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9 名前
それから一週間が経った。細木史也との暮らしは平穏そのもので、最初あんなに色々考えていた自分が馬鹿みたいだと今は思う。
細木史也は、やっぱり気遣いの人だった。物の場所が分からなかったり、どうしたらいいのか遠慮して聞けずにいると、何に困っているのかをすぐに聞いてくれる。
「俺さ、察してあげるの苦手だからさ。何でも遠慮なく聞いてよね」
「は? よく言うよ。何でも先回りの癖に」
年末近い冬の日の朝。俺たちは、狭いベランダに二人並んで洗濯物を干していた。空気はキンとして冷たいけど、心は温かい。
こんな平和な時間が再び自分に訪れるなんて幸運があっていいのかな。細目でにこにこしている細木史也を、ちらりと横目で盗み見しながら思った。
細木史也は、俺を見る時は大抵にこにこしている。こういう顔なのかなと思ったりもしたけど、テレビやスマホを見てる時は無表情になったりするから、どうやら違うらしい。
なので、今もにこにこしながら俺を見て、パンツを干していた。
「違うよー。斎川くんの顔を見て『あ、何か困ってるな』とは分かるけど、それが何かまでは僕には分かんないからね」
「あはは。細木さん、本当俺のことよく見てるもんね」
お前はおかんかと言いたくなるくらい、俺がワタワタしていると細木史也はすぐに駆けつけてくる。何が分からないの? 何に困ってるの? 嫌なことは遠慮なく言ってね。事ある毎に言われてしまい、俺は子供かとつい思ってしまうくらいには、細木史也は世話焼きだった。
俺には、朧げながら実の母親の記憶はある。小学校低学年で亡くなった母は末期がんで、最後の数年は入退院を繰り返していた。もういよいよという時になって帰宅した時は、大量の痛み止めを飲みながら俺との最期の時間を過ごしてくれた。
ひんやりと冷たい手で俺を抱き寄せながら、今の細木史也みたいに、困ってることはない? お父さんに言えないことがあったらお母さんがお父さんに言ってあげる。お母さんにお願いしたいことはない? と優しい声で聞かれた。
だから俺は無神経にも、お母さんにずっと生きてほしいと答えた。ごめんねと言われながら抱き締められて、頭に濡れた温かい涙の温度。
細木史也と過ごしていると、長いこと忘れていたその温度を思い出す。
細木史也の実家は兼業農家だそうで、毎週の様に大量の野菜が送られてくるんだそうだ。細木史也は、それを「斎川くんは細すぎるからもっと食べてよ」と、俺が苦しくなるまで食べさせた。
ちなみに家事能力は、しばらく専任でやっていたからか、俺の方が上だ。だから居候している俺が掃除洗濯をするよと言っても、細木史也は首を縦には振らなかった。
家賃の代わりに何かを要求したくないんだよねと言われた時は、どう返したらいいのか分からなくなって、「ありがと」としか言えなかった。
細木史也のこの言葉は、明らかに俺が家賃代わりに涼真に抱かれていた話を聞いたからだ。俺自身にはあまりそういったつもりはなかったけど、涼真がはっきりと口にしていたのを聞いてしまったから、涼真はそういうつもりもあって俺を抱いていたのは事実なんだろう。腹立たしいを通り越して、悲しいけど。
細木史也は、俺がここに住んでいるのはあくまで俺への誕生日プレゼントである宿泊権を使っているからだと言い張った。いつまでだっていていいし、自分ちだと思って寛いでほしいとも。
どうしてそこまでしてくれるんだよと尋ねると、「頼られたのが俺で嬉しかったから」と照れくさそうに鼻の下を指で擦った細木史也。根っからの世話焼きのお人好しなんだな、というのが俺の率直な感想だ。
洗濯物を干し終えて、エアコンで温まった室内へと手を擦りながら戻る。
「コーヒーと緑茶どっちがいい?」
やかんでお湯を沸かしながら、細木史也が畳の上に胡座をかいた俺を振り返りつつ尋ねてきた。細木史也の口の端は、笑いを堪えきれず上がっている。
「……聞くなよ」
下唇を突き出してボソリと答えると、細木史也は我慢し切れなかった様子で吹き出した。
「あはは……っ! コーヒーが苦手だったなら言えばよかったのに」
「言える訳ないだろ、あの状況で」
「本当、遠慮ばっかりなんだから」
呆れた口調の中に「仕方ないなあ」という優しさを感じ取った俺は、細木史也の手のひらの上で転がされている感が否めなくて、そっぽを向く。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
緑茶入りのマグカップをちゃぶ台の上にコトリと置くと、細木史也は対面に座った。コーヒーをズズ、と啜りながら、俺の顔をじっと見ている。
「……なに?」
あまりにもじっと見つめられると、居心地はよくない。ニコニコしてる細木史也ならともかく、今の細木史也は滅多に見られない真剣な表情をしているから。
なんだろう。あまりよくないことでも言わないといけないのかな。緑茶を啜りながら内心身構えていると。
「――あのさ!」
いきなり細木史也が身を乗り出してきた。
「うわ、びっくりした」
思わずビクッとして緑茶を少し溢してしまうと、細木史也はティッシュでサッと拭いてくれる。俺の指まで丁寧に。……おかんだ。まごうことなきおかんだ。
「あ、ごめん」
「ん……」
こそばゆさに目線を伏せ気味にしていると、こほん、と細木史也が軽く咳払いをした。
「えー、改めてこういうことを言うのはどうかとも思うんだけどさ」
「……なに?」
細木史也が居住まいを正したので、俺も倣って正座になる。ナニコレ。
「り……陸って呼んでもいい?」
「へ?」
つい聞き返すと、細木史也は照れくさそうな笑みを浮かべた。……この人、こういう笑顔可愛いよな。
「その! 斎川くんっていうのもさ! 一緒に住んでるのに他人行儀じゃない!?」
声がでかい。
「ま、まあね……」
「俺のことは史也って呼び捨てでいいからさ!」
「ええ、でも……」
俺が遠慮しているからか、細木史也は拳を握り締めて言う。
「俺が呼ばれたいの! はい、史也! 言って!」
なにこの人。滅茶苦茶可愛いんだけど。焦った顔も、涼真と比べたら全然平凡だけど、涼真にはなかった温かみがあるというか。
――こんな頼まれ方をしたら、仕方ないなあ。
「ぷ……史也」
笑いを堪え切れない状態で名前を呼ぶと、史也は物凄く嬉しそうな顔になり。
「へへ、陸。よろしくね」
涼真以外の男になんて、もう二度と心を許せないんじゃないか。
そう思っていた俺の心に、史也がストンと飛び込んできた決定的瞬間だった。
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