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第5章 北京欲情

      1  檀那さまは退室しようとしない。当然だ。僕と二人っきりにしろだなんて。 「邪魔をされると困る」客が言う。 「せやからなにする気で」檀那さまが言う。 「言う必要はない。私はそちらの子に用がある」  距離はあまり当てにならない。飛び掛られればたぶん僕は逃げれられない。黒尽くめが廊下で構えていてくれているがどうも腰が引けている。そもそも本気で僕を守る気がないのだろう。 「カネなら幾らでも出す。その子と」客が言う。  逃げろ。と顎をしゃくられるが僕は。 「一回ヤれば帰ってくれますか」  それだけはやめてくれ。といわんばかりに檀那さまが首を振る。  ちっとも威厳がないなあ。檀那さまになったんだろ。ここは檀那さま的にきっぱり断るかしなきゃ。それができないなら僕のほうでなんとかするよ。 「連れて帰りたい」客が言う。 「質問に答えてください。一回ヤれば帰っていただけるのか」 「帰らない」 「ならばお帰りください。生憎僕は売り物じゃない」  また股間が膨らんだ。見ている僕も僕だが。 「幾ら要るんだ。十億出す」客が言う。  安いなあ。僕の価値はたったの。 「三十億。いや、百億」  競りじゃないんだから。人身売買。オークション。  檀那さまはどんどん苦渋の表情が極まってくる。あんまり無理しなくていいよ。僕のことが好きならそういえばいいのに。お手つきだってわかればもしかしたら諦めてくれるかもしれないし。 「名前は」客が言う。 「ゆわんでええ」檀那さまが言う。 「名前を聞きたい。是非」  股間を膨らませながら近づいてこないでくれ。さすがにほかの意味で怖くなってきた。行きずりの男とヤるくらいなんてことないけど、なんかこの男は。二メートルとは徹底的に違う。僕を見て興奮している。 「名前聞いたら帰りますか」 「連れて行く」客が言う。  ついにズボンに染みが。 「二十兆でどうだ」客が言う。 「どうって、駄目なんですよ。僕はそうゆうことをするためにここで待機してるわけじゃなくて」 「どうでもいい。私は君を」  かいたい。  買いたい。飼いたい。解体、じゃないだろう。どれだ。どれも微妙な。  檀那さまもそこでぼうっとしてないでなにか。 「ええよ」  腕をつかまれた。その手を男の股間に。すごく厭な感触。放せ。力が強すぎて。  なにをしてるんだ。助けろよ。檀那さまを見ても。  見てない。なんで。お前は僕が好きなんじゃ。  男は人差し指を僕の額に当てる。そのままつうと下に滑らせて。すごく気味が悪い。いったん胸の辺りで止まって脚と脚の間で。さらに男の股間が。もう布越しに形がわかる。湿っている。 「連れて行く前に。いいね?」客が言う。 「構へんよ」檀那さまが言う。  構わないわけないだろう。ヨシツネ。僕が好きじゃないのか。僕を独占したいからこんな山奥に閉じ込めて。  どこへ行く。なぜ襖に手をかける。そっちは廊下じゃ。 「ああ、二十兆。忘れんといてな」  ヨシツネ。  眼があった。そして嗤われた。あれだ、あの。口の端だけ上げる。  冗談じゃない。僕を裏切る気か。こんなことをしてただで済むと。もう二度と可愛がってやるものか。おかしい。あんなに僕にべったりだったはずなのに。厭きた? まさかあり得ない。要らないならさっさと殺せばいい。口封じもできて一石二鳥だ。殺さないということは。そちらのほうが利点が大きいということか。なんだ? あいつは僕に何の怨みがあって。怨み。  た、すけ、て。  助けなかったから?  男は僕の身体の隅々まで文字通り、文字以上の意味で観察して車にぶち込んだ。服を剥ぎ取られた。寒い。訴えようにも聞こえていない。完全にイってる。  まったくもって状況が解せない。僕が二十兆で売られたということくらいしか。最初は十億だった。さっきの遣り取りは、値をつり上げていたとしか。売る気がないように見せかけて。  なんなんだ。わからない。とにかく屈辱的だ。  ケータイが取り上げられなかったので、わざとかもしれないが、男が眠っている隙にかけてみる。出ろ。出なかったら二度と口利いてやらない。 「生きとるかぁ?」檀那さまが言う。 「僕がいまどんな気分かわかってるよね」 「わからへんな。俺はむっちゃええ気分やさかいに」  殺してやる。僕は絶対生きてあの屋敷に帰ってやる。 「何か僕が悪いことをしたの?」 「よーやっと思い当たったんか」檀那さまが言う。「ゆうてみ? 合っとるか確かめたるで」  なんでこんなのに頭を下げないといけないのだ。  くやしいくやしいくやしい。 「あの時だよ。バイト先で会ったとき。助けてってゆったのに」 「ぶーハズレ。あと二回ね」  二回ってなんだ二回って。  て怒ってる場合じゃない。ここは我慢我慢。 「床に物落としてそれ食べさせたやつ」 「ぶっぶー。ああでもそれも腹立つな。くそまっずいじぇらーと食わされたしなあ。なんで四つも混ぜるん? しぇいくとかゆうて」 「ご、ごめん。ごめん。もうしない。謝るから」 「ほな最後ね。さーて当ったるかなあ」  その余裕っぷりで気が狂いそうだ。  男が寝返り。まずい。隣の部屋に。  駄目だった。脚に鎖が。ベッド周りから離れられない。 「早うゆうてえな。遠慮せんと」檀那さまが言う。 「椅子壊したから」 「どこの?」 「プールの」 「いつの?」  とっくに思い出してるよ。忘れてなんかない。  忘れてなんか。 「オジサン」  ニンゲンは縮まない。育つことはあり得る。あのとき見たときより大きくなっていなければ。大きくなっていないとするなら。  沈黙。  黙っていてくれてありがとう。  脚。つかまれる。男が。 「何をしてる」男が言う。  ケータイ。 「代わってくれ」  差し出すしかない。 「なんだ。どこにかけたのかと思ったら。そうか。キサガタなら元気だよ。このとおり。殺しはしない。殺してしまっては勿体ない。できれば永遠にここにいてもらいたいが。わかった。明日までに振り込もう。それでいいね」  よくない。すでに一ヶ月も。まだ延長するのか。  やめてくれ。やめて。僕はこの変態男と一緒にいたくない。  まともに外出も。足輪。性奴隷ですらない。  僕はこの部屋の家具だ。そうでなければあんな、人間のする性行為とは程遠いようなプレイを毎日まいにち。  椅子。壊したから罰が当たったのか。屋上から落下させられた哀れな椅子の気持ちを味わえと。  椅子いすいすいす。僕はこんなイカれたやつに座られて続けて一生を送らないといけないのか。  椅子の運命。  いすいすいすいすいす、い。  乃楽シュウ。ごめんね。ごめんよ。僕が悪かった。僕がきみをいじめたから。でもいじめたんじゃないんだ。あれは僕なりの。  ケータイ。返される。よかった。  つながったまま。 「ホンマに反省しとるんか。お前がやったことは」檀那さまが言う。 「ごめんなさいごめんなさいごめん、ごめん、ごめ、ん。ごめんごめんごめんね」  謝ったって意味がない。乃楽シュウはもういない。僕が取り去ってもらった。葬式で燃やした。  でもあれは椅子だった。可愛いかわいい乃楽シュウじゃなくて。 「ねえ、当たってる?」 「俺が好きやったんはお前やないで」檀那さまが言う。 「わかってる」  僕なんか好くわけない。よく黙ってたよね。並の根性じゃない。 「わかってるよ。シュウのほうが」  かわいい。  切る。切った。自分で切ればつらくなくていい。  男は。  またあれをさせようとする。  キッチン。そのときだけ僕の足輪が外される。  考えもしなかった。逃げるとか。あるじゃないか。とっておきの方法が。  僕が椅子じゃなくなれば返品せざるを得ない。  まな板。  ダイニング。立たされる。冷蔵庫から細長い。腸詰め。包丁でそれを食べやすく。しながら後ろから。  座っている。  大丈夫。切ればいい。  切り落とせば。  ヨシツネが迎えに来てくれる。僕を引き取りに。  男が吃驚して尻餅をつく。  吃驚? なにに驚くというのか。お前がいままで僕にしてきたことに比べたらこんなことくらい。正常の中の模範。逸脱はお前だ。挿入も接触もなしでどうして勝手に発射するんだ。わけがわからない。僕のほうが自明じゃないか。理由も手段もしっかりして。  なんか。  床が遠い。天井はもっと遠い。どうしてだろう。  ケータイ。そうだ、連絡しないと。以心伝心とかは期待できないから。  ベッド。ええと、どこに置いたかな。思い出せない。何色だったっけ。男がのた打ち回っている。腸詰めが散らばってる。幻覚かもしれない。だってここから見えないはず。壁が邪魔して。  リビング。使えない。ケータイはこうゆう時にバッテリィ切れ。画面が明るくならないんだ。電源ボタンをずっと押してれば何か映っても。番号を思い出さないと。駄目じゃん。電源が入らないんだから。ああああああああ。くらくらする。包丁持ったままだった。手。滑る。ぬらぬら。男がぶっ掛けた名残だ。本当に気持ちが悪い。ヨシツネが来る前にきれいにしておきたい。久しぶりに会えるんだから。  ちょっとは檀那さまらしくなったかなあ。  バス。洗い流そう。ホント、落ちないけどなんで。       2  ぼくは椅子が好き。だから椅子になった。  椅子になりたいって言ったら、いいよって言ってもらえて、ぼくは椅子になった。椅子っていってもいつも椅子なわけじゃない。椅子じゃないときは、椅子じゃないものなっている。それが何かは、ぼくにはわからない。  そろそろあの季節。またあの、プールの季節。ぼくはこの季節が好き。外で椅子になってもいいから。外で椅子になることができるから。  でも外で椅子になったって、家の中で椅子になったって、ぼくは椅子なんだから椅子のぼく自体に何も変化はない。外でも中でも椅子。それがぼく。  それでも外で椅子になるのはすごくいい。ぼくは椅子だから椅子的な感覚しかなくなるんだけど、その椅子的な感覚で外にいることを感じるのが好き。椅子になったときに外に出してもらうのではダメなのだ。外で椅子になりたい。外で。  椅子と同化するのではない。ぼくが椅子になる。どこかの人みたいに、椅子の中に入るわけでもない。ぼく、イコール、椅子、になるのだ。ぼくと椅子が等式で結ばれる。リーンゴーン。てそれはちょっと違うけど。  ぼくが永久に椅子になることを認めてくれたこのお屋敷には、ぼく以外にも仲間がいっぱいいる。もちろん椅子だけじゃない。すべての家具は、ぼくの友だちで親友で知り合いで仲間だ。物にべったりなのがテーブルさんで、人にべったりなのがソファさんで、床にべったりなのがカーペットさんで、天井にべったりなのがライトさん。  じゃあぼくは、何にべったりなんだろう。人にべったりしてもらえれば一番うれしいけど、それはソファさんのほうが適してる。椅子のぼくにはべったりっていうより、使うっていうほうが合ってる。あんまり使ってもらえないのが現状だから、ぼくはちょっとさみしい。ずっとずっと待ってるけど、そうじの人が、はたきでぱたぱた、ときどきほこりを払ってくれるくらい。そうじしてくれる人は、そうじに来てるだけだから。  壁にべったりなドアさんが開けてもらえた。てことはもしかして、人が来たのかな。床にべったりなカーペットさんはきっと踏んでもらえてる。いいな。物にべったりなテーブルさんが何か置いてもらえた。椅子には眼も耳も鼻も口もないけど、椅子的な感覚があるからそれでなんでもわかる。なんでもっていっても大したことないけど、一番自信あるのが、椅子的嗅覚。  あのにおいがする。ぼくに一番最初に、椅子になっていいっていってくれたあの人の。うれしい。ぼくはいま、すごくうれしい。使ってもらえる。わかる。ぼくにはそれがわかる。ぼくにかかっているレースの布。それ越しに感じる重みとか温度とか、そうゆうものを想像する。使って使って。早く座って。  だけどどれだけ待っても、あの人はぼくに座ってくれなかった。それどころかぼくにかかっているレースの布を取って、こんなことを言った。 「これを取り去ってくれませんか」  取り去る? それはレースの布のこと。だよね? でもすでにレースの布はぼくから取り去られている。  あれ? じゃあぼくのこと?       3  傍にいたところでくっつくわけもなし。仕事をしなければ。  あの女の催促があまりに鬱陶しいので池に捨てた。ケータイ。がなぜか部屋に。どこぞの親切などなたかがわざわざ拾ってくれたのだろう。余計なことを。  壊れてる。  疲労が溜まるピークのころにサダがやってきた。呼んだ憶えも約束もしてない。あの女の差し金だ。 「よーまみたいな顔してはるえ」サダが言う。  洋間? 「じゅんちょーに歯向かってきよりますわ」サダが言う。「せやけど初っ端があれやったでしょう。相当ショックやったらしゅうて、めきめきとじょーたつしましてな。いま」  独走トップ。  知ってる。想像つく。あれは俺と違って。 「おかしくなってへんか」 「あらぁ心配してはるの? めっずらしいことも」サダが言う。  がたん。隣。起きた。  襖。 「どないでっしゃろ」サダが言う。  見ればわかるだろう。睨んだら肩を竦められた。  枕元の食事は冷えて固まっている。減ってない。水分が蒸発したくらい。  横からひょいと手が出て柴漬けを。 「ええやん。勿体ない」サダがこりこりと咀嚼する。  顔色はそれほど悪くはない。照明をつけると布団にもぐってしまうのでよく見えてないだけかもしれない。  手に。  触れようとしたところでサダがくしゃみ。 「花粉症やさかいに。堪忍したって」サダがわざとらしく言う。 「寄生虫でも飼うたらどや」 「デートに行かはりたいのと違います?」  ただでさえ細かったのに。骨と皮。  熱が感じられない。いくら毛布をかけても、内側から温めないと。 「こないに静かぁなコやったかなあ」サダが言う。 「お前がおるから話さへんの。用ないなら」 「あーすんませんね。ほんなら」  メインテナンス。サダは、そもそもそのために来たんだろうに。  襖を閉めさせた。  眼が慣れる前に抱き締める。それしかできない。 「まだ相手してくれるんだね」キサが言う。 「すまんな。そっこー帰らせるさかいにな」 「別に気にしてないよ。僕が故障してるんなら頼んだほうが」  壊れてない。  何か作らせようとしたら首を振られた。自分の仕事だから他の人にやらせるわけにいかない。そう言って頑なに拒否する。だからせっかく作らせても手をつけてくれないのだ。 「なあ、俺が作ったったら」 「おいしくなかったら食べないよ」キサが言う。  キサのテリトリィに踏み込む。キッチン。  誰も使わないのであのときのまま。  キサが最後にここに立った。自分でやっておきながら。 「危なっかしいことしはって」サダが言う。  まだ帰ってなかったのか。見られて困るようなことは何もしていないが、なんだか後ろめたい。  サダが不可解な笑みを向ける。檀那さまになってからキッチンに立った姿を始めた見たからかもしれない。 「昔は、ようやってはったね」サダが言う。 「せやな」  誰もやる人がいなかったから。やらざるを得なかった。  檀那さまなんて大層な名で呼ばれるが、要は雑用係。家事から家計簿から買い物からなんでもござい。  とうとうキサに笑われた。声が大きいというのも考え物だ。  キッチンの隣の隣がキサの部屋。筒抜けだったらしい。 「台所に立つとか似合わないからやめなよ」キサが言う。 「せやな」  別に家事は嫌いじゃないから料理くらい作るけど、キサが望んでないからやめよう。  結局何もしてない無駄足だったが、キサの笑顔を久しぶりに見れたからよしとする。本格的に久しぶり。俺が笑ったのも。  入院期間にすっかり散ってしまったので花見は行ってない。とすると何を見に行こう。散歩するだけでぞろぞろ妙なのが付いてくるから不便で仕方ない。全域で強制休暇を作ってキサとどこぞへ出掛けたい。そう思いついた瞬間に連絡してくるのがあの女の特技というか。  黒づくめが持ってきた電話を捨てた。放り投げる。池。  それでもいつの間にか部屋に戻ってる。丁寧に水滴拭き取って。  誰の仕業だ。吊るし上げて島流すか。あの女の眼と耳や口の延長はここにはいないはずだと信じたいが。  カネか。魂なんざ安いもん。  それでも繰り返し繰り返し繰り返して電話を持ってこられるのでさすがに不審に思う。しかも捨てるたびに何度も何度も何度も部屋に戻って。不気味すぎる。機能停止しても尚池の底から這い上がってくる。あの女の呪いがかかっているに違いない。  手下のあまりの使えなさに痺れを切らしたのか、とうとう呪いの主が殴り込んできた。例によって両手に物騒なものをぶら下げて。  ない。なぜ。どんぱちなんか唯一の趣味だろうに。  様子もなんだか。清々しいくらいに余裕綽々ないつもの低反発な笑みをどこぞに忘れてきたかのような。  女は開口一番に「ツネはんおらへんか」と呟いてへなへなと座り込む。演技だとしたらまあ新たな演目をお考えで。と切り返そうと思ったが。 「どないしたん?」  口が勝手に。眼の前で泣きそうな顔をされれば誰だって。反射的に声をかけてしまった。  キサはいない。食料やら日用品やらの買出しに行って。  いなくてよかった。  居たら。聞かれたら。動けない。  ツネがいなくなった。 「って、いつや?」  そうかそれでしきりに連絡を取ろうと。そうゆう緊急事態ならそういえばいいのに。いや、緊急事態だと伝える電話も出なければ同じだ。用件の重要度で着信音が変えられればいいのに。どうせ一括で出ないが。  それがいけなかったのだ。  当ても手がかりもないようだった。支部から物理的に最も遠い客のところに派遣したっきり、音信不通。駅まで送ると気を遣った客の申し出を蹴って駅のほうに向かった後姿を客が確認しているがそこまで。そこから先は。 「わーった。俺も手ぇ尽くすさかいに」 「ほんま? ウチ、ツネはんいななったったら、もう」  寵愛を失う。黙って捜そうとしたのだろう。しかしバレるものはバレる。北京(ベイジン)の眼と耳と口の延長が感づいて。隠していたことも知られて二重にヤバい。  なるほど。女にしてみたら死ぬか死ぬかの瀬戸際。どっちに転んでも終わりだ。  女が傷つこうとなんら困らない。死んだって構わないくらい。むしろ喜ばしいかもしれない。気分だけは。実際、女が寵愛を失うということは、俺もキサと一緒に居られなくなる。この体制が崩れて。  どうなるだろうか。どうもならない。どうもなってほしくないしどうもさせない。 「ちぃとも動じひんね」女が言う。「あんたんこと、こないに頼もし思うたんは初めてやわ。ぎょーさん可愛がっとくもんやねぇ」  顔にも口にも出さなかったが、最初に思ったのは。  やはり。ツネならいずれやると。そう遠くないうちに。  あいつは俺と違う。飼い慣らされる中でそれでもなんとか小さくてもそれを維持していくために支えになりそうな幸せを見つけようなんて考えない。  とにかく最新の目撃者。客のところで話を。そいつが匿っているという可能性もある。ツネを手に入れたいあまりに監禁。帰ったと虚偽を吐いて。よくもまあ。欲しいものはすべて根こそぎカネで手に入れてきた奴らだ。レンタルなど馴染まない。大枚はたいても手に入らないものがあることを思い知らせなければ。  なんたら醫院(いいん)。もちろん、なんたらのところはほぼ消えかかっている。石柱に表札。ここで医者をやっていた人間の名字だろう。錆びて赤茶けた柵。やっとの思いで退けて踏み入る。  雑草生え放題。白樺。右手に溜池らしきものがあったが、溜まっているものは生憎水じゃなかった。  その住居は、元は蔵だったらしい。門から蔵までがやけに遠いのはそもそもそこに診療所があったから。跡形もない。  玄関先の水道で、男が水槽を洗っていた。金魚は一時的に洗面器に。縁日で捕獲できる赤いやつより二周りくらいでかかった。食べ残しの餌が呪いみたいに沈んでいる。 「そこじゃ落ち着かないらしくて。食べてくれないんですよ」  砂利を流水でこすりながら言われたので返事するタイミングを損ねた。  じゃりじゃりじゃりじゃり。淡水魚特有のあのにおいがする。  もしかしなくても、終わるまで待ってろとそうゆう。 「わざわざこんな田舎くんだりまで来てもらっておいてなんですが、彼は帰りました。私なんかがどうこうできる子じゃないですよ、あの子は」 「せやけどねえ、最近の目撃談がここやさかいに」 「彼の名前、教えていただけませんか」奴が言う。 「聞いてへんの?」 「ええ、そのつもりだったのですが。あっという間に期限が来て」  ヨシツネ。 「どんな字を」奴が言う。 「口でようゆわれへん。手紙送らへん限りいらんやろ」  じゃりじゃりじゃりじゃり。 「鍵、開いてますので」奴が言う。 「邪魔くさいやん。いてるのかおれへんのか。そんだけ聞いてのこのこ帰るわ」  水槽に砂利を戻す。重量のある石を中央に置いて、水底の環境を整える。溜池から水草を取ってきて、八分目まで水を張る。金魚は我が家に放たれる。そいつは淀みない動作で作業を終えると、どこかへ水槽を運んでいった。  外から見る分には一階建て。箪笥のような階段のような実は箪笥という家具を見つけた。見上げると天井部分が開く。屋根裏がある。もしくは広い庭のどこか。納屋があってもおかしくない。  ツネ。呼んでみたところで虚しい。  最中がちゃぶ台にあったので一つもらう。ちょうど胃袋に入ったところで奴が顔を見せた。だいぶお待たせしましたという顔で。 「医者やったんか」 「曾祖父ですよ。でもよく知りません。土地と建造物を相続しただけですから」  お茶は、と聞かれたので首を振った。長居するつもりはない。それなのに水槽を置いてくるだけで三十分も待たせやがって。 「お時間を与えたつもりだったのですが」奴が言う。  捜す時間。感づく時間。 「上か」 「彼は、なんなんですか。あなたのところとはそこそこ長いお付き合いがありますけど、つい最近ですよね。本当に、こんな隠し玉があるのなら」 「上なんやろ」 「いままで借りた子らがカスに見える。なんだろう。彼は私にこう言ったんですよ。カネくれたらなんでもしたるって。あり得ないですよね。彼は私に貸し出されたんですよ。立場なら圧倒的に私の方が。なのに、おかしいったらない。おかげで初日はまともに相手してもらえなかった。怖がったり逃げ出したりしてくれれば私だってそれなりに対応のし甲斐がある。無理矢理押さえつければいいんですから。でも彼は違った。これから私に組み時かれようとしてるのに、それも一方的にカネで買われたはずなのに。あの眼は」  がたん。上。天井から。 「ああ、お気になさらず。ネズミです。まったく、ネズミ取りってのは何捕まえるんですかね」 「見てええか」 「引っ掛かりますよ」奴が言う。 「とぼけるのもええ加減にせえよ。俺騙そたって」  どたんばたん。わかってる。わかってるからもうちょい待て。 「米が食い荒らされてぱあですよ。お前たちに食べさせるために作ってるわけじゃない。他にも布団やら着物やら。あなたならおわかりでしょう。手入れが大変なこと」  がたんどたん。ばたんばたん。 「見てええな」 「ネズミですよ」 「さっさか返してくれへんかな。延滞料手数料迷惑料込みこみで」  奴はゆっくり立ち上がって。  盆を投げつけた。盆だけならまだしも一緒に湯呑みが飛んでくる。中身入り。  一張羅じゃないがこれは割とお気に入りだったのに。いましがた手入れが大変だとゆったばかりで。  そうか。手入れが大変だと同情しておいてわざと。  奴がいない。  どたんばたんずどん。なんの魔法か、湯飲みは無事だと思って拾ったところでまさに。  割れた。魔法だろう。  たったたたたったたたたった。これはネズミかもしれない。  階段箪笥だか箪笥階段だかを上って天井裏に。ホコリくさい。眼が痛いが眼を凝らす。 「いてるかぁ。いてたら返事しぃ」  どうやら盆アンド湯呑みおまけに茶攻撃の隙に。  外か。洗面器が逆さになっている。ぎょっとしたけど金魚はすでに水槽に戻っている。  白樺と溜池。溜息も出ない。  白い莫迦。 「いくらですか」奴が言う。 「いくらもなんも。売ってへんのよ、それ」  納屋だった。 「いまなら引き続きお付き合いも望めるかもしれへんよ」  縁側とちょうど対角線。窓から水槽が見える。水槽を置くついでに様子を見に。  逆か。様子を見に行ったときに水槽が眼に入って。優先順位は金魚より上らしい。 「困るんやけどなあ。俺やのうて俺の上司が」 「あなたから言ってくださいよ。上司の方に。いくらでもお支払いしますから」 「せ、や、か、ら、ね。何遍もゆわせんといて。そいつは売りもんと違う」  銃声。幻聴か。幻聴だと思いたい。  しかし幻聴でなかったら、近づいてきてる存在がいる。こうゆう現場がひたすら好きな。  銃声。銃声銃声。 「なんや聞こえへんか」 「ヨシツネくんは私が」奴が言う。  銃声。  近すぎだ。奴が。音源を辿りながら崩れる。  銃声銃声銃声。 「なにもそないに穴空けへんでも」  憎いのはわかっている。蜂の巣の刑の次は八つ裂きの刑か。中身を抉り出されるのかもしれない。食事の前には考えたくない。いまごろキサがご馳走を作って待っていてくれる。  納屋からツネを救出して、車。死体は女にくれてやる。  ツネは一言も口を開かなかった。確実に弱っているはずなのだが。弱っているから口を開かないのか。そうか。それは難儀だったな。 「逃げたんかと思うとったわ」  労いのつもりで声をかけたが、ツネは眼を細めただけ。  睨んでいるのだろう。話しかけるな。なんという反抗的な。 「お前、なんや好きなもんあるか」  せっかくキサが腕によりをかけてくれているので交ぜてやろうと思った。機嫌がいいとここまで余裕になれる。本当は二人っきりで食べたかったが。長い間絶食を強いられていたかもしれないので栄養上まずいと。純粋な親切心からゆったのだが。  ツネは水分の足りなさそうな声色で一言。 「カネ」  とゆってそれきり黙ってしまった。なるほど。そうでなくては。  あまりに模範解答。  少しは檀那さまの仕事に精を出そうかという気が掠めた。屋敷に着くころには霞んだが。       4  ドアを蹴破って一番最初に眼に入ったのがキサじゃなくてよかった。確か名前はなんたらホネ。ホネなんたらだったかもしれない。女がホネホネ呼んでいたのでどちらなのか忘れてしまった。  ホネはキッチンの床で尻餅をついて彫刻よろしく固まっていた。無事のようだった。少なくとも外から見る分には。あとでわかったのだが、ホネは内部がおかしくなっていた。そもそもおかしかったかもしれない。一体いつからおかしかったのかは医者にもわからないようだ。このヤブ医者め。  ダイニングの床にソーセージが落ちていて、踏んづけてしまった。踏んづけたからこそソーセージの存在を意識したわけだが。こんなことなら切り込み隊長を他のやつにやらせるべきだった。いまさら。それに目的はそれじゃない。ソーセージは役に立たない後方支援の黒づくめに片付けさせて。  リビングもベッドルームも蛻の殻。  キサ。  何度も何度も呼んだ。  ベッドの柱に鎖が。ここに繋がれていたのだろう。  痛む。頭だろう。鈍磨な頭が。  水の音。バス。トイレにはいない。  シャワーが出しっぱなし。やけに蒼白い。背中。抱き起こして。  直視できない。  黒づくめを呼ぶ。救急車。早く。  外部は何とかなった。出血も処置が早かったため助かったが、ひとつだけ大きな問題が。  なかった。切り落とされて。  なかったんじゃない。ないのは。  なぜ、ないのか。切り落とされたなら切り落とされた部位が近くに落ちていたって。落ちているべきなのだ。  捜させた。黒づくめを総動員して。ホネにも問い質した。お前がキサの。ホネは首を振り続ける。ちがう、ちがうのだと。自分がやったことを認めたくなくて否定しているというよりは。眼の前で起こったことを否定したくて首を振っているようだった。  なにがあったのか。推測の域を出ない。 「食べたんでしょうな」  医者はそれだけ言って黙った。それが何を意味するのかわかったので、手術のお礼だけ言って持ち場に帰らせた。その医者はしばらく休暇を取りたいと言ってきた。キサが退院する日。人事権は俺にない。突き放したが、二度と臨床に復帰できないだろうと思う。お気の毒に。腕はいいのに。せめて退職金を弾んでやりたいがどこのどいつに口を利けばいいのかさっぱりわからない。  キサに付き添って眼科に行った。メガネを失くしてしまったと嘆いていたのでそのくらい買ってやる、と言ったらどうせなら、ということでコンタクトにしてみるらしい。硬いのと柔らかいのと二種類あって、さらに柔らかいのには使い捨てとそうでないのとがあるようで。カネなんか幾らでもあるので好きなのを選ばせた。 「ありがとう。これでよく見える」キサが言う。 「そんなん気にせんでええのに」 「本当にごめんね。僕なんか」  謝ってばかりいる。謝らなくていい。謝ってほしいわけじゃない。  ツネががっぽがっぽ稼いでいるおかげで女の機嫌がいい。ここ数ヶ月安寧が保たれている。銃声も聞いてない。ケータイも池に捨てなくて済む。  ケータイは要らない。キサがここにいるなら遠隔地で誰かと連絡を取り合う必要はない。  そうやっていろんなことがうまくいっていると、何かほつれが生じてくる。黒づくめから言伝。そろそろとは思っていたが。あのときのは予行演習みたいなものだったんだろう。いなくなったときにどうゆう経路でどうゆう対応がどの程度でなされるのか。大したことない。そう結論付けたから逃亡を決めて。  ツネが逃げた。  前回と同様、最新の客のところへ向かったが。いない。女が二つも突きつけて、失禁するようなやつにそんな太いことはできない。完全に後手だ。どうせ前回と同じだと決め付けてかかったのが間違いで。女は気が狂いそうなくらい取り乱している。  客を虱潰しにしようにも。ツネを欲しがるような奴。心当たりがありすぎてぜんぶに鎌をかけるとなると、頭が痛くなる。サダが手伝ってくれるはずもないから俺の仕事になることがわかっていてどうしてそんな推論を披露。して堪るか。  心当たり。実はないわけじゃない。気が進まないからできるならこちらから訪ねたり尋ねることなく向こうの好意で返してもらえるのを期待しているのだが。  一週間。二週間。一ヶ月。  そろそろ女が発狂する。仕方ない。 「ちょお出てくる」 「どこに?」  キサは部屋の掃除をしていた。掃除機のスイッチを切ってこっちを見る。 「葬式?」キサが言う。 「まあな」 「ウソだね」  ケータイ。本当にうるさい。例によって池に放られるのがわかっていて。女の手下が感づいたのかもしれない。例えばサダあたりが。  うるさいので投げ捨てる。ぼちゃん。  ツネが逃げた。 「僕のせい?」キサが言う。  ツネが逃げた。 「僕のせいじゃないの?」キサが言う。  ツネが。  逃げたのは。 「お前のせいやない」 「僕のせいだよ」  キサは靴も履かずに庭に出て、池。深い。深いのだ。その池は本当に深い。沈んだツネの足が着かないくらいだから。濡れる。池に入れば濡れる。水浸しのままで。手渡す。  拾ってくれなくていい。受け取る。あの女の呪い。  夏でよかった。 「駄目だよ。僕とはぐれたときどうやって報せるの? おカネだって持ち歩いてないんだから」  ケータイ。 「公衆電話なんか探してたら話すこと忘れちゃうよ。気をつけてね。僕とずっとつながっていたいなら」 「行ってくる」 「きっとそのうちひょっこり帰ってくるよ。殺されてないか心配?」  水滴。池の水だろう。池の。  沈黙。  ケータイが鳴っていないならこの音は。鳥も掃除機もいたって静か。超音波。  びしょ濡れのキサが。手。  濡れた手で濡れてない手にふれれば濡れてない手は。 「殺されてないといいね」キサが言う。 「なにゆうた?」 「順序が悪かったね、て。僕にとっては別にどっちでもよかったんだよ。どっちもヨシツネだしどっちも檀那さまだ。違いはない。あるとしたら出会った順序くらいで」  淡水魚のにおい。鯉なんか飼ったところで。 「お願いがあるんだけど」キサが言う。 「あとでええか」 「あとでよければいま言わないよ。ずっとつながってたい」  殺しはしない。とは思う。そうゆう嗜好があったかどうか俄かに思い出せない。頭が働かない。気が散って。キサの。仕事内容から判断するに。キサが。仕事を辞めた。辞めたのなら。キサは。 「つながっとるつもりやけどな」 「証拠が欲しい」キサが言う。  屈む。鼻の下、顎の上。  ふれる。  キサは眼を開けたままだった。 「これでええか」 「一瞬だけだね。つながったの」キサが言う。 「時間、のうてな、すまんけど」 「提案があるんだ」  運転手を待たせている。黒づくめがドアを開けるべく門で待機していた。  思い通りにならなかった場合、客は主に二つの方法を採る。経験則だが割と確か。  はい、とゆわせるまで妥協し続けるか。はい、とゆわせるまで折檻し続けるか。後者なら幾らでも対応のしようがある。抹消と処分。ヒト一人いなくなったところで誰も気づかない。気づいてもらえない奴らが客になるのだ。  そして前者。厄介な上に悪質。対応を少しでも間違えると道連れで引きずりこまれる。言語で迫ってきたら言語以外。言語以外で迫ってきたら。  キサを振り切って車に乗る。追ってこなかった。追ってくるな、と念を込めて睨んだ。鳴らないケータイを持ってきてしまったことに気づく。  アポ。ないほうがいいか。強制捜査の日取りと時間と方法をむざむざ報せるようなものだ。莫迦すぎる。  ツネが逃げた。  たったそれだけのことで。たったそれだけのこと。捕まえたところで摑まえた気になっているだけで。連れ戻したってまた逃げる。それがわかっていてどうしていたちごっこをおっぱじめようと。  追いかけるから逃げる。なるほど、慧眼だ。 「微塵も心配御座いません」秘書の声で言った。「先生、と聞いて何か思い当たりますでしょうか」 「あらまぁ、ホンマに」女の声が生気を取り戻す。「ツネはんどないして見つけはったんやろか」 「パスワードが少々簡単すぎたようです。システムごと変更致しましたので、そちらの心配も御座いません」 「賭けてもええどすか」 「お言葉ですが、賭けにはならないかと」  女の低反発な笑いが視える。すべては万事カネ次第。 「ウチの出番もとっといてな」 「畏まりました」  無駄足。しかし車に乗らなければこの企画は思いつかなかったかもしれない。速度を上げさせて屋敷に戻る。  キサ。提案を聞かなければ。  空はまだ明るい。キサはしゃがんで池を見ていた。水面というよりは底を睨んでいる。 「コンタクト、落としちゃったみたいなんだ」キサが言う。 「そらあかんな。捜そか」 「いいよ。使い捨てだから。だいたいそろそろ替え時だったんだ。霞んできて見えなくなってたし。濁ってるのは僕の眼のほうかもしれない」  立ち上がる。背伸びすれば届く。届いた。  一瞬だと信用がないみたいなので、もう一回。 「さっき、ゆうてたの」提案とやら。 「もういいよ。忙しいんでしょ」  キサと眼が合わない。眼の前にいるのに。コンタクトがないからか。片方落としたのなら見えてもいいはずだが。両方。  ああそうか。落ちたんじゃない。 「気にいらんかったんなら」 「僕はケータイになりたい」キサが言う。 「機種変か」 「違うよ。やっぱり僕の話なんか聴く気がない。その点ヨシツネはいいよね。じっと黙って僕の話聴いてくれるから」 「まあ、座ろか」  じゃあじっくり話を聴くから、という意図で誘ったつもりだったが、キサは座ろうとしない。俺だけ座ったところでまた機嫌を損ねそうだったので、池から離れたところで振り返る。その池は好かない。ガキの頃にツネが落ちたのを見たことがあるからかもしれない。 「ごめん。溜まってるみたいで」キサが言う。 「吐き出したったらええよ。俺もおるし」 「やだよ」  即答。これはヘコむ。例え好いてなかったとしても嫌われるのは。 「やだよ。ヨシツネなんかに」 「ではヨシツネ様じゃないならよろしいですか」秘書の声で言った。 「もっとやだ」  それきりキサは檀那さまと口を利いてくれなくなった。口を利かなくてもつながれる方法を叶えたから。提案を呑んだ。  ケータイになりたい。  改造はさすがにSFだったので体内に埋め込むことにした。失った臓器の代わりに。なってない。用途が違う。

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