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路地裏
夜通し降り続いた雨は上がっていた。廃寺には、朝日が細い筋となって差し込んでいる。
温もりが心地よくて、タイランは喰録の羽毛に顔を埋めるようにして体を丸くしていた。薄い腹には、血管の浮かぶ男らしい腕が回っている。
寝ぼけたドウメキによって引き寄せられるように抱き締められ、タイランの意識はゆっくりと浮上した。
(なんだこれ……、痣……?)
ドウメキの胸の間に、目を凝らさねば分からぬほどの痣を見つけた。それは心臓のあたりを示すかのように浮かび上っている。
タイランの指先が、痣に触れる。昨夜の薄暗い室内では見えなかったものが、陽の光によって晒されていた。
「ぅぶ、っ」
「おはようタイラン。いい機会だから言っておくが、城主は寝汚いぞ」
「……おはよう、ほんとうに……いい機会だな」
強く抱き込まれたせいで、タイランは顔面を胸板に押し付ける形となった。喰録のご挨拶に、もっと早く言えと不貞腐れる。
黒髪に鼻を埋めるようにして寝息を立てているドウメキは、随分と満足げな様子であった。
まさか己が、腕枕をされる側になるとは思いもよらなかった。タイランは肺を満たすドウメキの香りから逃れるように、胸元に手を添える。
押し返そうと力を込めた手は、思いの外柔らかな胸の筋肉に沈む。力を入れていないと、こんなに違うものなのか。少しだけ興味が湧いた。
「朝から人の胸を揉むな」
「離れろドウメキ。苦しい」
「……腰を労った方がいいか」
「既成事実を作ろうとするな」
「痛い!」
不穏な方向でのからかいを、タイランが許すはずもない。しっかりと顔面に手のひらを押し付ける形でドウメキから距離を取ると、緩んだ腕からすかさず抜け出した。
「朝から大変だなタイラン」
「全くだ。油断も隙もない」
「お前の肌に触れて耐えている、俺へ何か言うことは」
「おはようドウメキ」
「……おはよう」
何かを言いたげに挨拶を返すドウメキに、喰録が愉快そうに喉を鳴らした。寝起き早々、タイランはテキパキと朝の身支度を始める。身に纏う白い深衣は、朝日を映しとるかのように柔らかな光を取り込んでいた。
腰布を縛ることで身方を整える。タイランの薄い腹に大きな手が回され、ドウメキの体温を背中に感じた。黒髪を纏めるつもりでいた手を取られると、そっと後頭部に口付けられる。
「おろしていろ、そちらの方が似合う」
「邪魔だろう」
「ダメだ、俺はそちらの方がいい」
「あ、おい」
タイランが手にしていた髪紐は、するりと抜き取られた。振り向けば、それはしっかりとドウメキの袖に仕舞われていた。
黒い深衣に袖を通しただけのだらしないドウメキの姿に、ため息を吐く。タイランの手は、世話を焼くように床に放置されたドウメキの深衣へと伸ばされた。
「早く支度をしろ、俺は腹が減った」
「それは大変だ」
急かすようにドウメキの身方を整えてやる、そんなタイランが面白かったらしい。ドウメキは着付けをタイランに任せながらも、甘えるように黒髪に頬を寄せてくる。
衣擦れの音と共に腰紐を縛り終える頃には、不服そうに見えたドウメキの機嫌はすっかりと元通りになっていた。
昨晩布団の役目を果たしていた羽織を手渡す。ドウメキが袖を通せばいつも通りの姿に戻る。そのはずだった。
「ああ⁉︎」
「なんだ朝から治安の悪い声を漏らして」
「待て、お前……なんで髪の色を変えられる!」
「白髪は目立つだろう。俺は人間に化けることもできる。……ああ、そういえば見せたことはなかったか」
猩々緋の羽織がドウメキの姿を隠したその一瞬で、タイランと同じ黒髪へと色を変えたのだ。あっという間の出来事であった。よくよく見れば、目元の朱も消えている。
ドウメキの姿は、まさしく人間そのものだ。にい、と犬歯を見せつけるように嫌味な笑みを向けられても、タイランの気に入りである犬歯の尖りは消えていた。
「ほらいくぞ、朝餉を食べるのだろう。すまないが私を抱いてくれ」
「あ、ああ」
「物々交換でもいけるだろう。朝市がやっていたはずだ」
ドウメキの転化に呆気にとられたままのタイランの手首を、大きな手が掴む。体の主導権を握られるように引かれるタイランの腕へと、喰録が飛び込んできた。
小さくなった喰録の体を腕に抱きながら、まだ少し湿っている靴を履いて廃寺をでる。
参道を抜け、市井が近づくにつれ人の声がするようになると、ようやくタイランの頭もはっきりとしてきた。
腕に抱える喰録の鼻先が、屋台へと向けられる。蒸した饅頭を売っているらしい。あたたかみのある甘い香りに鼻腔を刺激され、タイランの腹はくるりとなった。
「そういえば、好物だったか」
「え?」
「親父、これで一つよこしてくれるか」
「ああ、何でよこせって?」
屋台の目の前で立ち止まるなり、ドウメキが宣った。
老いた店主がメガネをずらすようにして関心を示したのは、ドウメキの無骨な指先によって取り出された、大粒の砂金であった。
時代錯誤な貨幣に、店主は手のひらを覗き込むようにして注視した。
「ああ、一つじゃ採算合わねえなあ。砂金持ち歩くだなんて粋だねえ、一昔前の伊達男じゃあるまいし」
一昔前の伊達男どころか、妖魔ですなどとは流石に言えないだろう。ドウメキの背後では、親父の言葉を耳にしたタイランが、胃の痛みを堪えるかのような顔をしている。
「しまっておいてくんな。どこで見つけたかはわからないが、今はあんま見せない方がいいよ。最近はここらも物騒になったから」
「物騒?」
「ああ、ここは金山だったろう。城のお偉いさんが金塊を発掘するとかで、調査隊がくるようになったんだ。お偉いさんの中には守城さんもいたから、きっと山主をどうにかしようとしてんじゃないかなあ」
「山主を……」
紙袋に饅頭を入れる、親父の手つきは慣れたものだ。
単なる巷話で終わればどれほどよかっただろう。タイランは、店主の言葉を前に身をこわばらせた。
「ここにも、来ているのか」
「ここにもって、山主の眠る岩屋戸へは、こっからのが行きやすいんだ。人探しも兼ねてるって言ってたけど、どうだろうね」
「城の守城は、どんな妖魔をつれていた。姿は、覚えているか」
「なんだ、やけに食い下がるじゃないか。もしかしてあんたもそうなのかい?」
タイランの募るような質問に、店主は怪訝そうな顔をする。胸の内から湧き上がってきた無意識の焦りに、周りが見えていなかった。口を抑えるようにして言葉を止める。
どうしよう、どうしたらいい。
タイランの動揺する姿を、ドウメキは静かに見つめていた。その視線に気が付かぬまま、店主へと曖昧な返事をして誤魔化す。
(ヤンレイが俺を探している……)
店主の言うことは、本当なのだろうか。もしそうだとしたら、命令を放棄したタイランが見つかれば、間違いなくヤンレイに捕まってしまうだろう。
震えを誤魔化すように拳を握りしめる。そんなタイランの手をあたためるかのように、ドウメキの手が重なった。
顔を上げるよりも先に、手を引かれるままに足は動いた。戸惑う瞳が映したのは、饅頭の入った紙袋を胸に抱いたまま表情を固くする、ドウメキの姿だ。
大きな一歩を踏み出すだけでタイランは小走りになってしまう。一体、どうしたというのだ。戸惑いながら、タイランはドウメキの後ろで忙しなく足を動かした。
「ど、ドウメキ」
「裏道に行く。ついてこい」
「え、あ……」
家と家の間の、狭い路地裏を行く。タイランからは、短く整えられた見慣れぬ黒髪しか目にすることはできない。
怒っているのだろうか。心なしかドウメキの声が低いと思うのは、嫌がる山主の話題に触れたからかもしれない。
ちくりと傷んだ胸の奥、タイランが逃げるようにドウメキから視線を外した時。家々の隙間から見えたのは、見知った衣服を身に纏った二人組の男であった。
(あれは、……っ)
店主の話は本当だったらしい。目にしたのはおそらく青院の兵だろう。締めている腰布にはヤンレイを表す金刺繍を施されていることから、きっと将軍であるイムジンもこの近くにいるのだろう。
タイランの指先は、サッと冷たくなった。血の気が引くというのは、このことを言うのだろう。盗み見るように目配せをすれば、男のうちの一人と目が合いそうになった。
慌てて俯く。タイランの長い黒髪は目立つのだ。頼むから気づいてくれるなと願う薄い肩に、猩々緋の羽織がかけられた。
「女のふりをしろ。撒くぞ」
ドウメキの力強い手のひらが、タイランの肩に回った。グッと体を引き寄せられ、少しだけ歩きづらい。
長い髪を揺らし、赤い羽織を緩く肩にかけるタイランは、ドウメキの体格の良さもあいまって女のようにも見えていた。
小さな村で、深衣を着ているだけで目立つ。考えなしに行動した己を恥じるように俯くと、ドウメキの手を背に感じたまま、薄暗い路地の隙間へと入り込んだ。
「どう、……」
「静かにしろ。近くにいる」
「……っ」
隣合わせの家の軒先が、触れ合いそうなほど狭い場所だ。薄い体を壁に押し付けるようにしてタイランを腕で囲ったドウメキが、瞳を細めるようにして通りへと目を向けた。
わずかな隙間から伸びた光が、男たちの影によって隠される。
このままじゃ見つかる。細い喉を上下させて身構えるタイランの頬に、ドウメキの手が触れた。
「え、っ」
ドウメキの肘が、タイランの顔の横についた。腕の中の喰録が慌てて逃げるように地面へと降りると、空いた隙間を許さないというように体で追い詰められる。
背中に感じる壁の感触が生々しい。なんでを口にすることはできなかった。
気がつけば、タイランの声は一呼吸を奪われるかのように、ドウメキの唇で塞がれていた。
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