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第26話 夢から覚めても

 採血を終えて診察室に戻った真山を、最上がにこやかに迎えてくれた。 「おかえり、真山くん。じゃあエコー検査をしようか。君一人でも、宗一が一緒でも構わないが、どうする?」 「そーいちさん、どうする?」 「僕もいていいか」 「うん」 「じゃあ二人でおいで」  診察室の横のカーテンのあるスペースに入って、真山はベッドに横になる。エコー検査も、名前は聞いたことがあったが実際に受けるのは初めてだった。  機械の前に最上が座り、その隣に桐野が並ぶ。  腹を見せることに抵抗はないが、まだあちこちに残る桐野がつけた跡が見えないか少し不安だった。 「お腹を出してくれるかな。臍周りだけで大丈夫だ」  最上に言われるまま、真山はパーカーの裾を捲って腹を出す。パンツのウエストも少し下げて、臍周りを出す。 「少しひんやりするよ」  薄い腹に冷たいジェルが塗られる。ひんやりした感触に真山は思わず息を詰めた。  よくわからない機械を腹に押し付けられるのは不思議な感覚だった。そばにある機械の画面には、よくわからないざらついた映像が映っていた。  最上がモニターの角度を変えて画像を見せてくれた。 「わかるかな。ここに、子宮ができ始めてる」  ざらついた画像だが、最上がペン先で示すそこにそこに何かあるのはわかった。  真山がふと桐野に目を向けると、食い入るように画面を見つめていた。 「エコーはこれで終わり。もうすぐ採血の結果が上がってくるから、少しだけ待ってくれ」  最上は真山の腹に塗ったジェルを拭き取り、器具を片付けていく。  もっといろいろな検査をされると覚悟していたので、思いのほか早く終わって真山は少し拍子抜けした。  診察室に戻って最上がデスクにあるパソコンを操作する。  真山と桐野は先ほど座っていた椅子に戻った。 「お疲れさま。検査結果が出たよ」  最上は真山と桐野に向き直る。その表情は穏やかなものだった。 「血液検査の結果も、オメガの数値が出てる。おめでとう、でいいのかな。真山くん、オメガになってるよ」  さらりと伝えられた言葉に、真山は間の抜けた声を上げた。 「っえ」  真山が隣の桐野を見ると、桐野は目を瞠って固まっている。  穏やかな口調で最上が続けた。 「真山くんの身体は、これから少しずつオメガの身体に変わっていくから、しばらく身体が怠かったり鈍い痛みがでたり、熱が出たりするかもしれない。痛み止めと解熱剤は出しておこうか。それとフェロモン抑制剤も。正常な身体の反応だし、一過性の成長痛みたいなものだから心配いらないよ。それでも痛みがひどかったり高熱が出るようなら遠慮なく来てくれ」  子供に言い聞かせるように、最上の声は優しい。医者である最上の言葉はやはり説得力があって、真山は自分の薄い腹を撫でる。そこにオメガの証ができつつあることに、淡い喜びが湧いてきた。 「三カ月くらいでヒートが来ると思うから、その前に、そうだな、来月あたりもう一度来れるといいんだが」 「来月、ですか。火曜から木曜の間なら」 「じゃあ火曜で取っておくよ」  最上はパソコンを操作すると、デスクの引き出しから小さな冊子を取り出した。 「もう知っていることばかりだとは思うが、念のため渡しておくよ」  渡されたのはバース性についてのパンフレットだった。高校の時に同じようなものを貰った記憶がある。表紙を捲ると、イラストを交えて説明が書かれている。高校生向けのような内容だった。 「今日は以上だ。お疲れ様。処方箋と予約票がこれ。あと、診断書があるから、受付で受け取っていって」  最上はにこやかに書類を差し出した。 「ありがとうございます」  処方箋と予約票を受け取り、真山は深々と頭を下げた。 「最上さん、ありがとうございました」  隣では桐野も頭を下げていた。  そんな二人を見て、最上は笑う。 「お幸せに」  病院でそんなセリフを聞くことになるとは思わなかった。顔を上げ、席を立つ。桐野と並んで部屋を出る前に、もう一度頭を下げて二人は部屋を後にした。  薬と書類を受け取って病院を出た二人は、駐車場まで歩く。 「そーいちさん、あれ、本当だよね」  先に口を開いたのは真山だった。  オメガになりたいという夢が叶ったというのに、まだどこか信じられないでいた。 「あぁ」 桐野の手がそっと背中に添えられる。 「おれ、オメガになれたんだ」  真山は噛み締めるように呟いて、薄い腹を撫でる。そこにオメガの証があることが嬉しい。 「ありがとう、そーいちさん」  桐野に視線を投げると、柔らかな微笑みが返ってきた。 「まだ、あんま実感ないけど、嬉しい」 「僕もだ」  桐野が目を細める。午後の日差しを受けて、その穏やかな笑みはひどく眩しく見えた。  不意に桐野が足を止め、真山はつられて足を止めた。 「そーいちさん?」 「慎くん、連れていきたいところがあるんだが」 「ん、いいよ。どこ?」  幸い、検査が思ったより軽かったおかげでまだ疲れはそれほどなかった。 「兄の家だ」 「は?」  真山は思わず桐野の顔を見た。そんなリアクションをされるだろうとわかっていたのか、桐野はすまなそうに眉を下げた。 「すまない、日を改めようか」 「いや、今日でいいよ。どうしたの?」  真山は何故急に桐野がそんなことを言い出したのかわからなかった。 「兄に、君を認めてもらう」  桐野の言葉に、真山は思わず桐野の腕を掴んでいた。あれ以来顔を合わせてはいないが、総亮のことはなんとなく苦手に思っていた。その総亮に会うのかと思うと、思わず足が竦む。  真山の不安げな様子に、桐野は静かに真山の手を取った。 「君は僕の恋人だ。誰にも文句は言わせない。大丈夫。君は僕が守るから」  そんなふうに桐野が笑って手を握ってくれるから、真山はそれならいいかと思う。  気は進まないが、嫌なことは先に片付けるに限る。 「わかった」  桐野がいてくれれば、きっと大丈夫だと思えた。真山が握り返した手は温かくて、心強かった。  桐野の運転する車が到着したのは小綺麗なタワーマンションだった。エントランス前にある来客用駐車スペースに車を停めると、真山は桐野とともに車を降りた。  真山は桐野に手を引かれてエントランスに入った。入り口は当たり前のようにオートロックだった。自動ドアの脇に呼び出し用の操作パネルがある。ここで部屋番号を押すとインターホンに繋がるらしい。  桐野は慣れた様子で総亮の部屋番号を呼び出す。インターホンに繋がったようで微かに声が聞こえて、エントランスの自動ドアが開いた。  桐野に手を引かれてエントランスを入り、エレベーターで上がったのは上層階だった。  桐野はもう何度も来ているようで、桐野に連れられた真山は迷わず部屋にたどり着いた。  桐野が呼び鈴を押すと、程なくしてスーツ姿の総亮が出てきた。 「宗一、どうした」  出迎えた総亮は、急な桐野の訪問に不思議そうな顔をしていた。 「挨拶に伺いました」 「挨拶?」  総亮は怪訝な顔をする。無理もない。弟が突然真山を連れてきたのだから。  それでも総亮は二人を招き入れた。  二人はリビングに通された。総亮の家は桐野の家より広い。二人は並んで二人掛けのソファに座り、総亮はその向かいに座った。  リビングを包む静寂を破ったのは桐野だった。 「兄さん。真山くんをオメガにしました。彼を伴侶に迎えるつもりです。今日はその報告に伺いました」  桐野は背筋を伸ばして、真っ直ぐに総亮に向き直った。桐野の声は凛とした響きで澄んでいる。 「本気で言ってるのか」  総亮の声には驚きが滲んでいる。桐野に向けられる目もわずかに見開かれていた。 「最上先生からいただいた診断書もあります。いいか、慎くん」 「うん」 「最上から?」  怪訝そうな総亮は、桐野が差し出した封筒を黙って受け取り、中の書類を取り出す。  書類に目を通した総亮は封筒にしまうとテーブルに置いた。  総亮は深く息を吐いて肩を落とし、ソファに深く身体を沈める。 「本当に、オメガにしたんだな」  総亮の声は思ったより静かだった。 「よくやるよ、お前は」  総亮が桐野に向けるのは呆れたような笑みと、感心したような声だった。 「父さんには俺から伝えておく。縁談の件もなしだ」  総亮はくしゃくしゃと髪を掻き回した。気の強そうな総亮が参っているように見えて、真山は意外に思った。真山には、そんなふうに弱ったところを見せないタイプだと思っていた。同時に、どこか桐野の面影が見えて桐野の兄なのだと再確認した。 「幸せになれよ、宗一」  総亮が笑った。笑顔は桐野によく似ていた。 「慎くんがいれば、僕はもう幸せです」  桐野は堂々としている。背筋を伸ばして真っ直ぐに総亮を見るその姿に、真山は思わず見惚れた。 「真山くん」 「っ、はい」  身体を起こした総亮が真山に向き合う。真山は慌てて姿勢を正した。 「君にはひどいことを言ってしまったな。すまない」  頭を下げる総亮に、真山は慌てた。絶対謝ってくれないと思っていたので、意外だった。 「いえ……」  顔を上げた総亮は甘やかな笑みを浮かべる。それは少しだけ寂しそうに見えた。 「宗一をよろしく頼む」 「はい」 「困ったことがあればすぐに言ってくれ。できる限り力になろう」  総亮は、弟に甘いタイプなのかもしれない。初めて会ったとき真山に当たりが強かったのもそのせいのような気がした。さすがにそれを言ったら怒られそうで、真山は口を噤んだ。 「これは返しておく。俺がいては邪魔だろう」  総亮が差し出したのは桐野の家の合鍵だった。 「いえ、これは、何かあった時のために兄さんが持っていてください。慎くん、構わないか」  真山は頷く。もう総亮も怖くない。うまくやっていけると思う。  それから少しだけ世間話をして、総亮の家を出た。  総亮のマンションを出ると、陽射しは大きく西に傾いていた。空もうっすら金色になって、夕暮れが迫っていた。  マンションのエントランス前にある来客用の駐車場に出てきたところで、桐野は足を止めて真山に向き直った。真山もつられて立ち止まる。 「僕のわがままに付き合わせてしまってすまない。疲れただろう」 「ううん、大丈夫」  総亮が謝ってくれたことで、真山の中にあった苦手な気持ちはすっかり消え失せていた。 「ね、そーいちさん」  真山の声に、桐野は真山を見上げる。一仕事終えたような、心なしか気の抜けた顔をしている。 「もう、契約書なんかなくていいよ」 「慎くん?」  真山の言葉がすぐには理解できなかったのか、桐野が首を傾げる。 「契約書がなくても俺はあんたの恋人だし、そーいちさんは俺のアルファだから」  真山が続けると、桐野の表情は驚きと喜びに染まっていく。それを見ている真山の胸には温かいものが広がっていく。  アルファと恋をしたかった、オメガになりたかった自分の夢を叶えてくれた桐野が、自分の言葉で喜んでくれているのが嬉しい。  それだけではない。桐野は、真山を伴侶にすると言ってくれた。オメガになった真山は、アルファである桐野とつがいになることができる。 「慎くん、ありがとう」  桐野の満面の笑みには喜びが満ちていて、見ている真山の方まで幸せな気持ちになった。 「次のヒートがきたら、噛んでもいいか」 「ん、いいよ」  つがいになるには、項を噛まなければならない。もう一度桐野の噛んだ痕が残るのかと思うと嬉しい。  ずっと憧れ続けたオメガになって、次のヒートにもう一度項を噛まれて、それで、真山は桐野のつがいになれる。  まだ実感の薄い喜びは、それでも真山は胸を震わせる。 「それに、俺をつがいにするなら別の書類を作らないといけないでしょ」  つがいになったアルファとオメガには、役所への専用の書類の提出が義務付けられている。婚姻届のようなものだ。真山が言ったのはそのことだ。  真山が笑ってみせると桐野も笑った。 「ふふ、君には敵わないな」  並んで歩く二人の腕が触れ合い、指が絡む。しっかりと繋がれた手の間で、二人の温もりが混ざり合った。  変わらず自分を見上げる柔らかな薄茶色の瞳が甘やかに揺れるのを見て、真山の胸には甘く温かいものがじわりと滲んだ。 「そうだ、明日にでも、指輪を買いに行こうか。この前、途中だったから」  あの時はそれどころではなくなってしまって、すっかり忘れていた。桐野が覚えていてくれたのが嬉しくて、真山は表情を綻ばせた。 「明日でいいの?」  真山が桐野の顔を覗き込むと、桐野は心配そうに薄茶色の瞳を揺らした。 「慎くんが疲れてるだろう」  桐野がそうやって気遣ってくれるのが嬉しい。総亮に会うのは少し緊張したが、もう大丈夫だ。それに、早くお揃いの指輪が欲しかった。 「大丈夫だよ。今日行こ」  真山が笑うと、桐野も笑った。  二人が揃って車に乗り込む。  静かなエンジン音とともに、二人を乗せた車が走り出した。  助手席の真山は、運転する桐野の横顔を眺める。鼻筋の通った端正な横顔は、いつもよりも凛とした空気を纏っている気がした。  そう見えるのは自分がオメガになったからなのか、差し込む夕日のせいなのか、真山にはわからなかった。  まだどこか夢のような気がして、真山は頬を摘む。やっぱり痛くて、どうやらこれも現実のようだった。  日が沈んで空に星が見えはじめるころ、真山と桐野の左手の薬指には、お揃いの銀色が静かに煌めいていた。

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