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橘 透愛──第8話
「す、すみません、いきなり話しかけちゃって! その、ここで誰か待ってますか?」
後ろにいたのは、制服を着た女の子たちだった。たぶん、高校生だろう。
「へ? あぁ、ごめん。邪魔だったよな。もう避けるから」
そういえば、広告の前にぼーっと突っ立ってしまっていたことを思い出し、右に避ける。しかし、慌てたのは女子高生の方だった。
「ち、違うんです! そういう意味じゃなくて。あの、この後って時間、空いてますか?」
「え?」
「お兄さんいつもここの道通ってますよね。前にたまたまここ歩いてるのをお見掛けして、カッコイイなってずっと思ってて。それで、その、も、もしよかったら……今からカフェにでも行きませんかっ」
つっかえながらも、なんとか言い切った少女の数歩後ろで、友達らしき子たちが「頑張れ!」とばかりに目を輝かせていた。
ようやくここで何が起こっているのかを理解し、またかと気分が重くなった。
「あー……声かけてくれてありがとな。でもごめん、色々と忙しくてさ。悪いんだけど、今は誰かと遊んだりしてる余裕ねぇんだ」
早口で告げて、早々にその場を後にしようとする。
「じゃ、じゃあせめてLIMEとかは? しつこくしたりしませんから、あのっ、か、返せる時でいいんで! 私もそんなに、ちゃんと確認したりしませんし……それがダメならエンスタとかっ」
しかし、少女はなおも食い下がってきた。
なあなあで濁すこともできるが、この場合は相手に悪い。だってたぶん、この子本気だ。
期待を持たせることはできない。掴まれた手をそっと取り外し、ゆるりと首を振る。
「ごめん、興味ないから」
ショックを受けた顔から目を背け、もう一度だけ「ごめん」と繰り返し、背を向けた。
逆ギレしてくるような子でなかったことは幸いだったけれど、すすり泣く声と慰める声に、一気に足取りが重くなった。やっぱり心配になって、大丈夫だろうかとちらりと振り返れば、少女の背後にいた友人らしき子の責めるような目つきに晒された。
胸がぎゅうっと締め付けられるように、苦しくなった。
申し訳なくて。自分が嫌で。
(最悪だ……)
いつもいつも、こんな気分になる。
由奈のことだって嫌いじゃない。けれどもそれ以上の気持ちは抱けない、抱いちゃいけない。だって由奈はいい子だから。きっとさっきの女の子も。
決して応えることのできない感情を向けられるのは、正直しんどい。
兄に、今日は女の子が弁当を作ってきてくれたんだと、帰り道で可愛い子に逆ナンされたんだと報告したら、どんな顔をされるだろうか。モテモテですねと笑ってくれるだろうか、それとも泣きそうな顔で抱きしめられるのだろうか。
ごめんなさい、ごめんなさいと。
俺に縋り付いて謝り続けていた兄の姿は、今でも鮮明に、瞼の裏に焼き付いている。
死んでも、言えねぇや。
『ぜってーおまえより先に童貞卒業してやる!』
茶目っ気たっぷりの瀬戸の軽口も結構効いていた。
思わず言葉を詰まらせてしまうくらいには。
「は、たぶん俺は、一生童貞だろうな……」
瀬戸と、競争するまでもなく。自分で言ってて空しくなった。もしもこの先俺に彼女というものが出来て、その彼女とやらと、普通の男女のように体を重ねることになったら。
想像してみただけで、気持ち悪さがこみあげてくる。
だというのに、眩暈の伴う疼きに襲われた。
「……ッ、う」
慌てて、人気のない路地裏に逃げ込む。
「は、ぁ……は、ふぅ」
口を両手で押さえて、ふらりと壁に寄りかかる。急激に膨れ上がる気怠さと、ぐずりと波打ち始める腹の奥。足がかくかくと震えた。最後に薬を飲んだのは、昼前だ。
「……く、しょぅ」
あれからまだ3時間しか経っていないというのに。今日は随分と調子が悪い。
震える手でリュックの外ポケットから錠剤を取り出し、ペットボトルをあおって水で一気に流し込む。ぐしゃりと柔らかな容器を潰し、ゴミ箱に叩きつけるように捨てた。
ひんやりとした壁に額を押し付けていると、ようやく乱れた息が落ち着き始めた。
壁を伝い、ふらりと人気のない道を進む。
早く家に帰って体を休めてしまおう。このままここでもたもたしていたら、そのうち人目も憚らず、壁に下半身を擦り付けることぐらい、してしまうだろうから。
本能のみで腰を振る、惨めな犬のように。
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