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第1話
雪交じりの海峡からの風が、日に焼けてかさついたエズマライの頬を撫でる。海沿いの通りは、軍事政権下であっても一向に減る様子のない内外からの観光客でごった返していた。
エズマライは観光客からは距離を置き、独り細い路地に入っていった。フランス式のアパートメントが建ち並ぶ一角に、止まり木と書かれた看板を掲げた古書店が確かにある。エズマライは手にしていたメモを、くたびれたジーンズの尻ポケットに押し込んだ。
深緑色に塗られた木製の観音開きのドアは、右側が開かれている。エズマライは一歩踏み込んでから、店内を見回した。壁沿いには自分よりも背の高い本棚が並べられている。店の真ん中にはシンプルなワゴンが置かれ、トルコ語以外にも様々な言語で書かれた本が無造作に並べられていた。さらにその上に、胸元と脚の先だけは白い毛に覆われた黒猫が悠々と寝そべっている。ワゴンの奥に配置されたレジカウンターには誰もいない。
「何かお探しですか」
背後から声をかけられて、エズマライは振り返った。右手奥の棚の陰から、褐色の肌に灰白色の髪を後ろに撫でつけた男が顔を出していた。
その髪の色から結構な年齢かとエズマライは思った。だが、目の前までツカツカと歩み寄ってきた男を改めてよく見ると、まだ若い。切れ長の黒い瞳が強い印象を残す。二十歳になったばかりの自分よりも四、五歳ほど上ぐらいだろうか。
「お探しのものがあるなら手伝いますが」
もう一度聞かれて、エズマライは首を横に振った。ボスのナーズィムから教わった合言葉を口に出す。
「いえ、コーヒーのサービスを」
褐色の肌の男は、片方の眉を僅かに上げた。エズマライは慌てて言い添えた。
「豆はメフメット・エフェンディで」
褐色の肌の男は入口のドアを閉め、鍵をかけた。それからレジカウンターの奥に入り、背後の壁に並ぶ本棚のある一点に手をかけて少し押す。すると、表からは見えない位置に隠れた蝶番がカチリと音を立て、本棚が斜めに動いた。隠し扉だ。その奥に褐色の肌の青年は足を踏み入れ、「こちらへ」とエズマライを手招きした。
隠し扉の奥は、対面式のキッチンカウンターが置かれたプライベートバーだった。エズマライは勧められるままにカウンターの前のスツールに腰を下ろした。隠し扉が閉ざされて室内に二人きりになると、エズマライはおずおずと切り出した。
「もしかして、あんたが情報屋のユヌス本人なのか」
褐色の肌の青年は軽くうなずいてカウンターの向こうに入った。無駄のない手つきでメフメット・エフェンディのコーヒー豆の袋を開けながら、先程までよりは幾分ぞんざいな口調で聞いてきた。
「さっきの合言葉だと、ナーズィムのところの鉄砲玉だな。名前は?」
「エズマライ」
二人分の豆を電動のコーヒーミルにかけようとしていたユヌスの手が一瞬止まった。
「パシュトゥーン人か。ここまでわざわざ何をしに来た? 今回の仕事に必要な情報なら、もうナーズィムから聞いてるだろう」
ユヌスは電動ミルのスイッチを入れた。程なく香ばしい匂いが部屋中に立ち昇る。ユヌスは続いてガスコンロにかけた火熾し器に炭を乗せた。
エズマライは沈黙に耐えかねて訥々と語り出す。
「その、あんたと寝たら、イスタンブール、いや、トルコ中の賞金首ランキングのトップに躍り出るって本当か? その上、何日も経たないうちに行方不明になるって噂も聞いてる」
ユヌスはその黒い目にまったく感情を出さずに、赤くなった炭を火熾し器から取り出して、金属製の丸い火鉢の灰の上に並べた。
「ありもしない尾ひれがずいぶん派手についたもんだ。そもそも俺は男とは寝ない」
銅製のジェズヴェと呼ばれる小さな手鍋に、ユヌスは細かく挽いたコーヒー豆を入れ、水を注ぐ。
エズマライはユヌスの手元をじっと見つめていた。その視線の苛烈さは、ユヌスに博打を打ってみようかという気を起こさせるのに充分だった。
「そんなに俺が気になるのか? だったら試してみればいい」
ユヌスは灰の上にジェズヴェを二つ置いた。あとは灰と炭の熱がジェズヴェの中のコーヒーをじわじわと沸かしてくれる。
「え」
エズマライは間抜けな声を漏らしてしまった。ユヌスの口からも乾いた笑いが漏れる。
「今回のターゲットを仕留めたら、また来るといい。次回の合言葉は『シーシャを吸いに』だ」
一週間後。エズマライは古書店を再び訪ねた。今度はユヌスはレジカウンターの奥にある年代物の椅子に腰掛けていた。
「シーシャを吸いに来た」
ユヌスは特に返事はせずに椅子から立ち上がり、入口のドアを閉め、鍵をかけた。
ユヌスはエズマライの方に向き直り、エズマライの顔に手を伸ばした。鼻筋に触れるか触れないか、ぎりぎりの位置に指先をすべらせる。
「鼻の骨が折れてる」
エズマライは軽く唇を尖らせた。
「通報されるから病院には行かない。放っといてもそのうち治る」
ユヌスの指先が、今度は唇の先に来る。
「歯も何本か欠けてるな。手強い相手だったのか」
「まあ、それなりに」
エズマライには終わった仕事について詳しく話す趣味はなかった。軽く首を伸ばして、まだ傍にあるユヌスの指先に唇を寄せる。
「ここから先は、上で」
ユヌスは手を引っ込め、店の裏口のドアを開け、エズマライと一緒に廊下に出た。廊下の突き当りにある二階への階段を二人で上がる。
エズマライはセックスについて、本当に何も知らなかった。ただ闇雲にユヌスの褐色の肌に触れていたくて仕方なかった。
ユヌスも男との寝方は知らないと言いながら、エズマライの性急で、どこに向かっているかさえわからない愛撫の手を、からかいもせずに自らの体に導いてやった。
エズマライの一方的な要求に、ユヌスがどうして応えてくれたのか、ただの気まぐれだと言うならそれでもいい気がした。
シーツの上で縺れあって吐き出すものを全部出してしまった二人の間には、愛とか恋とかいったものの遥か手前に位置する、ほんの一時だけ悪戯の共犯になったかのような、ごく淡い共感が漂っている。
ユヌスはヘッドボードに上半身を預けて、乱れた前髪をかき上げていた。
大きな枕を抱え込んで寝転がったエズマライは下を向いたまま尋ねた。
「ユヌスって本名か? 止まり木に鳩なんて、いくらなんでも出来すぎだ」
ユヌスはヘブライ語で鳩を意味するヨナに由来する名前だ。
呆れたような笑い声が、エズマライの耳にも届く。
「情報屋が知り合ったばかりの客に本当のことを言う訳ないだろ。おまえ、そんな甘ちゃんで、よく生きて帰って来られたな」
「ああ、甘いのは自分でもわかってる」
つられて笑ったエズマライの肩に、ひやりとしたものが押し当てられた。首を曲げて視線を上げると、ユヌスがスタンガンを握っている。
「悪いが一度死んでもらう」
──ああ、やっぱり、あんた本人が賞金を吊り上げておいてから殺すのか。
妙に納得した次の瞬間、電気ショックがエズマライの肩から全身に広がった。
エズマライは目を開けた。見知らぬ四角いコンクリートの天井は、どう見ても天国ではない。固いマットレスの上に起き上がると、鉄格子が目に入った。
少し経つと、制服を着た男が二人、鉄格子の前にやってきた。エズマライは取調室に移されて、尋問が始まった。
年配の男の方が机を挟んでエズマライの正面に座った。もう一人の男はエズマライとほぼ同じ年頃で、書類を挟んだクリップボードを手にして、離れた席に座っている。
「ここがどこだかわかるか?」
エズマライは首を横に振った。
「アンカラだ」
イスタンブールから遠く東に離れた首都だ。エズマライにもそのくらいのことはわかる。
「名前は?」
「エズマライ」
「そうか、パシュトゥーン人の間でよくある通称だな。勇敢なる若獅子くん、本当の名は?」
知っていて聞いている。エズマライはそう感じた。だとすると、変に隠しだてするのはかえって不利か。
「バースィル・ユスフザイ」
若い方の男が、クリップボードに挟んだ書類に視線を落としていた。
「移民管理局からのデータとも符合します」
「そうか、わかった」
年配の男は、エズマライの方に向き直った。
「選択肢は二つ、強制送還か、我らが建国の父への忠誠。どちらを選ぶ?」
ソ連による侵攻が進む中、エズマライは両親に連れられてアフガニスタンから脱出した。イスタンブールに辿り着いて間もなく、一家は離散してしまった。十三歳のエズマライはナーズィムに拾われ、命じられるままに裏稼業に手を染めてきた。トルコ語の読み書きを教わってようやく、親か、あるいは難民支援団体を装っていたブローカーに自分は売り飛ばされたらしいとわかってきた。いまさら国に帰ったところで、自分を知るものはおそらくもう誰もいない。
そして、それ以上に、自分を騙し打ちにして当局に売ったユヌスを決して赦す訳にはいかない。
「……建国の父への忠誠を」
エズマライは取調室の無機質な壁に飾られた初代大統領の肖像写真を睨みつけた。ここから再びイスタンブールに戻るためなら、偽りの誓いでも何でもする。
一九八九年が始まって早々に日本では昭和が終わり、二月にはアフガニスタンからソ連が撤退し、六月には中国で天安門事件が起こり、十一月にはベルリンの壁が崩壊した。世界が冷戦から新しい枠組みへ向けて激しく動き始めた一年も終わりに近づき、エズマライがユヌスに売られてから三年が経とうとしていた。
エズマライは三年ぶりにユヌスの古書店の前までやってきた。今日も入口の観音開きのドアは右側だけが開いている。その隙間から、胸元と脚の先だけ白い毛の生えた黒猫が出てきた。
エズマライが店に入ると、本棚の整理をしていたユヌスとすぐに目が合った。
「驚いたな、生きていたのか」
ユヌスは口でこそそう言うが、驚いた様子はまったくない。
「おかげさまで」
ぶっきらぼうに答えるエズマライを、ユヌスは黒い目でじっと見つめていた。
「折れた鼻と歯を治してもらったのか。男前が上がった。とはいえ、そのケツアゴはいただけない」
国家への忠誠を誓ったエズマライには、尋問の後に治療を兼ねた整形手術が施された。
「あんたが手術費用を出してくれるなら、元に戻してやってもいい」
ユヌスは苦笑いする。
「本当に言いたいことは他にあるんだろう、エズマライ」
エズマライは鼻を鳴らした。
「その名前ももうない。今はアスランだ。姓も新しくされたが、俺には正確に発音できない」
「アスランか。意味は前の名前と同じだな」
「まあな」
エズマライは後ろ手に入口のドアを閉め、鍵をかけた。気づいたユヌスが唇の片方を吊り上げながら、カーテンを引く。
「お望みはメフメット・エフェンディのコーヒー? それともシーシャか?」
エズマライは首を横に振った。
「ユヌス、あんただ」
「まさか。俺がおまえを当局に売ったのに? 殺したいほど憎んでいるんじゃないのか」
エズマライは目を伏せた。
「最初はそうだった。でも」
この三年の間にエズマライは懲役刑を受ける代わりに、アスラン・コルテュルクという名の国家情報機構の末端エージェントとして、国内外の過酷な現場に次々と投入されてきた。その中で、かつてのボスであったナーズィムが人身売買の容疑で摘発されたことを後から知った。ユヌスが摘発に向けて下準備を重ねていたことも。
「あんたのおかげで、俺は新しい人生を始められた。それには感謝してるが、正直、まだ少しモヤモヤしてる」
「だろうな。煮るなり焼くなり好きにしろ」
両手を広げ、無防備な姿で立つユヌスに対して、エズマライは極力感情を乗せまいと注意しながら、平板な声で答えた。
「一発だけ殴らせろ」
「いいだろう」
目を閉じたユヌスの片頬を、エズマライは指先だけで、ごく軽くはたいた。
「もう終わりか」
拍子抜けしたと言わんばかりのユヌスに、エズマライは「ああ」と短く答える。ユヌスは思わず聞いていた。
「これからどうするんだ」
「まだ決めてない。でも、どうにかする」
「いっそここに住んだらどうだ」
「いいのか」
「ああ」
エズマライは一歩踏み出して、ユヌスの額に落ちる灰白色の髪に触れた。
「好きだ」
ユヌスは視線を逸らす。
「……順序がおかしい」
「お互い様だ」
エズマライのもっともな返事にユヌスは苦笑いし、言葉ではなく、いただけないと評したばかりの割れた顎にキスで返した。
<了>
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