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第20話

「あはは、七瀬さん。嘘ですよ」 「ええっ?」 「騙されました? でも、そう言われて慌てるってことは、心当たりがあるんですね?」  岸屋は「俺にだけ話してくださいよ」と颯に迫る。 「どこまで仲良くなったんですか? 西宮室長と」 「な、な、仲良くなんかないよっ……!」 「そうですかぁ?」 「そうだよ……」  諒大と仲良くするつもりなどない。諒大は佐江のものだ。颯は身を引くと決めている。 「あんな素敵な人が、僕を好きになるはずがない……」  颯はロッカーを開けて、手持ちのエコバッグを広げて諒大のジャケットを畳んで中にしまう。  これは、汚いコックコートに足蹴にされた颯の身体にかけられたジャケットだ。きちんとクリーニングに出してから諒大に返さないと。 「七瀬さんは、西宮室長のこと、狙ってないんですか?」 「狙うって?」 「恋愛の意味でですよ。ほら、オメガって大抵アルファのことを狙ってるじゃないですか。西宮室長クラスのアルファだと、相当な数のオメガに狙われてるんじゃないかな」 「あぁ……」  颯もそれは納得だ。全人口の上位十パーセントを占めるアルファの中でも、諒大ほど優秀でオメガに優しいアルファは珍しい。社会的地位があっても傲慢だったり、オメガを取っ替え引っ替えしたりするアルファもいるからだ。 「西宮室長、オメガのヒートトラップにかからないようにアルファの抑制剤飲んでるって聞いたことあります」 「あれでっ?」  上位アルファになればなるほどアルファの力が強くなる。だから多すぎるフェロモン量を抑えたり、ラット(発情)を起こさないように薬を服用することもあるらしい。  オメガはお目当てのアルファに番ってもらうために、わざとヒートのときにアルファに接触して、アルファをラット状態にさせることがある。そうして理性を失ったアルファと交わってうなじを噛ませてしまうことをヒートトラップというのだ。  優しい性格の諒大のことだ。たとえヒートトラップだったとしても、オメガと番ったら責任を取って結婚までしてくれそうだ。  諒大の嫁になりたいオメガは大勢いると思う。アルファもアルファで自己防衛する時代になってきたのだ。 「あれでって、七瀬さん、西宮室長のフェロモン浴びたことあるんですか?」 「えっ? あの、たまたま距離が近くなったらときに……ちょこっとだけ……」  それは嘘じゃない。諒大との接触はほんの少しだけだ。それなのに、諒大からはめちゃくちゃいい匂いがした。  諒大がもし、アルファ抑制剤も使わずに、颯にフェロモンをぶつけてきたらどうなってしまうのだろう。諒大が本気を出したら、アルファのフェロモンにやられて颯は強制ヒートを起こしてしまうかもしれない。  上位アルファの諒大にとっては、お目当てのオメガにフェロモンをぶつけてヒートを起こさせ、力ずくで押さえつけて番になることくらい容易にできると思う。 「へぇ。普通オメガだったら西宮室長に迫られたらすぐにでもオッケー出すと思いますよ?」 「はは……そうだよね……」  巻き戻り前の颯はそうだった。諒大に迫られあっという間にすべてを受け入れてしまった。婚約破棄されるなんて思ってもいなかったから。 「じゃあ、七瀬さんは西宮室長とはなんでもないんだ……」 「そうだよ、何回も言ってるでしょ? 室長と僕は、なんでもないよ」  颯はコックコートを脱いで普段着に着替えながら、岸屋にはっきりと告げる。 「七瀬さん、背中、すごいことになってますっ」 「あっ……」  岸屋に裸を見られて気がついた。そうだった。背中は蹴られてアザだらけ。傷になっているところには処置のあとがある。 「見苦しくてごめん。でも大丈夫だよ、医務室で診てもらってるか——」 「可哀想に」  岸屋が颯の背中に触れた。その指がくすぐったくて、「ひあぁん……っ!」と思わず変な声が出た。 「えっ?」 「えっ?」  なんとも言えない微妙な空気が流れる。その気まずい静寂を壊したのは岸屋の笑い声だった。 「アッハ、七瀬さんったら!」 「ごっ、ごめんなさい……」  笑ってもらえてよかった。一瞬だけどなんか妙な雰囲気になりそうだったから。 「随分と可愛い声出すんだなぁ」 「そっ、そんなこと……」 「オメガだから可愛いんですか?」 「違っ……可愛くないから!」  とりあえず裸はまずいだろうと颯はサッと着替えをする。男オメガはこういうときに困る。男のくせに、同性である男の目をなんとなく気にしてしまうときがある。  こっそり岸屋の顔をチラ見する。岸屋は特段気にしていない様子なのに、変に意識してしまった自分が恥ずかしい。  颯は気持ちを切り替えるように、ぱちんと手のひらで自らの両頬を叩いた。

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