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限界──第84話

 溶けた鉛のような唾が、どろりと喉を落ちてくる。 「……知るかよ」  重くて重くて、そう答えるだけで精一杯だった。 「嘘つき。橘くん、小さい頃から女の子にモテモテだったじゃないか。今もみたいだけどね」 「小さい頃?」  意外と地獄耳な綾瀬に、舌打ちしそうになる。 「あれ、言ってなかったっけ? 僕、橘くんとは小学校の同級生で、幼馴染なんだよ」  全員がぽかんとした。「マジか!」と誰よりも先に身を乗り出してきたのは瀬戸で、その勢いに姫宮がくすくすと笑った。 「うん、マジだよ」 「え、ええー!? うそっ」 「うそじゃないよ。橘くんはすごく正義感の強い子で、クラスのムードメーカーだったんだ」  姫宮の口は、止まらない。 「運動神経も抜群によくて、地元のサッカーチームにも入ってたんだよ? 遠征にも選抜で行ってたみたいだし、ちょっと元気すぎるところもあったんだけど、確か将来はサッカー選手になるって言ってたよね? 中学も高校も帰宅部だったけど、もし入部してたらキャプテンになってたかもね。それぐらい上手だったから」 「それ本当?」 「うん」 (なんで) 「懐かしいなぁ。当時の僕、髪が長くてね。ちょっと自分で言うのも照れくさいんだけど、女の子に間違えられることも多くて……でも橘くんはカッコよかったから、よく周りから比べられたんだ。どっちを彼氏にしたいか、なんてね、放課後女の子たちが人気投票してたくらいで……」 「へえ~」 「なにそれ可愛い~」 「でしょう? ふふ、今日はお酒の席だから、ぜんぶ話しちゃおうかな」  姫宮によってぴりついていた空気が、姫宮によって少しずつ和らいでいく。  凍てつく俺の心とは、反対に。 (なんで……なんで、言うんだよ)  他人のフリするって約束してくれたのに。  無理に言いふらすつもりもないって、言ってくれたのに。  あの事件以降、俺の体は180度変わった。  激しく身体を動かすと、すぐに熱が出るようになってしまった。  過度な運動は厳禁だったので、所属していたサッカーチームも辞めた。  サッカー、大好きだったのに。  そして成長するにつれ、どんなに筋トレを頑張っても、この身体には薄い筋肉しかつかないことを知った。  前に体重同じぐらいじゃん、なんて姫宮には嘯いたけど、こいつの方が重いってことぐらい本当はわかっている。  姫宮は着痩せするし腹筋だって割れている。  ぺたんこの俺とは違う。  末端の細胞までもが、Ωに変わってしまった俺の身体とは、何もかも。  それを、この男は誰よりも知っているくせに。 「橘ぁ、マジ? なんでそんな大事なこと隠してたんだよ~」 「……別に、隠してたわけじゃねぇって」  落ち着けと、自分に言い聞かせる。  ここは下手に誤魔化すより堂々としていた方がいい。  バレたか、みたいな顔で肩を竦めてみせた。  平気なフリをするのは、もう慣れっこだ。 「だって同じクラスっつっても話したのなんて数えるくらいだったしさ。と……友達ってわけでもなかったし、わざわざ言わなくともいっかなーって思って」  そう、こいつとは友達にもなれなかったのだ。 「いやいや言えよっ」 「ははっ、ごめんて。それに俺、小学校卒業前にちょっと病気して学校行けなくなってさぁ」 「あー、なんかそんなこと言ってたな」  病弱設定を、ここで生かす。 「そ。だからこいつと同じクラスだったのってぶっちゃけ半年だけで、中学も別だったから卒業以来一度も会ってなくて……それにほら、姫宮ってすげぇ人気だろ? だからちょっと声かけんのも気後れしたっつーか、気まずかったっつーかさぁ……」  ペラペラと口が回る。  俺に集中するここにいる全員分の視線に、胃は緊張を通り越して、ジクジク痛みを訴えていた。  その中で俺は手を合わせて、八重歯を出して笑った。 「──悪ィな! 姫宮。最初、俺おまえに変な態度取っちまったよな。いやー、ガッコ同じだったはずなのにあんまりにも住む世界が違ぇからさ、ちょっとイラついてたんだわ。マジでごめんな?」  口角の傾きは45度。  なんとかいつも通りの角度を保てたはずだ。 「な~んだ、そういうことだったの二人とも」 「なんか変だと思ってたんだよね~」 「うんうん」  頷く女子たちの横で、目を輝かせた瀬戸がぺしぺしと姫宮の肩を叩きながら彼の顔を覗き込んだ。 「なぁ姫宮~、こいつもこうやって謝ってるわけだしさぁ、許してやってくれよ。橘、アホだけどいい奴なんだって。ほら仲直り、な!」 「──仲直り?」 「そ、なかなおり。ほらほら、ここは酒で流そうぜ! おまえの好きなド地雷女の愚痴とかも聞いてやっからさ!」  瀬戸が、新しく提供されたジョッキをぐいっと姫宮に押し付けた。  あとは姫宮がそれを受け取って、「そうだね、仲直りしようか」とジョッキで乾杯して、これまでの流れを変えてくれさえすれば、上手くこの場は乗り切れる……はず、だった。    瀬戸の腕が、力づくで弾かれるまでは。

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