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姫宮 樹李──第104話

 橘は、僕が舐めたスプーンセットを二度と持ってこなかった。  もしやバレたのかと思ったのだが、夏場だったので一日置いたのでも危ないからと兄に捨てられたらしい。  それを盗み聞きして猛烈に腹が立った。  ちょっと過保護過ぎやしないか。  橘の兄──育ての親らしいが──は僕と橘の仲を切り裂く最大の障害だ。  それに、友人に兄のことをしゃべる時、橘はとてもいい顔をする。「透貴がさァ」「透貴がな」「透貴に言われて」「透貴に怒られたぁ~」「昨日、透貴と動物園行ったんだ、象がいた!」「透貴と遊園地行って、ジェットコースター乗ってさぁ」など、ときときとうるさい。  橘の声はよく通るので、嫌でも彼が慕う兄とのエピソードが耳に入ってくる。  鳥みたいな変な名前のくせに、橘と一文字違いというのも忌々しい。  なんのマウントだ。  それに動物園なんてくだらない。  あんな、檻に入れられ飼育され野性味を失ったしょぼい動物を眺める空間の何が楽しいんだ。  動物が観たければ海外に行って現地に直接赴いた方がよっぽど有意義だ。  語学の勉強にもなるし。  僕は父の仕事に着いていって、野生で暮らす動物を見たことがあるんだぞ。  それこそチーターも、豹も、ライオンも、キリンも、寒いところにいるペンギンだって。  象がなんだ。僕は現地で象に乗ったこともある。  橘にそのことを話したら、「すげ~」なんて目を輝かせるんだろうな、きっと。  別に、海外に行って色々な体験をさせられても、知識が増えただけで大して感慨も湧かなかった。  けれども、橘と一緒に行くんだったら話は別だ。  橘が象に乗りたいっていうのなら、僕が何度だって海外に連れて行ってあげるのに。  現地のコーディネーターにだって僕一人で連絡が取れるし、僕はもうパスポートだって持ってるんだから。  でも、橘は日本から出たことはないだろう。  見るもの食べるもの初めてだろうから、僕が手を繋いで、いろんなところを案内してあげよう。  橘ぐらいの人間じゃ手が届かなそうなセレブご用達の高級ホテルの一室を取って、広いベッドで寝かせてあげたい。  もちろん一緒に並んで。  食事のマナーがわからなければ、手取り足取り僕が教えてあげたい。  橘は給食の食べ方が汚いからな。口の横に食べカスが付いていたら手でとって食べてあげるんだ。  彼が残したご飯粒の一つだって、僕はずっとずっと、食べてみたかったのだから。  人目さえなければ、空になった彼の皿すらも舐めていたかもしれない。  もちろん海外は日本ほど安全じゃない。  でも、僕はそんなの慣れっこだ。危ない人が出てきたら僕が守ってあげるし、日本語が通じないところだったら僕が英語を駆使してみせる。 「姫宮っ、おまえってえーごも喋れるんだな!」  やっぱすげ~な! なんてキラキラと、僕を尊敬の眼差しで見つめてくる橘が目に浮かぶ。  いやヤベーな! だろうか。まぁどっちでもいいか。橘ならすげぇでもヤベぇでも。 「別に、これぐらい普通だよ」  だから僕は、こんな風にさりげなく橘に言うんだ。  そうしたら橘は僕としかお喋りができないから、きっとずっと、僕にべったりくっついて離れなくなる。  遊園地だって、所詮は子ども騙しの空間だ。  ジェットコースター……は、少し苦手だ。高いところはあまり好きじゃない。でも橘が乗りたいっていうんだったら、僕だって我慢して乗ってみせる。  僕の隣で笑う橘が見られるのなら、どんな苦行だって耐えてみせる。  それに、橘が行ったという地元の安くて寂れた遊園地じゃなくて、もっと大きなテーマパークにだって連れてってやれる。  僕の家の財力であれば貸し切りだって可能だし、数分、それこそ一秒も並ばないでいろんな種類のジェットコースターに乗せてあげることだってできる。  もちろん、一度だけじゃなくて何度だって。  繰り返し繰り返し、飽きるくらいに。 「姫宮、楽しいな……!」  なんて、満面の笑みを浮かべる橘だって容易に想像できる。あの日、僕に腕を伸ばした橘の顔を思い浮かべればいいだけの話だからだ。  そうだ。絶対絶対、収入の低い橘の兄よりも僕の方が彼を喜ばせることができるし、橘の笑顔だってどんどん引き出せる。  それなのに、橘の兄は橘と仲良く暮らしている。  偶然、たまたま、橘の兄として生まれたってだけで、堂々と橘と一緒にいる。  橘と同じ空間で橘の吐く息を吸い、橘と一緒にご飯を食べたり、休日に2人でどこかに出かけたり、一緒にテレビを見たり、キッチンに並んで料理をしたり、仲良く掃除をしたり洗濯をしたり、お互いに顔を見合わせて爆笑したり、しかも挙句の果てには2人で、は……裸に、なって、お風呂に入ったりもしているだなんて。  ──体の洗いっことかも、しているのだろうか。  僕が見たことのない橘の裸を、彼の兄は毎日のように見ているのか。  そんな想像をしてしまうたびに底冷えするような怒りがこみあげてきて、爪を噛んだ。  橘は、アパート暮らしだと聞いた。  格安の、しかも狭い集合住宅の狭い小部屋の狭い一室で、兄弟そろって肩を並べて寝ているだなんて。  その事実だけで腸が煮えくり返りそうだ。  なんで、どうしてそんな最悪なことができるんだ──僕がいるのに!  僕が、いるのに……    この頃になると。  僕は顔も知らない橘の兄に憤怒にも似た憎悪を、そして憎悪にも似た対抗心を燃やしていた。

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