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第47話

「こういうことは猪戸さんにやらせればいいじゃん。諒大の秘書でしょ?」 「猪戸には今、早急に解決してもらいたいことを頼んでいるから。他に俺のマンションを知ってる人はいないし、知られたくもない」 「はぁ、相変わらず。ね、ちょっと寄っていい? ……うん、いい匂い。朝ご飯作ってたの? 私、朝から呼び出されて何も食べてないの。久しぶりに諒大の手料理食べたいなぁ」  颯はふたりに見つからない場所で耳をそばだてていたが、会話を聞いていて、佐江が中に入ってくるかもしれないと身構えた。 「いや、ダメだ。頼んだものだけ置いて帰ってくれ」 「えーっ! 冷たい、諒大」 「この埋め合わせは、落ち着いたらちゃんとするから」 「ふーん……」  なんだか颯の知らない諒大の一面を垣間見ている気分だ。諒大は佐江にだけは心を許していて、本音をはっきり言えるみたいだ。  わかってはいたが、特別な関係のふたりの会話を聞いて、颯の心がずんと重く、苦しくなる。 「じゃあ、いつもの。して」 「なんだよいつものって」 「キスだよ、キス!」 「こら。そんなことするわけないだろ。ふざけたこと言ってないで、早く帰れっ」  佐江と諒大のじゃれ合いの会話を聞いていて胸がズキズキ痛くなる。 (やっぱり佐江さんとキスしてたんだ……僕とも、佐江さんとも……)  颯は廊下とリビングダイニングのあいだにあるドアをゆっくり音を立てないように閉める。そして、リビングの端に置いてあった自分のトートバッグを取りに行く。今すぐここから立ち去れるよう準備をしなければ。 (僕とのキスは、愛情じゃない……)  この三日間、数えきれないほど諒大とキスを交わしたが、それは全部、颯のヒートを収めるためだけのもの。そこに諒大の気持ちはない。諒大にしてみれば、可哀想なオメガを助けるための行為だろう。 (でも、佐江さんとは、きっと……)  諒大と佐江は、正式には交際していないのかもしれない。でもそれに限りなく近い関係性なんじゃないだろうか。キスは特別な人としかしないものだと思うから。 (諒大さんは僕の存在を佐江さんから隠してるんだ)  諒大は佐江を家にあげようとしなかった。その理由は颯がいるからに違いない。  恋人間近の相手が、どんな理由であってもオメガのヒートの相手をしていたと知ったら嫌に決まっている。諒大はそれを佐江に知られたくないはずだ。 (僕がいた形跡を全部消さなくちゃ)  万が一、佐江が入ってきたときのためにと颯は自分の分の朝食の食器を片付け始める。諒大ひとり分ならいい。でも、ふたり分あるのは絶対にダメだ。  食器洗いの音が聞こえてはいけない。空のお皿は、流しに置いてあったフライパンの下にうまく隠しておく。 (それから……それから……)  あとはなんだろう。少ない荷物はトートバッグにまとめてあるから、いざとなればバッグを抱えてクローゼットの中に隠れよう。諒大の部屋のどこかに隠れるとしたら、ウォークインクローゼットにいるのが一番だ。  足音が近づいてきて、颯は急いでバッグを抱えてウォークインクローゼットの中に隠れる。  ガチャリとドアが開く音が聞こえた。それから、周囲を歩き回る足音が聞こえる。 「……あれ? 颯さん?」  諒大の声だ。諒大が颯を探しているみたいだ。  他に声は聞こえない。佐江は帰ったのかもしれない。  やがてウォークインクローゼットの引き戸が開けられた。 「颯さん。どうしたんですか、こんなところで。どこに行っちゃったんだろって心配しましたよ」 「あ、あの……その……諒大さんひとり、ですか……?」 「え? ひとりですよ。会社の人に必要な書類を持ってきてもらっただけです。すぐに帰りました」 「そ、ですか……」  その会社の人って佐江さんですよね。佐江さんと会えばいつもキスするくらいに、ずいぶん仲良しなんですね、とは颯は口が裂けても言えない。 「気を遣ったんですか? 大丈夫です。颯さんがいるのに他の人は入れませんよ。安心してください」  諒大は微笑むが、颯は申し訳なくてならない。颯のせいで佐江と諒大が仲良く過ごせる時間を奪ってしまったのだから。 「もう、ここには来ません……」 「えっ?」 「お邪魔しました。お世話になりましたっ」  颯は諒大にペコペコと頭を下げながら、そそくさとクローゼットから出る。 「さ、さよなら諒大さんっ」  トートバッグを腹に抱えて、逃げ出すように玄関に行き、急いで靴を履く。 「待ってくださいっ、颯さん、なんで……!」  追いかけてきて、腕を掴んできた諒大を颯は思い切り振り払う。  そのときの、諒大の寂しそうな顔。飼い犬に手を噛まれたご主人さまみたいだ。  ヒートに付き合ってやって、甲斐甲斐しく世話を焼いてやったのに、ろくな礼もなしにいなくなる薄情な颯に対して怒りすら覚えていることだろう。 「さようなら、諒大さん」  颯は振り返り、諒大に丁寧に頭を下げた。 (佐江さんと、お幸せに)  声にならない声で、諒大に伝わるかもわからない声で言った。 「帰るなら、俺が家まで送りますっ」 「だっ、大丈夫。大丈夫だからもう僕に構わないで! もう追って来ないで!」  颯は振り返りもせずに全力で走って諒大のマンションから出て行った。

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