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第26話 南方の蛇

 川村陽太の顔はいつの間にか真っ青になっていて、透明感を失い白く澱んだ目をしていた。あのあどけない顔が、生気を失ってゾンビのように様変わりしていた。  綾人はその目を見て確信した。あれは、あの日瀬川から引き剥がされて、消されていったあの気持ち悪いヌメヌメとした魚のような生き物の目と同じものだ。  なんの意思も感じられない、虚無の顔をしているのに、なぜか欲に塗れているような印象がある、不思議な顔立ちをしている。    陽太はゆらりと体を振りながら、こちらへと歩いて来た。綾人が突然のことに身動きが取れずにいると、あっというに間合いを詰められてしまった。 「あーもう!」  綾人は陽太の後ろへと回り込み、顎の下を手のひらでぐいっと上に向かって押し上げた。そして、そのまま回転しながら地面へと叩き落とす。陽太は反撃せず、そのままの勢いで無言のままバタンと倒れた。  以前瀬川にこれと同じ技をかけたことがある。瀬川に固執している生き霊であるのなら、そのことを知っているのではないかと思った。そして、その通りの反応が返ってきた。 「これ、瀬川くんがされたのと同じでしょ? あは、お揃いだ」  生命力の感じられない顔から、薄気味悪い笑みを漏らした。その場に立ち上がると、一層君の悪い顔で笑いながら、ジリジリと綾人に近づいてくる。 「くそっ、どのくらいなら痛めつけても大丈夫なんだ。体にダメージが残ったりしたら大変だろう?」  あの魚みたいなやつを痛めつけることには、気が引けたりはしない。けれど、もし陽太に影響が残ってしまうのなら、力をセーブしないといけない。  そのことで躊躇していると、陽太の手が綾人の首元へと迫ってきた。綾人は咄嗟にステップバックして交わしたが、先の見えない防戦一方の状態が続き、心がじわじわと疲弊し始めるのを感じた。 「貴人様! 出てきてください! 相手を殺さずに倒す方法がわかりません!」  綾人は、叫びながら陽太を交わし続けた。そんな綾人の様子を見て、タカトは「そうか、そうだった」と独言ると、鏡を取り出した。出した瞬間にパッとフラッシュのような閃光が走り、タカトと貴人様は入れ替わった。アザが消え、右目が赤く光る。  「タカト、少し気がつくのが遅いぞ。しっかりしろ」と呟くと、綾人の方へと走った。そして、綾人の隣に立つと「大丈夫か、綾人」と声をかけ、微笑みかけた。 「貴人様! ……良かった。あの、これ、瀬川に憑いてるヤツですよね!? どっ、どうしたらいいですか?」  貴人様は、綾人の指をたどっていき、その先に立つ陽太に目を向けると、やや目を細めた。それは陽太を憐んでいるように見えた。そしてその中に、僅かながら悲しみと後悔が見えた。綾人には、その表情が意味するところがなんなのかがわからなかった。 「やっぱりお前か。お前も、唆されたんだな」  貴人様はそう呟きながら陽太をじっと見つめた。すると、陽太の動きが鈍った。よく見ると、小さく何かを呟いている。それは綾人には内容が聞き取れないほどの小さな声だった。 「うわ、なんだあれ」  そうやってしばらく呟いていると、陽太の顔と魚のような顔が入れ替わって見えるようになった。そして、それをやめると、また魚の顔だけになる。貴人様はその様子を見て、「ふむ」と短く考え込むと、右の手のひらを天へ翳した状態で斜に構えた。 「遠慮はいらない。あいつの動きを止めるぞ」  大きくぐるりと手を振ると、何もなかったはずの背後から、とつぜん弓矢が現れた。何もなかった場所に突如として現れたそれを、綾人に投げて渡す。驚いた綾人は、慌ててそれを受け取った。 「え? 俺が?」  驚いた綾人が貴人様を見ると、貴人様も綾人のその反応にやや驚いた顔をして肩を竦めていた。 「そうだ。お前が退治を命じられてるだろう? 大丈夫だ、持てば使える。そういうものだからな」  そう言ってニヤリと笑った。 「えっ? いや、でも……」  綾人は弓を手にして途方に暮れた。陽太はなぜかそれを怖がっているようで、ピタリと動きを止め、目を逸らすまいとしていた。反撃に出ることができないようで、グルルと喉を鳴らして威嚇してはいるのに、そこからは全く動こうとしない。  綾人も綾人で、どうしたものかと考えあぐねていた。綾人には弓道の経験が無い。それでも、なぜだかその弓に見覚えがあり、うまくやれる気がしていた。  ただ、一つだけ確かだったのは、瀬川を目覚めさせるためには今を逃してはならないということだった。自信の無さに震えながら、それでもやるしかないのであれば、あとは自分で鼓舞するしか無い。 「っしゃ! やるぞ!」  そう叫ぶと、狙いを定められるように相手との距離を取ろうとして、その場から少し離れた。  気がつけば、いつの間にか図書館内には人影がなくなっていた。貴人様が人払いをしてくれたのだろう。周囲に影響がないことがわかって安心した綾人は、くるっと振り返ると弓に矢をつがえて引き絞った。 ——落ち着け、落ち着け。集中するのは、組み手と同じだ。  ギリギリと音をたて、狙いを定める。それと同時に神経も鋭く尖らせるように、必要なものだけを生かし、使わないものを閉ざしていく。視界と指の感覚、体幹から放つエネルギー、引き絞った腕力、そして反射。それらに意識を集中した。    弓を放つなど、今の人生ではこれが初めてだ。自信があったとしても、手順はわからない。それでも、やるしかなかった。 ——取り敢えず、当たってくれ!  そう思いながら陽太の心臓に焦点を合わせると、そこへ向かって飛ぶように狙いを定め、パッと手を離した。矢はバシュンと音をたて、一直線に相手に向かって飛んで行った。  しかし、手を離れた矢は、一瞬視界から消えたと思うと、そのまま見えなくなった。 「あれ? どこに飛んで行った?」  途中まで見えたもので判断する限りは、間違いなく命中していたはずだ。それなのに、その先に悲鳴も叫びもない。当たらなかったようだ。それどころか、標的であるはずの陽太がいなかった。 「消えた?」  綾人が周囲を探しても、陽太は見当たらなかった。今の今までそこにいて、間違いなく射抜いたはずの相手が消えてしまった。どうしたらいいのかと探し回っていると、桃花の声が聞こえてきた。 「桂くん! あそこ! さっきの髪が長い人と一緒にいる!」  弓を下ろして桃花の指が示す方へと視線を動かす。その先には、矢を手に握りしめ血を流している貴人様の姿があった。どうやら綾人が放った矢を、手で掴んだようだ。  そして、陽太は貴人様の腕にだらんと体を預けて気を失っていた。顔は完全に元の川村陽太に戻っていた。  綾人は貴人様の方へと走った。貴人様が何をしたのか、全く理解ができなかった。 「貴人様? 陽太を矢で射ってはいけませんでしたか? 俺、指示を取り間違えたんですか?」 「いや、合っていたぞ。ただ、俺が気がついたことがあって、この生き霊を消滅させるのをやめたんだ。匂いを嗅いでみろ。それがわかったらすぐ離れろ。長く嗅いではならないぞ」  そう言われて綾人と桃花が近づくと、陽太はただ眠っているように見えた。そして、その体からは、うっすら甘くて僅かに青臭い匂いがした。 ——これ、どこかで嗅いだことのある匂いだ。どこだ……?  綾人がそれを思い出せず唸っていると、貴人様が徐に口を開いた。 「妙な香りがするだろう? 俺はこれが何かを知っている。口にするのも恐ろしい、呪いの残り香だ。綾人、こいつを瀬川に合わせるぞ。あの男はこれが何かを知っているはずだ。俺は先に行く。この男を軽くしておくから、後から連れてこい」  そう言ったかと思うと、ざあっと風を巻き起こし、その場から突然消えてしまった。 「は!? 貴人様!? 瀬川にこの男を合わせる? なんでですか? どういうこと?」  綾人は呆気に取られていた。生き霊を生むほどの恨みを持った人間を、対象に会わせる? どうしてそんな危険なことをするのだろうか。訳がわからない。  でも、この判断に反対することなど出来ない。相手は貴人様なのだ。とにかく、瀬川のうちまで陽太を連れて行くことにした。    そう思って、陽太をおぶるために一旦背負った。そして、その異様な変化に驚いてしまった。 「えっ? 何これ、かるっ!」  陽太は、まるで羽のように軽かった。『軽くしておくから』……確かに貴人様は、そう言っていた。どういう意味なのかと思ったけれど、気絶した男性を一人抱えるつもりで構えていた綾人は、あまりの軽さに驚いてひっくり返りそうになってしまった。 ——神様すげーな……。こんなことが出来るんだ。  信じられないことが次々と起きていて、言われるままに動いてはいるが、頭はついていけていなかった。とにかく言われた通りにするために 、軽くなった陽太を背負って立ち上がると、図書館の出口へ向かって歩き始めた。  そして、すぐにピタリと足を止めると、真っ青な顔で呆然と立ち尽くしている桃花に声をかけた。 「雨野さんはどうする? 一緒に行く?」  桃花は、綾人の顔を見てぶんぶんと被りを振った。 「まあ、そうだよね。普通はそうなるよ」  最近の綾人たちは、神だの生き霊だのに慣れすぎているから麻痺している部分がある。でも、側から見ると随分危ない人たちに映っているだろう。  生き霊だの、憑依だのと、「クスリでもやってんのか?」と言われそうな話ばかりしている……そう考えて、ふとあることに思い当たった。 「あ」  陽太から感じた、甘くて青臭い匂い。あれは、クスリの匂いだった。  入学したばかりの時に、噂を聞いたことがあった。以前この大学で、クスリで逮捕された人がいるという話だった。その人がいつも使っていたという教室は、今はほぼ使われていない。  ほぼ使われていないからか、そこに染みついた匂いが、未だにほんの少し残っている。あの、甘くてうっすら青臭い匂い。それが、さっきした香りの正体に違いない。 「雨野さん。もしかして、川村くんは何かやってはいけないことをやってる? 君はそれを知っていたんじゃないの? 瀬川に会いたいのは、本当に君が瀬川を好きだからかな?」  桃花は綾人の言葉を聞いて、明らかに狼狽えた。グッと何かを飲み込んだように見える。視線を上から下に動かしたり、忙しなく瞬きをしたりと、明らかに何かがある不審な動きを繰り返した。 ——もしかして、この子もか?  綾人はフッと息を吐き切ると、鼻からスーッと息を吸い込んだ。そして、キッと桃花を睨むと、誤魔化しはさせないという強い意志を視線に込めた。 「雨野さん。君、クスリやってない?」  綾人の声が、あまりにも強く冷たく力強かったためか、桃花は弾かれたようにビクッとした。そのうちガタガタと震え始め、周囲に人がいないかどうかを確認し始めた。  キョロキョロと周りを見渡し、唇を噛み締めている。ふとみると、かなり汗をかいていた。どうしてさっきまで気がつかなかったんだろう。桃花からも、うっすらとあの匂いがしていた。これはおそらく、重症だ。 「ちょっと、ごめんね」  綾人はそういうと、「シッ」と息を吐きながら、桃花の鳩尾を思い切り打った。 「ウッ!」  小さく声を漏らして、桃花は気を失った。綾人は桃花の体が頽れる前に片手で支えると、ゆっくりと床にその体を横たえた。 「はー全く。何考えてるんだかね」  陽太を背負い、桃花の肩を支えた。どうやって連れて行こうかと考えていると、いつの間にか一人の女子学生が目の間に立っていた。  その子もまた、顔色が悪く、目が死にかけている。まだ死んでないところが、陽太や桃花との違いのようだった。その分正気なのだろうと言うのはわかった。  ただし、全身が痣だらけだ。服を着ていてもわかってしまうほどに、ものすごく多い。 「君は誰? どうしたの、それ……」 綾人が気遣いの視線を送ると、それに気づいた女子学生はすっと涙を流した。 「助けてください。陽太も、桃花も、私のせいであんな風になった。あなたが刺されたのも、きっと私のせいです。でも、私にはどうにも出来ないから……」  そう言って、その子は泣き始めた。綾人は、彼女から何を言われているのかはまるで理解できなかったけれど、ただ、今目の前で起きていることを全て解決するためには、取り敢えず全員瀬川の家についれて行った方がいいということだけは理解できた。 ——とりあえず、貴人様に話してから考えよう。  だんだん考えることに無理が出てきて、綾人はうんざりしてしまっていた。気を失った二人と、泣いている一人。それを引き連れて、眠り続ける男の家へ向かう。 「なんだかおかしな話だな」と自嘲気味に笑った。取り合えず、行くしかない。行って、おそらくそこにいるだろう愛する男の顔を見て、とりあえず癒されよう。今はそれしか考えたくない。重い足を引きずり、歩き出した。  その時、外の喫煙所から、甘くて青臭い香りのタバコの煙がゆらゆらと立ち上った。その煙を燻らせている男は、綾人の後ろ姿をじっと見ながら、笑っていた。 「あーあ。バレるな、きっと」  その男は、ゆっくりと煙を肺の奥まで流し込み、鼻腔で香りを確認して吐き出した。赤い髪をゆっくりとかきあげると、唇に鮮やかな赤色を塗り込んだ。 「じゃあ、ついにヤトと対決かな? ウルが呼びに来るのを、待ってるからね」  目が覚めるほどの美形のその男は、頸にある蛇のタトゥーを指でなぞると「楽しみだね」と呟いて去って行った。

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