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転機4

「ほんとにタイで生活する気があるのなら、はじめはしっかりタイ語をやった方がいいかもしれない。僕は英語だけだったから、正直苦労したよ。タイ人の知り合いもいないから、部屋を借りるときとか携帯を買うときとか。契約についてがね」  そうか。生活をするには部屋が不可欠だ。言葉もわからずに部屋を借りることはできないだろう。それに、携帯がなくては生活にも不便だろう。 「もちろん、僕がお手伝いしてあげるけどね。でも、突発的になにかあったら困るでしょう? 僕はトイレが流れなくなって業者さんに来て貰ったことがあるけど、タイ語が分からなくて苦労したよ」 「トイレですか。それは急いで来て貰わないと困りますよね。そうですね。そう考えると最低限のタイ語はわかった方がいいですよね。文字とか」 「そうだね。文字がわかればなんとかなる場合もあるし。例えば、こういうときね」  そう言って、次はなにを注文しようか、と楽しそうにメニューを見ている。  そうだ。レストランに入ったってタイ語がわからないと注文もできないんだ。  小田島さんは、適当に頼むよと言ってから、店員さんに追加注文していた。 「それでね」    そう言うと、真面目な表情に変わる。 「語学学校も行ったことのある子の話を聞いたことあるけど、楽しそうだったよ。遠足とか一泊の旅行とかあって」 「そんなのあるんですね。それは楽しそう」 「色んな国の人もいるしね」 「そうですよね。通ってみたいな」 「いきなり仕事をするより、しばらく学生をしながらタイに慣れていくっていうのはいいかもしれないね。僕が経験しなかったことだ」  そっか。学校に通いながらタイっていう国に慣れて知り合いも増えれば、その後のタイ生活というのは大きく変わるかもしれない。  現地の知り合いが全て会社の人というのは寂しい。  それに、タイ語を学びながら国内旅行みたいにできるのは楽しそうだし、良さそうだ。   「でも、海外生活なんていいことばかりでもないよ。大変なこと多いし」 「楽しいことばかりだとは思ってません。でも、人生のうちで一度経験してもいいのかな、って。世界は日本だけじゃないから」 「そうだね、その点には同意するよ。僕もなんだかんだタイでの生活を楽しんでるしね。今日本に帰国しろと言われても困るかな」 「日本は母国なのに?」 「日本社会が大変でね。元々日本が息苦しかったから」 「そうなんですね」  日本が息苦しいか。俺にはそういうのはない。というより、日本では俳優の仕事しかしていないから、日本のサラリーマン生活がわからない、というのがある。学生時代から俳優の仕事をしたから、就職活動をしたこともないし、アルバイトもしたことがない。  そんな僕がいきなり海外へ行くのもどうなのかな、と思わないわけでもないけど、それでも日本以外の世界を見てみたい。年をとったらできないことだから、若い今のうちに経験したい。 「どう? 話聞いて来たいと思った?」 「はい。今しか経験できないと思うから」 「それ言ったら、俳優も経験できないけどね。ま、それは置いといて、ほんとに来たいなら僕にできることは手伝うよ。学校のこととか、仕事のこととか」 「お願いします」 「俳優、もったいないね。ま、いいや。今すぐ来るのは無理だから、いつ頃になるかわかったら連絡ちょうだい」 「はい!」  芸能界をやめて日本でサラリーマンをやるよりも、海外に出て働く方が大変だろうけど楽しそうだ。それでも、この先の未来にわくわくしてきた。  もちろん、今すぐ行けるわけじゃない。事務所に引退のことを話して、決まっている仕事をこなして。行くのはそれからになるから、半年はかかるのだろうか。 「いい顔してるね」 「え?」 「将来にわくわくしてるでしょ?」 「あ、はい」 「そういう顔をできる人生がいいよね。人生は一度切りだから、後悔ゼロというのはさすがに無理だとしても、できるだけ後悔は少ない人生を過ごしたいって思うよね」  後悔の少ない人生か。母さんはどうだったんだろう。やっぱり後悔はあっただろうか? 俺がいるから、俺が小さいうちから忙しく仕事をしていた。女手ひとつで育てるのは大変だっただろう。  俺がいたから、できないことがあって後悔がたくさんあったんじゃないだろうか。だとしたら申し訳ない。 「あぁ、ごめん。お母さん亡くしたばかりなのに」 「いえ。母は後悔あったのかな、って思っただけですから。それに、俺は後悔の少ない人生を過ごしたいです」 「そしたら、やりたいように生きるのはありだね。でも、まず今は俳優の仕事頑張って。それは経験したくてもできない人の方が多いから」 「そうですね」 「で、タイにいつ来られるかある程度わかったら連絡ちょうだい。それまでにバンコクの語学学校のこと調べておくから」 「ありがとうございます」    社長には、葬儀に来て貰ったとき以来会ってない。だから、お礼も言わなきゃいけないし、颯矢さんに社長のスケジュールを確認して貰おう。そこで社長に引退の話をしよう。そう思った。  

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