高校に上がる頃には、奥光はほとんど暴力沙汰を起こさなくなり、弟らに理不尽な暴力を働くこともなくなり、周囲からは「牙が抜けた」と揶揄われていたが、それでも彼が「長男」であることは弟たちの脳に、身体に刷り込まれていた。それは彼が高校を卒業して就職した工場を「かったるい」という理由でわずか二ヶ月で飛んだ時もそうだったし、その後仕事もせずにふらふらしている時もそうだった。
各々が「クズ」「怠惰なクソ野郎」「社会のゴミ」と口では罵倒しながらも、彼がどんな人間になろうと自分たちの中で彼は「長男」であり続けるのだと、三人ともがそう思って疑わなかった。
■
最初にその異変とも呼べない小さな変化に気づいたのは、確か夏が始まって間もない頃のことだった。冬服は押し入れの中に押し込まれて、半袖シャツに腕を通すようになった頃。学生ではなくなった康辰が初めて迎える、「夏休み」ではない、ただの夏。
康辰は高校を卒業した後に、奥光と同じように仕事もせずふらふらしていた。つまりは、兄の後を追い無職になったのだ。
幼い頃は「人見知り」で済んでいた性格も、成長と共に「コミュニケーション障害」「社会不適合者」などという仰々しい名称を与えられ、自身がそれを気にすれば気にするほど余計に悪化していった。学校に行って同級生と会話をするだけでも酷く疲弊する康辰は、進学も就職も自身には不可能だと早々に諦めて、「俺はとりあえず、一年ぐらい何もしないでおこうと思う」と宣言したのだ。それを聞いた奥光は「マジぃ?」とニヤニヤし、臣辰は「正気か?」と唖然とし、滝辰は蔑むような冷たい視線を向け、母は「あんたは何でそう変な方向に思い切りがいいの」と床にへたり込んでしまった。
母と臣辰は何度も「とりあえず進学しろ」と説得をしてきたが、義父と奥光は好きにすればいいと干渉してこなかった。康辰はその反応の差に、「血だなぁ」と他人事のように思ったりした。
「まぁ、お前は大丈夫でしょ」
なんだかんだ、一番しっかりしてるもんね、お前。高校卒業を間近に控えた康辰に、唐突に奥光がそんなことを言った。「お前に言われても説得力がねえよ」と返すと、奥光は「かわいくねーの!」と康辰の背中を肘で打った。痛えなバカ、と思いつつも、康辰は内心まんざらでもなく、それが少し悔しいと思った。
その夏、無職の先輩である奥光はその頃、一応フリーターという名目で働いたり、働いていなかったりしていた。次男の臣辰は大学生、滝辰は高校二年生となっていたが、誰一人として家を出ていかなかったので、図体のデカい男が四人もリビングに揃った時なんかは、暑苦しくて仕方がない。母には頻繁に「誰か早く自立しなさいよ」「何で四人も居て二人がプー太郎なのかしら。育て方間違えたわね」とチクチク言われ、その度に康辰と奥光はわざとらしく耳をふさいで聞こえないフリをするのが習慣となっていた。
そんなある日の、昼過ぎのこと。
「あれ、奥光出かけるの」
「んー」
やっと起きてきた奥光が、寝癖も直さぬまま玄関でサンダルに足を突っ込んでいた。この頃の奥光はラーメン屋のバイトを飛んだばかりで、昼に起きて朝方に眠る生活を送っていたはずだった。眠たそうに目をこすっていて、いつもだったらこのまま二度寝にでも入りそうなものなのに、と康辰は少し意外に思う。
「何、パチンコ? 競馬?」
「まぁ、そんなとこ」
あぁそう、行ってら。行ってき。と適当な挨拶を交わして、奥光は炎天の元に繰り出していった。康辰は玄関から外の熱気がわずかに流れ込んできたのを背に感じながら、リビングのドアを開けた。テーブルには長男が昼食をとった残骸である空の食器が置きっぱなしになっていて、母が「奥光、食べたらさっさと食器持ってきなさい」と流し台の方から叫んでいる。
康辰は椅子に腰を下ろして「奥光兄さん、ついさっき出かけてったよ」と母には到底届きそうにない声で呟いた。
「何だよ、あいつ。片付けもしないで」と反応したのは四男の滝辰だった。高校の夏休みが始まり、昼間っから家で悠悠自適に過ごしていたのだ。馬鹿め、と康辰は思う。滝辰の言葉を聞いた母が「奥光いないの? じゃ、滝辰代わりに持ってきて」と声を投げ、滝辰は長男の代わりに食器を片付ける宿命を背負わされることになる。末っ子だからとやや甘やかされて育った滝辰は、少し要領が悪いのだ。
「お前、姑息な手ぇ使いやがって」
長男の尻拭いをさせられた四男は暫くの間文句を言っていたが、携帯電話のメール受信音が鳴ると急いで飛びついて、熱心にぽちぽちと文字を打ち込み、ニヤニヤして返事を待ち……を繰り返すようになった。色気づきやがって、と康辰は弟に睨みをきかせる。
その頃にはもう、長男の言動に珍しさを感じたことなど、とんと忘れ去っていた。
そうした小さな違和感を覚える日が、週に二度三度あった。普段ならば金がないから一緒にパチンコに行こうだの競馬に行こうだのとにかく楽して金を稼ぎに行こうだのと鬱陶しかった奥光からの誘いがほとんど無くなったと気づき始めたのは、寝苦しさで目を覚ますようになった夏も真っ只中に入った頃だ。
その日は康辰の他に、奥光と滝辰が家に居て、滝辰は自室にこもっていた。大方、また携帯と睨めっこしているのだろう。
よくやるなぁ、と康辰は思う。この家でエアコンが設置されているのは、一階にあるリビングと両親の寝室のみで、二階にある兄弟四人のそれぞれの自室は、この季節、蒸し風呂のようになるのだ。就寝時は扇風機を使ったり熱冷ましのシートを貼ったりと各自なんとか工夫をして過ごすが、日中はとてもじゃないが自室になんて居られない。
康辰はクーラーによって心地よく冷えたリビングで、義父の書斎から拝借した文庫本を眺めていた。奥光はソファに寝転がって漫画を読み耽っている。もう誰の物だったのかもわからないほど兄弟間で回し読みされ尽くしたギャグ漫画だ。時々小さく笑い声を漏らす奥光に視線を送った康辰は、文字を追うのに疲れた本を床に置く。
「そういえば奥光、最近よく一人でどっか行くよね」
「え、俺? そう?」
奥光は漫画に視線を落としたまま意外そうな声をあげた。
「そうじゃない? いや、知らないけど」
「なんだそれ」
彼は鼻で笑い、ページを捲る。
「馬、調子いいの?」
「やー、全然。もう、すっからかん」
抑揚のない声で言う。これはきっと嘘ではない。先日、彼が次男である臣辰に金をせびっているところを目撃していた康辰はそう思った。第一、大当たりして連日遊び歩いているのだとしたら、何かしらのボロを出すはずだ。滝辰ほどとはいかないものの、奥光も大抵ツメが甘いタイプなのだ。
「じゃあ……タダで入れる良い避暑地でも見つけた?」
「ヒショチって何?」
「涼める場所」
「んなもんあったら昼間っから家で漫画読んでねえっつの」
不満げに言って、漫画から視線を外す。確かに。と納得する。長年この街に住んでいるが、そんな都合の良い場所なんて一度も見かけたことはない。それに、そんな場所を見つけようものなら、この男は弟達に嫌というほど自慢して回るに決まっている。
だったら、どこに行っているんだ。ぼんやりとした疑問でしかなかった事柄が、正体が掴めないとなると無性に気になり始めた。
「じゃあ……」
康辰は天井を見上げて少しの間思惟し、「彼女」と言葉にした。しかしすぐに、嘲りながら取り消す。
「……は、ないか。それはない。お前みたいなクズの権化にそんなもんが出来るわけない」
奥光に女の影があったことなんて、今までで一度もなかった。男の友達は割と多い彼だが、女からは昔から忌み嫌われていた。野蛮なガキ大将の宿命であり、あのビンタ事件がさらに拍車をかけたのだろう。加えて今は、無職なのだ。
そもそも男兄弟で育った康辰らは、女というものに強く惹かれながらも同時に女というものを激しく恐れていた。接し方がわからないのである。唯一女と接点を持っているのは、滝辰ぐらいなのではないだろうか。
「なんで俺は急に罵倒されたんだよ」
奥光が非難の声をあげる。
「まぁ、大丈夫だよ。彼女が一生できなくても、生きてはいけるから」
「何で哀れまれてんの、俺。ってかおい、お前も同じ立場だからな」
「俺はそのへんちゃんと弁えてるんで。あんたとは違うんで」
「彼女とか言い出したのお前じゃん。俺なんも言ってなくね? お前ほんと最近クソ生意気な!」
昔はもっといい奴だったのに!と奥光がワァワァと騒ぎ出したので、康辰は些か気分が良くなった。これは小さな復讐だった。昔は悪魔だ暴君だと恐れていた長男だが、もう背丈も追いつき、頭の回転に関しては追い越した自信がある。彼を揶揄ったとしてももう昔のように殴りかかっては来ないし、無茶苦茶な理論で言い負かされることもない。
クーラーの冷風が時おり康辰の頬を撫でる。窓の外から、鋭い陽の光が夏の熱気と共に家の中に侵入しようと隙を窺っているような気配がした。だが、密閉され冷気に包まれた部屋にいる康辰にとっては、外の暑さなどまるで別世界の出来事のように遠くに感じられた。
「じゃあ、新しい趣味でもできた?」
このクソ暑い中、こいつがそんな気を起こすとも思えないが。そう思いつつ康辰が聞くと、
「やけに気にするね、康辰」と、奥光はニヤニヤしながら言って、漫画をソファに置いて身体を捻り、康辰の方に向き直った。
「何、気になんの? 兄ちゃんが最近何してるか気にしてんの?」
目を細めて、奥光は甘ったるい声を出す。上昇していた気分が、瞬間に下降を始めたのがわかった。不愉快さを顕にした康辰の顔を見ても、むしろその顔を見て気分を良くしたのか、奥光はなおも猫撫で声で続ける。
「もしかして寂しがってんの? 俺が遊んでくんなくて寂しがってんのか?」
康辰は、肘掛けに顎を乗せてこちらを見下ろしている奥光を忌々しげに見上げた。子供の頃と変わらないと言えば嘘にはなるが、あの頃の面影を色濃く残している意地の悪そうな笑顔。康辰は意識的に、自らの顔から一切の表情を追い出して、そのニヤけ面と向かい合った。
「……やす?」
康辰の愛称を口にする兄の黒い瞳を、脳味噌の動きを止めて、黙ってじいっと見つめる。
「なぁ」
「……」
「やすたつ……」
「……」
「悪かったよ」
奥光が音を上げた。面倒臭くて仕方のない兄の絡みには、乗らない方が良い。何故ならば、面倒臭いからだ。たとえ否定しようが都合の良いように曲解して調子に乗るのは目に見えている。康辰は先ほど閉じた本を目測で開き直して
「まぁ、奥光兄さんがそう思うんなら、そういうことなんじゃないでしょうか」と奥光に背を向けた。
「何その感じ、そういうのが一番傷つくんだけど」
「本読むんで話しかけないでもらっていいですか」
「そっちが話しかけてきたんだろ!」
マイペースだの自分勝手だの自己中だの、同じ意味の文句をいくつか背中に投げつけられながら、パラパラと本のページをめくる。読み覚えのある文章と記憶にない文章の境目を見つけて再び文字を目で追いかけ始めた頃には、奥光は気が済んだのか大人しくなっていた。
耳に入ってくるのは、エアコンが熱心に冷風を送り出す音と時折上の階で滝辰が立てる物音くらいなものだ。康辰は大して興味もなかった本に、次第に熱中していった。
上手くはぐらかされたのだと気づいたのは、本の内容が終盤に差し掛かり、奥光がぐうぐうと寝息を立て始めてからだった。
以降も、奥光の調子は変わらなかった。起きるや否や、サンダルを突っかけて一人で出かけることが多々あって、夕飯の前には帰ってきたり、深夜を回ってから帰ってきたり。兄弟揃って近所の安居酒屋に飯を食らいに行く際にも、奥光が抜けていることもままあった。
別に、兄弟が普段どこで何をしていようと構いはしない。ただ、はぐらかされたことが面白くなかった。それに、あれ以来奥光がわざとらしく、頻繁に康辰を遊びに誘うようになったのも憎たらしかった。ゆえに、連れ立って打ちに行くことはあっても再びその話題を振ることは避けていたのだが、拭えない違和感が康辰を更に苛立たせていたのだ。そんな悪循環に襲われている康辰とは裏腹に、奥光は相変わらずお気楽そうで、長男・奥光を全うしていた。
だが、そんなある日、転機が訪れた。それは、ある蒸し暑い朝(と言ってももう正午を過ぎていたが、皆が布団から這い出してきたので兄弟間では朝という認識だ)のことだった。
「あいつ、最近どこに行ってんだろうね」
滝辰が当たり前のようにそう言い放ったのだ。康辰はソファに名転がりながら、無関心を装うことにのみ集中した。全身に無関心を被ってから、視線だけを卓で肘をついている滝辰に送る。
「あいつって、奥光か?」
大学が夏季休暇に入ったのにも関わらず、バイトもせずろくに遊びもせず、家に根を張っている次男の臣辰が聞き返す。
「うん。最近よく一人で出かけてるから」
「そうかぁ?」
次男はテレビの中の美人キャスターを熱心に目で追いかけながら、別段関心もないといったふうに相槌を打つ。
「そうだよ。前まで暇さえありゃ人にちょっかい出してきてたでしょ。それが、最近はあんまりない」
「いいことだろ」
「そう、いいことだよ。僕たちの平穏が保たれている」
「じゃあ、問題ないじゃないか」
「でも、そこで僕は恐ろしい考えに行き当たったわけ。まさか、できたのかなって」
滝辰の含みを持たせた言葉に、臣辰の視線が美人キャスターから彼に移る。
「できたって、何が」
兄の問いに、口を結んで眉を寄せていた四男は一度深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。そして短い沈黙ののち、重々しい口ぶりで
「彼女」と深刻そうに言い放った。
室内から一切の物音が消え、四つの目が滝辰を凝視した。永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、臣辰の「バカな」という一声だった。康辰は、自分と滝辰とが全く同じ思考回路をしていると知り、気恥ずかしさを感じて一人項垂れた。
「あんな女っ気のない野蛮な男に、彼女か……」
臣辰は険しい顔でそう言い、「まぁ、世の中には物好きもいるからな。粗暴で無神経で金のない無職と付き合いたいという女性がいても不思議じゃないだろ」と続ける。
「それが、何か問題か? 別にあいつの好きにすればいいじゃないか。何だ、嫉妬か?」
「馬鹿が、問題大ありでしょうが!」
突然滝辰が大声をあげたので、次男と三男は驚いた。元来この末っ子には少々ヒステリックな一面があるので、彼の扱いに長けている臣辰は「何がだよ」と先を促す。康辰はあえてそこに参加することはせず、兄弟の反応を伺うことに徹した。
「いい? あいつは今、無職なんだよ。高卒なんだよ。一文なしなんだよ。それが、もし彼女ができて、妊娠でもさせてみなよ」
康辰は、突如弟の口から放たれた「妊娠」というワードに肝を冷やした。遠い世界の現象のように思っていたそれが実の弟の口から出てくるのは、どういうわけか、嫌な感じがした。
「うちはただでさえ穀潰しが二人もいて火の車なのに、余計に金がかかるわけ! しかもあいつがまともに働くだなんて思える? 僕は思えない。やばいよ、僕ら、一家総出で奥光たちを養うことになるんだよ」
こいつ、ヒステリックに加えて妄想癖でもあるんじゃないだろうか。「穀潰し」という言葉は聞こえなかったふりをして、康辰は弟のことが心配になった。しかし弟の突飛な未来予想図を聞いた臣辰は「確かに。ありえない話ではない」と考え込んでしまう。
「あいつは危機管理能力のない単細胞バカだからな。初めてできた彼女と羽目を外しすぎて……なんてこともありえる」
「でしょう? 僕たちは弟として、それを阻止する義務がある」
ねえだろ。康辰は心の中で呟く。長男も馬鹿だけど、彼らも同じくらい馬鹿だ。母親が不憫に思えて仕方ない。遠巻きに残念な兄と弟のやりとりを眺めていた康辰だが、ふと臣辰が視線をこちらに向けたため、目が合った。思わず身構えると、臣辰が口を開く。
「康辰、何か知らないか」
「え、なんで俺……」
聞き返すと、臣辰の代わりに滝辰が「確かに。兄貴仲良いじゃん、あいつと」と当然のように言った。康辰は一瞬言葉に詰まる。心外だと否定したい気持ちと、誇らしいようなむず痒い感覚が同時に起こった。だが、小さく息を吐いてそれらを全て排除し、動揺を悟られないようにつまらなそうに言う。
「知らないよ、別に何も聞いてない。っていうか興味ないし」
本当は誰よりも早く奥光の言動に違和感を覚え、誰よりも早く本人にそれを伝えているのだが。とんだ嘘吐きだが、兄弟らは康辰の言葉を疑うことなく素直に受け止めたようで、滝辰は残念そうに言う。
「そっか。まぁ、もし彼女できたら真っ先に自慢してくるかぁ」
「あぁ、そうだろうな」
「でも、万が一ってこともありえるから、怪しい行動を取ったら僕たちの間で共有し合うようにしよう。わかった? 康辰」
「はいはい」
結局のところ皆、誰か一人が良い思いをしているのは許せないたちなのだ。
その時、リビングの窓の向こうから「あんたたちさぁ」と声が飛んできて、三人とも飛び上がるほどに驚いた。網戸の向こうを覗けば、麦わら帽子を被って鎌を持った母が呆れたようにこちらを見ている。どうやら庭仕事をしながら息子たちの話を聞いていたらしい。帽子を外して汗をぬぐいながら、母は複雑そうな顔をして言った。
「仲がいいのは、いいことなんだけど……。ちょっとは兄弟離れしなさいよ。夏休みだっていうのに、ずっと家にいるんだから……」
康辰はとてつもなく恥ずかしくなったが、兄と弟は平気な顔をしていた。
不毛な妄想談義が終わり、康辰は特に目的もなく近所をふらふらと歩いていた。真っ青に晴れ渡る空に気分を良くして足を進めていたら、普段あまり足を伸ばすことのない所まで来てしまった。
強い日差しがじりじりと康辰の肌を焼く。こめかみや太腿を、ぬるい汗がいくつも滑り落ちていった。Tシャツの胸元を掴んでパタパタと風を起こしながら、康辰は額の汗を拭った。酷く喉が乾いている。
気にしすぎなんだろうか。と、先ほどの兄弟たちの会話を思い起こし、ぼんやりと考える。同じ屋根の下で生活を共にしているのに、奴の言動に強く引っかかっているのは恐らく自分だけだ。康辰はその事実に、妙な羞恥と嫌悪感を覚える。
「あー。いーや、もう。気にしない。実際、どうでもいいし」
虚勢のように一人呟いて、飲み物でも買って少し涼もうとコンビニの自動ドアをくぐった。ひんやりとした空気に包まれて、康辰は思わず目を細める。店員のやる気のない掛け声を右耳に聞きながら、ペットボトル飲料が陳列されている店の奥へと向かう。と、視界の端に、見覚えのある背格好の男を捉えた。康辰は咄嗟にカップ麺がぎっしりと並べられている棚に姿を隠し、目を凝らして様子を伺った。
レジで弁当を買っているのは、やはりどこからどう見ても奥光だった。彼は会計を済ませると、コンビニ袋を提げて店を出、家とは反対の方向に歩いていく。後をつけるべきか、康辰は暫く迷った。つい数分前に、もう奴の行動を気にかけないと決意したばかりだったからだ。しかし、何か掴んだら共有すると兄弟で協定を結んだ手前、ここで見なかったふりをするわけにもいかない。康辰はそれを言い訳にして、飲み物も買わずにコンビニを出て奥光の後を追いかけた。
彼はビニール袋を前後に大きく振りながら、少し入り組んだ住宅街へと入っていく。人通りがほとんどなく、振り返られでもしたらすぐに見つかってしまいそうだったため、見失わない程度に距離を取って後をつける。
やがて奥光が二階建ての木造アパートの外階段を登り始め、康辰は慌てて距離を縮めた。築年数は五十を越えているであろう古びた建物で、クリーム色の外壁は所々黒く汚れ、鉄骨階段も酷く錆び付いて塗装が剥がれている。奥光は階段を登り終えると、角の部屋の戸をノックした。すぐに戸が開き、彼は一言二言何かを言って中に入っていく。扉が閉まる直前に、家主であろう男の顔が見えた。その頬には大きな傷があり、康辰はその傷をどこかで見たことがある気がした。
■
奥光は、小学生高学年の頃に一度、行方不明になったことがあった。
普段は兄弟四人で遊ぶのだが、その日は康辰が風邪をひいて寝込んでいて、臣辰と滝辰も他の友達との約束があったため、奥光は一人で廃屋に忍び込んで遊んでいたのだという。しかしそこで不運にも、彼は強盗犯に鉢合わせたのだ。
そいつは、隣の県で銀行を襲い金を奪ったあと、一時的に身を隠すためその人の寄り付かない荒れ果てた廃屋を住処にしていた、鮮度の高い強盗犯だった。奥光は男の顔を見た瞬間に身の危険を察知し、すぐに逃げようとした。が、あっさりと捕まり、ロープでぐるぐるまきにされたのだと後に奥光本人が語っていた。
「マジで殺されるかと思った。絶対誰にも言わないって言ってんのに、あいつ全然信じてくれないんだもんな。俺まだ子供だったってのに、遠慮なく殴るわ蹴るわでさ、あの時ばかりは神に祈ったね。あそこで解放してくれてたら、俺ほんとに墓場まで持ってくつもりだったのに。人を信じないから捕まんだっての」と、いつだったか、奥光が文句を垂れていたのは記憶に新しい。
両親から聞いた話だと、強盗に「家の住所や家族構成を教えれば帰してやる」と言われても、奥光は頑なに口を割らなかったそうだ。そのせいで、翌日に警察が廃屋に乗り込んで強盗の身柄を拘束した時には、兄は憔悴しきっていたと聞いた。夜通し探し回っていた父と母は、保護された奥光を一眼見た瞬間にとてつもない安堵に襲われ、我を忘れて涙ながらに抱きしめたそうだが、当の奥光は何ともない顔をして「さっき親子丼食わしてもらったんだけど、超うめぇ」と言ったため、母に平手打ちされたのだという。
康辰はその間ずっと高熱にうなされており、「なんか騒がしいなぁ」くらいにしか思っていなかったのだが、快復した頃に両親や兄弟らからその話を聞かされ、震え上がった。兄が強盗に軟禁されて暴行を受けたという話ももちろん恐ろしかったのだが、そこまでされて口を割らない兄にも、恐怖に近い感情を抱いた。
もしも自分が奥光の立場だったら、黙っていることができるだろうか。恐くて、一刻も早く開放されたくて、家族のことを話してしまうのではないだろうか。康辰は、二つしか歳の違わない兄の根性に、畏怖さえ覚えた。
それからしばらくは、我が家ではニュース番組や新聞を見ることを禁止された。例の事件はそこそこ大きく報道されているらしく、奥光が事件のことを思い出して傷つくといけないという、両親の計らいだった。しかしそう隠されると逆に気になるもので、康辰は学校のパソコンをいじくり、事件について簡単に調べたのだ。
確保された犯人には、強盗、暴行の他に窃盗や殺人などの複数の容疑がかけられていた。ネット記事をスクロールしていくと、男の顔写真も掲載されていて、康辰はその画像を食い入るように見つめた。細く鋭い目と太い首が軍人じみた凶悪な印象を与えるその男は、体格が良く、鷲鼻で、頬には大きな傷がついていた。
■
翌々日、昼。目を覚まして居間に向かうと家族は出払っていて、奥光のみが遅い朝食だか早い昼食だかを食べていた。おはようと挨拶を交わし、康辰は腰を下ろしてラップの貼られた食事に手を伸ばす。
「母さんは?」
「どっか出かけた」
「あそう」
白米も鮭もその他のおかずもすっかり冷め切っているが、康辰は無心で咀嚼する。
「奥光さぁ」
奥光がこちらを向いた気配がしたが、康辰は左手の茶碗を凝視しながら続けた。
「あいつの家に何しに行ってんの」
奥光の手が止まる。康辰は、ウインナーに箸を突き刺して口に運んだ。「あいつって?」と奥光が言うが、これには返事をしなかった。無言で咀嚼を続けながら、奥光の視線が自身に向けられているのを感じる。
このまま、すっとぼけるつもりなのだろうか。そうだとしたら今度は、デジカメでも持っていって、証拠写真を撮るしかあるまい。康辰がそう考えていると、奥光はあっけらかんと
「なに、もしかしてあとつけた?」と口を開いた。
「偶然見ちゃっただけ。奥光があいつの部屋に入ってくとこ」
彼はあちゃーとわざとらしく言って頭を抑える。その芝居がかった言動は、まるで子供への応対のようで、康辰の腹の奥に燃えるような憤りを生んだ。
「何しに行ってんの」
「えー別に、何するって訳じゃないけど。ただテレビ見たり、飯食ったり、寝たり。家にいんのと変わんねえよ」
白を切るでもなく、悪びれる様子もなく、奥光はこともなげに言う。
「それは、何のために?」
「何のためって、……どういうこと?」
「脅されてんの?」
康辰の言葉を聞くと、奥光は重たげだった目蓋を開き呆気にとられたような顔をした。それから、軽快に笑い出す。何が可笑しいのかわからない康辰は、怪訝な面持ちで冷えた飯を飲み込む。
「何言ってんの、お前。ふつーに、遊び行ってるだけだって!」
奥光は愉快そうに言う。お前が何を言ってるんだ。何が普通なんだ。と康辰は思った。だって、あの男は犯罪者で、子供だったお前は暴力をふるわれて、痛い目を見たんじゃないか。いつ出てきたのかは知らないが、刑務所に入っていたはずだ。それに
「お前、あいつに殺されてたかもしれないんだよ」
「お前、よく覚えてんねー」
感心したように言って、彼は食べかけの鮭を箸で割いていく。
「大丈夫だっつーの、あれから何年経ったと思ってんだよ。あの人もさぁほら、更生っていうの? 足洗ったとか言ってるし。そもそも俺、もうあんなおっさんに負けねーし」
康辰はいよいよ、異世界人とでも話してるような感覚に陥った。年月が経ったとはいえど自分を殺そうとした人物と、数々の犯罪を重ねて捕まっていた人物と、何をどうしたら家に遊びに行く間柄になるのかが全くわからなかったし、その状況に何の危機感も覚えていない兄が恐ろしかった。しかし、あまりにも当然のことのように言ってのけるので、もしかしたら自分の方がおかしいのかもしれないという気持ちが生まれ始めた。せめて他の兄弟がこの場に居たら多数決で感覚の狂った方を糾弾できたはずなのだが、康辰はこのことをまだ他の兄弟には伝えておらず、自分一人で切り抜けなければならなかった。
「そういう問題じゃないでしょ、そもそも……」
康辰は混乱する頭をなんとか落ち着かせ、話を進めようと努力した。が、
「あ、別にこの家に何かしよーとかそんなんじゃないらしいから、安心しろよ。家族には接触しないって言質も取ってるし!」
奥光は康辰の言葉を遮り、勝手に話を切り上げた。そして立ち上がったかと思うと、二階へと駆け上がっていく。康辰が唖然としていると、やがてドタドタと階段を降りてきて「あいつらには内緒な! んじゃパチンコ行ってきー」と陽気に言い残しさっさと家を出ていった。残された食器に目をやると、飯は綺麗に平らげられていた。言質なんて、そんなものあってないようなものだろうと文句をつけたかったが、もう今更だ。康辰は大きくため息をついて、その場に仰向けに倒れ込んだ。力の抜けた手のひらには、爪が食い込んだ痕が残っていた。
それから一ヶ月二ヶ月と過ぎて、いつしか季節は冬に移り変わった。相変わらず働きもせず派手に遊ぶこともせず無駄に日々を消費していた康辰は、炬燵を引っ張り出してストーブも焚いた快適な我が家に篭り切りになっていた。
奥光も夏に比べ外に出る回数は減ったように思うが、それでもまだあの木造アパートに足繁く通っているのであろうことが康辰にはわかっていた。だが、心配したところで倫理観と道徳観の欠落した長男がまともに理解してくれるわけがないと身を以て知ったため、あれ以来口を出すのはやめることにした。奥光からもその話題を振ってくることはない。他の兄弟にも黙っていたため、康辰が無かったことにすれば気持ちが乱されることもなく、一家は至って平和であった。
本人が良しとするのならば、それで良いのだろう。康辰はできるだけそのことについて考えるのを避けて、日々をぼんやりと過ごした。時折奥光から暇つぶしの誘いを受けることもあったが、心の平穏を優先して断ることが増えた。その度奥光は文句を垂れはしたが、以前のようにしつこく誘ってくることはなくなった。
そんな無味で無難な毎日を送っていたある日、康辰はそれを発見した。
家の風呂の湯沸かし器が故障し、兄弟揃って寒さに凍えながら近所の銭湯にやってきた時のことだ。脱衣所で服を脱いでいると、奥光の脇腹に、うっすらと青い痣ができていた。康辰はギョッとして、同時に脳裏にあの傷のある男の顔が浮かんだ。咄嗟に「それ」と奥光に耳打ちをすると、彼は自分の腹にちらと視線を落としてから「シー」と顔の前で人差し指を立てた。それから、何事もなかったかのように浴場に向かっていった。
滝辰に怪訝そうに「どうかした?」と聞かれ、康辰は「いや、何も」と答える。しかし、腹の奥で再び燃えるような苛立ちが起こり始めたのを確かに認めたのだ。それは熱い湯に浸かっても、冷ややかな夜道を歩いても、自室のベッドに入っても中々鎮まってくれはしなかった。
そして、翌朝。浅い眠りにしか就けず朝早くに目が覚めてしまった康辰は、ベッドの上でぼうっとしていた。一階で両親が動き出す物音や、近くの家がシャッターを開ける音が聞こえてくる。起き上がる気にもなれずにじっとしていた康辰は、どこかの部屋の扉が開いて、そして再び閉まる音を聞いた。足音が廊下を進んでいく、康辰は何故かその足音が、奥光のものであると確信した。
慌ててベッドを抜け出して部屋を出る。冷えた空気が寝巻きの袖口から滑り込んでくるようで、布団の中でぬくもっていた体温が奪われていった。身震いしつつ、廊下を歩く長男の姿を目視し、腕を掴む。
「奥光」
「うわ、びびった。康辰? 何、起きんの早くねえ?」
奥光は眠たげな目を擦りながら康辰を振り返った。こっちの台詞だと思いながら「今日も行くの」と問う。自然、腕を掴んでいる手に力が入った。
「あの怪我、あいつにやられたんじゃないの」
「お前、いつからそんな心配性になったの?」
「茶化すなよ、マジでおかしいでしょ。何考えてんの」
「別に何も考えてないけど」
康辰が真面目腐って言っても、奥光は全く意に介さないように、平然としている。馬鹿にも程がある。康辰はすっかり腹が立って罵倒の一つでもしてやろうかと思った。しかし、その前に奥光が意地の悪い笑みを浮かべて言う。
「っていうか、俺が誰と何をしてようが、康辰には関係なくない?」
康辰は、言葉を失って立ち尽くした。お前がそれを言うのか。弟達のことは何でもかんでも把握したがり、首を突っ込んでくるお前が。呆れと諦めの感情が湧き上がってきて、掴んでいた腕から手を離す。瞬間、酷い虚しさに襲われた。この兄に、ここまで正面切って拒絶を突きつけられたのは、初めてだった。
「あーそう。じゃあ勝手にすれば」
言って、踵を返す。もうこの能天気な顔を一秒たりとも見ていたくなかった。
「なんだよ、拗ねんなよ」
奥光は揶揄うように言って、康辰の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。その手を振り払うと、何が可笑しいのか小さく笑った。
「明日だったら遊んでやるから。じゃね」
康辰の背中にそう告げて、奥光は階段を降りていった。その音を聞きながら、クズが、死んじまえ。と心の中で呟く。康辰はドスドスと大きく足音を立てて自分の寝床に戻り、乱れた髪を自分の手で更にぐしゃぐしゃに乱してから目を瞑った。
しかしその晩、奥光は帰ってこなかった。翌日も、翌々日も、帰ってくる事はなかった。
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