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20 疲れ果てた心

 翌日からも、月森は毎朝この会議室にやって来て、俺を昼食に誘ってきた。もちろん俺は断り続け、やっと一週間を乗り切れたと思った金曜日。食堂で食べるという嘘はとうとう見破られ、月森が昼に弁当を持ってやってきた。   「やっぱりここで食べてた」    と言って、にっこり微笑んで隣に座る。 「……なんで」  月森の気持ちがわからない。  俺を振っておいて、どうしてつきまとってくるんだ。  男を好きな俺のことを嫌悪せずにいてくれるのは嬉しいが、振られても友達のままでいられるかどうかは、俺が決めることであって月森じゃないだろう。   「先輩が用意してくれた作り置きがもったいなくて、今日は自分で作ってみたんです。だから、どうしても一緒に食べたくて」  そういう月森の弁当は、もやしと豚肉を炒めてご飯の上に乗っけただけの茶色い弁当だった。でも、彩りが悪いとはいえ、袋ラーメンしか作れないと言っていた月森がすごい進歩じゃないか。  思わず笑顔を向けそうになってハッとする。ここで笑顔になれば、また今までのように友達としての付き合いが続くだろう。  それでいいのか? 本当にいいのか? 俺、やっていけるのか? 「先輩。ピーマンのおかか和えってどうやって作るんですか? ピーマンは茹でるんですか? 味付けは醤油だけ?」  友達としてなんて……やっていけるわけがない。  今の俺には、まだ無理だ……。 「月森……」 「はい?」 「お前……ちょっと無神経すぎるよ……」 「え?」  俺の気持ちも、少しはわかってほしい。  食べ始めたばかりの弁当をそのままにして、俺は立ち上がって出口に向かった。 「えっ、先輩、待って……っ」 「来るな」 「え……っ」  追いかけようとしていた月森が俺の言葉にたじろぎ、蒼白な顔をして立ち尽くした。  ビルの横にあるコンビニで、俺はパンとコーヒーを買ってイートインで腹におさめる。弁当はもう諦めた。  月森の無神経な態度に毎日振り回されて、俺は本当に疲れ果てていた。  でも、戸惑いや苛立ちが募りつつも、月森への想いは少しも揺るがない。笑顔を見れば胸が高鳴り、変わらない月森にバカみたいに期待する。  振られた記憶のつらさが胸を締めつけ、もう切なさで息もできなくなりそうだった。 「中村?」  後ろから声をかけられ振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。 「あ、えぇっと……」  そうだ。『大事な返事をもらってない』と言っていた人だ。あの時、名乗らず去っていったから名前がわからない。でも今更聞きづらいなと困っていたら、女性が「あ」と言って笑った。 「ごめん、まだ名前も伝えなかったわよね。後藤です。あらためて、よろしくね」  あの日、俺の記憶喪失に相当ショックを受けていたけれど、今は明るく笑っていてホッとした。 「後藤さん、よろしくお願いします。それであの……」 「後藤でいいわよ。中村じゃないみたいで気持ち悪い」  女性はそう言って笑顔で眉を寄せた。  先日、母さんにも気持ち悪いと言われた。もしかして他の人も、言わないだけで同じように思ってるのかもしれないなと苦笑した。 「じゃあ遠慮なく、後藤」 「うん」 「前に言ってた『大事な返事』のことだけどさ……」 「ああ、あれ。もういいわ。本人から返事もらったから」 「本人……?」  本人って……前の俺?  いや、俺はずっとこのままで、記憶が戻ったとか前の俺が戻ってきたとか、そんなことは絶対にない。どういうことだ? 「あ、ごめんごめん。意味わかんないわよね。私、中村に月森くんを紹介してってお願いしてたのよ」 「え……っ、月森を?」 「そう。とりあえず聞いてみるから待ってろって言われて、そのままでね」  後藤は月森のことが好きなのか……? 「でも中村は記憶喪失だし、もう待てなくて、月森くんに直接聞いちゃったわ」 「……月森は、なんて?」 「ごめんなさいって頭を下げられちゃった。完敗よ。すごく好きな人がいるからって言われたわ」  その言葉に、俺は驚きを隠せなかった。  月森に……好きな人? なんだ……それ……。  胸の奥で何かが叫ぶ。心が強く締め付けられ、息が詰まりそうになった。 『彼女なんてできませんって』  あの月森の言葉を鵜呑みにしてた。  毎日一緒に過ごしてくれたし、好きな人はいないと思っていた。  実は好きな人がいたのか……。  振られたのはそのせいだったのか……。  そうだったのか……。 「好きな人がいるなんて中村も知らなかったみたいだし、ワンチャンないかなーってちょっと期待したんだけどね。全然ダメだった。だからきっぱり諦めたわ」  後藤があっけらかんと笑う。前に見た、頬を染めてもじもじした後藤は見間違いだったのかと思うほどに。  切り替えが早いんだな。いつまでも引きずっている俺とは全然違う。羨ましい……。  そう思って見ていると、笑顔だった後藤が静かにうつむいた。 「中村、慰めてくれる?」 「え?」  なんだ。強がってただけなのか……。  そうだよな。そんな簡単じゃなよな。でも……。 「慰めるって……どうすれば……」  すると後藤が、そっと後ろの棚を指さして言った。 「あの期間限定のシュークリーム食べたら、元気が出ると思うの」 「……っ、あのなぁ……」  顔を覆って泣き真似をする後藤に苦笑が漏れる。  予想通り、シュークリームを買ってあげるとご機嫌になった後藤に笑ってしまった。現金なやつだな。  でもよかった。月森に振られた仲間である後藤が、少しでも元気でいてくれて、本当によかった……。  午後の始業ギリギリに、緊張しながら会議室をそっと覗いた。  月森の姿は見当たらず、安堵の息が漏れる。そうだよな。さすがにもういないよな。  ふっと肩の力が抜けて会議室に足を踏み入れると、机の上には食べかけのままだったはずの弁当が弁当袋に収まって置かれていた。  月森かな……月森だよな……。ほんと……月森らしいな。  弁当袋をそっと手に取り通勤バッグにしまっていると、隣の菊池さんに声をかけられた。   「月森さん、中村さんのこと待ってましたよ。ついさっきまで」 「っえ……」  毎日顔を出すから、皆に知れ渡った月森の名前。人当たりのいい月森は、本当は怖い、と暴露された俺よりも皆の印象は良いようだった。 「私が戻ってきたのが10分くらい前なので、いつから待ってたのかはわかりませんけど」    ついさっきまでって……まさか昼休み中ずっとここで待ってたのか?  いつも食べたらすぐに仕事を再開する月森が……?  感情に流されて『無神経だ』と非難した俺を、月森はずっと待っていてくれたのか……。  今しがた、月森がいないことにホッとしたばかりなのに、会わずに済むようにとギリギリに戻ってきたのに、月森が俺を待っていてくれたという事実に心が震える。どうしようもなく好きがあふれて止まらない。胸が苦しい……。 「はぁ……」  俺は両手で顔を覆った。  吐く息が震え、息を吸い込むのも困難だ。鼻の奥がツンとしてじわっと涙がにじむ。  本当に……重症だ……。 「中村さん、大丈夫ですか? 医務室行きます?」  菊池さんの気づかう言葉に「いや、大丈夫……ありがとう」と答える声がかすれた。  本当に、しばらく月森と離れたい。  離れるために家を出たのに、これ以上好きにならないよう距離を置こうしているのに、月森が何を考えているのか本当にわからない。  俺を振ったのは月森のくせに……。  俺を好きになってはくれないくせに……。  なんでこんな……思わせぶりなことばかりするんだよ……。  テキストの説明をする講師の声が遠くに聞こえる。  指示されたテキストのページを開いても、文章が頭に入ってこない。  最後に見た蒼白な顔の月森が何度も脳裏に浮かび、午後の研修は全く身に入らなかった。  退勤時間を迎えるまで、俺の心にはずっと月森の姿があった。  だから、帰り支度をして会議室を出たとき、月森の姿が目に入っても、一瞬幻覚を見てるのかと思ってしまった。 「先輩……」  声まで耳に届き、全身が反応する。ドクドクと心臓が暴れた。  なぜだ。毎日残業の月森がこんなところにいるはずが……。   「先輩……あの、俺」  幻覚じゃない。そこに月森がいる。  月森が、戸惑った顔で俺に近寄ってきた。    

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