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恋のびっくり箱は、オフィスで開かれる
——あれが、初恋だったと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
「……くん! ……くーん! 待ってよおお」
近所に住んでいた、お兄さん。もう、名前も顔も、うまく思い出せない。
ただ、いつも頭を撫でてくれたあの手の大きさと暖かさだけは、なぜか今でも妙にリアルに覚えている。
「てっちゃん、ほらそんなとこでしゃがんでないで。行くよー」
物心つく前から、きっとよく遊んでくれていたんだと思う。
男兄弟がいなかった俺を、本当の弟みたいに可愛がってくれて。
厳しかった親も、お兄さんと遊ぶと言えばすんなり送り出してくれた。
憧れだった。お兄さんみたいになりたい、と思っていた。
お兄さんのすること、着ている服、持ち物、俺には全部かっこよく見えた。
うちでは絶対買ってもらえないようなプラモデルや、見たこともないような綺麗な絵の印刷されたパズルを一緒に作らせてもらうのが幼い俺には誇らしく、そして少し羨ましかった。
何をするのでもお兄さんは上手で、俺はいつもうまくできなくて悔しくて、絶対できるまでやる! と駄々をこねた。
今の俺の負けず嫌いと粘り強さ、そしてモノづくりが好きになったのは、絶対あそこから来ていると俺は思っている。
お兄さんの部屋にはそうして出来上がったプラモデルやパズル、ジオラマなんかがところせましと置いてあった。全部がキラキラしていて、かっこよくて、夢のような世界だった。
そんな俺も、小学校高学年に差し掛かる頃には一丁前に思春期というものに突入し、今までお兄さんにベタベタと甘えていたことがだんだん恥ずかしく感じられるようになっていた。
お兄さんよりも同じクラスの男子の誘いを優先するようになり、俺はいつしかお兄さんとは遊ばなくなっていった。
恋、と呼ぶには、幼すぎる感情だったかもしれない。
だが俺にとってお兄さんと過ごした時間は、そっと記憶の箱から取り出して眺めるたびに、言い知れない感情の高まりを呼び起こす、宝物のように大切なものだった。
最後にお兄さんを見かけたのはいつごろだったか、記憶は曖昧だ。
中学に上がる頃には、もう姿を見なくなっていたと思う。
俺が生まれ育った地域は中途半端に都会で、ご近所と家族ぐるみの付き合いがあるわけでもなかったから、親は俺以上に何も知らなかった。
その後俺は高校、大学と進学して友達も増え、人並みに彼女ができたりもした。
だけどまあ、正直言うと女の子ってやつはよく分からなくて、それなりに楽しいこともあるけど、面倒に思うことも多かった。
モテるやつを羨ましく思わないわけではなかったけど、それよりもサークルとかバイト先の先輩後輩とつるんで飲み歩く方が、よっぽど気楽で楽しかった。
そんな俺も、この春からとうとう社会人になった。
よっぽど運が味方したのか、第一志望だった中規模の総合建設会社に入ることができた。
配属先は、営業部だ。
建設業を選んだのは、ずっと好きだったモノづくりに携わる仕事がしたいという思いからだった。
何もなかったところから、デカくてかっこいいものが出来上がっていくのを見るときのこの感覚は、モノづくりでしか味わえない醍醐味のようなものだと思う。
それは、あのお兄さんの部屋で、プラモデルを一から組み立てるとき感じていたワクワク感に、よく似ていた。
同じ営業に配属になった同期とは仲も良くて、俺みたいなのもいれば、要領のいいやつ、何考えてるのかいまいち分からないやつ、いろいろいて面白い。仕事だから学生気分を引きずるわけではないが、同期だけで話しているときはサークルの延長みたいな気安さがあった。
もちろん大半は独身組だが、中には就職を機に同棲を始めたとか、結婚を視野に入れている彼女がいるとかそんなやつもいる。
何歳までには結婚を考えているとか、子供はどのタイミングで欲しいかとか、そんな話を聞くと、なんか、人生計画しっかりしてんなぁ、と感心はするけど、俺にはなんだかピンとこなかった。
——俺も、そのうち結婚を意識するような彼女ができて、いろいろ考えたりとか、するんだろうか……
「おい、もう着くぞ」
横に座る上司から声をかけられて、慌てて返事をした。
今日は初めて、取引先訪問に同行させてもらうのだ。
タクシーの窓の外を流れる景色を見るともなしにぼーっと眺めながら、いつの間にか物思いにふけってしまっていた。
——まあ、そんなドラマチックな出会いがあっていきなり何かが始まるなんて、ドラマか漫画の中だけの話だよな。
現実はそれよりずっと泥臭くて、地味な毎日の繰り返しだ。
今日のこの訪問だって、俺が入社してから毎日コツコツ積み上げてきたものの一つの成果なんだと思うし。
恋愛とか結婚とか、そういうふわふわしたものは、俺にはあまり実感をもって考えられる話じゃなかった。
くだらない妄想は終わりだ。
気持ちと顔を仕事用に切り替えて、取引先の社屋の自動ドアを通り抜ける。
通された会議室は適度にエアコンが効いていて、まだ残暑の厳しい中外回りをする身としてはありがたかった。
「失礼します」
ドアがノックされ、若い社員が冷えたお茶を俺と上司の前に置いてから一礼して部屋を出ていく。
なんとなく感じられるぎこちなさから、俺と同じ新入社員かな、と思うと、俺もしっかりやらなきゃと一層身が引き締まる思いになった。
やがて汗もひいてきたなという頃合いに、再び会議室のドアがノックされた。
PCとファイルを抱えた先方の担当者が、ドアを開けて入ってくる。
——水野 さん、こんな若い人だったんだ……
水野佑樹 さん。
上司とのメールのやり取りにCcで俺を入れてもらっていたから、名前だけはよく知っている。
うちとは数年前から取引のある、割と新しめの建材メーカーの企画室長だ。
室長という肩書きから、俺はてっきり上司と同年代のおっさんが出てくるのを想像していたので、その若々しく整った外見に驚いてしまった。
年齢よりも若く見えるタイプなのかもしれないが、それでも俺と10歳も変わらないように見える。
それで室長なんだから、よっぽど優秀なんだろう。
水野さんは、少し長めの髪をラフに後ろに流して、すっきりとした鼻筋の上には細い焦げ茶のメタルフレームの眼鏡をかけていた。控えめに言って、知性派イケメンオーラがすごい。
おまけに、特に変わったところのない、自分や上司と同じようなスーツ姿なのに、水野さんだとなぜかすごくおしゃれに見える。
想定とはだいぶ違う展開に、俺はにわかに緊張で体が硬くなるのを感じていた。
「先日はどうも。ああ、これが今年入った新人の幸村 です」
「初めまして、お世話になっております。幸村です」
上司の紹介を受け、俺はぎこちなく頭を下げた。
顔を上げると、水野さんが俺の方を見て、ふっと眼鏡の奥の目を細めた。
その表情に、俺はなぜか胸の奥がざわっとした。
——……?
何かが引っかかって、思い出せそうなのに思い出せない、そんな感覚だ。
今の一瞬のどこにそのきっかけがあったのかわからなくて、上司と世間話をしている水野さんの顔をじっと見つめた。
また、目が合った。
——!!
一瞬だけ、水野さんが俺の方を見て、いたずらっぽく笑った。
心臓が跳ね上がり、ドキドキと音を立てて早鐘を打ち始める。
目の錯覚かと思うほど、ほんの一瞬の出来事だった。
次の瞬間には水野さんは元通りの顔で、上司の話に相槌を打っていた。
——えっ、何? 今の、何??
事態が飲み込めない俺の頭は混乱したまま、打ち合わせは本題へ入っていった。
打ち合わせは、予定していた1時間ぴったりで終わった。
そこにも水野さんの優秀さを感じる。
社内の会議なんて、メインの議題が終わっても脱線に脱線を重ねて話が終わらず、終了予定を大幅に過ぎるのがいつものことだ。
打ち合わせ中も、水野さんの話は要点を押さえていて簡潔で、新人の俺でもちゃんとついていけた。
デキる男ってこういう人のことを言うんだな……と、終わる頃には俺は水野室長にすっかり魅了されていた。
——はー、いい刺激になったなあ……俺も水野室長みたいになれるように頑張らなきゃなあ。
半ば夢見心地で会議室を出て、綺麗なタイルカーペットの敷かれた廊下を歩く。
エレベーターの前に差し掛かろうという時、上司が突然こう言い出した。
「あ、俺ちょっとそこで一服してから行くから」
そこ、と上司が指したのは、廊下の奥。
どうやらフロアごとに喫煙ルームがあるようで、そこで一服してくるということのようだった。
「あー、幸村は吸わないんだっけ。悪いな、1本吸ったらすぐ行くから。ちょっとこの辺で待っててくれるか」
仕方ないので、エレベーターホールの隅の壁に寄りかかって、上司が戻ってくるのを待つことにした。
この時間は行き交う人の姿もまばらで、がらんとしたエレベーターホールが無機質な冷たさを放っている。
手持ち無沙汰で、なんとなく社用携帯を取り出して眺めてみるが、どうにも目が滑って内容が頭に入ってこない。頭をフル回転させて必死でついていこうとしていた反動からか、脳みそがオーバーヒートしてしまったような感じだった。
——それに。
あの、水野さんの意味深な表情……。
いや、意味深に感じたのは、俺の思い過ごしだったのかもしれない。
向こうは、新人の自分を気遣って、親しみやすい雰囲気を心がけてくれただけなのかも。
携帯の画面を見つめながら、頭の中ではあれやこれやと考え始めてしまっていた俺だったが、ふと自分の前で人が立ち止まった気配に目を上げた。
「水野さん」
手ぶらの水野さんが、俺の目の前に立っていた。
水野さんも、タバコ休憩だろうか。
「今日は、」
ありがとうございました。
そう言おうとした俺は、途中で止まってしまった。
水野さんが、それを遮るように俺を見てにっこり笑って、かけていた細いメタルフレームの眼鏡を、外したのだ。
その笑顔に、俺の胸にもう一度、あのざわついた感覚が蘇った。
取引先の新人に気さくに振る舞う社会人としてのそれではなく、明らかに、何かを俺に伝えようとしている。
そんな表情に、俺には見えた。
なにか大事なことを忘れていて、それを思い出そうとしているような、そんな、記憶がむずむずするような感覚に、俺が耐えきれなくなりそうになった、その時。
「てっちゃん」
今、なんて?
「てっちゃん、俺、覚えてない?」
てっちゃん、と呼ばれるその響きに、脳の奥底から忘れていた何かが一気に吹き出してくるのがわかった。
身体中の細胞という細胞が熱を持ったかのような感覚が走る。
「ゆう、くん」
みずの、ゆうき。で、「ゆうくん」。
それは、確かに、俺の遥か遠い記憶の中に埋もれていた名前。
いや嘘だ。こんなの嘘だろ。俺は心の中で悲鳴をあげた。
こんなところで、もう一回、今の今まで名前も顔も忘れていた初恋の人に会うとか。
だけど。
「てっちゃん、大きくなったね」
そう言って、嬉しそうに俺の頭を撫でる水野さん、いや、ゆうくんの手の感触は、間違いなく記憶の中のあのゆうくんの手と一致していて。
「えっ、本物……」
思わず呆然と呟いた俺は、悪くないと思う。
目の前のゆうくんは、爆笑してるけれど。
俺は、真っ赤になった顔をどうすることもできなくて、ただ、ぱかん、とびっくり箱が開くように、今この瞬間、何かがドラマチックに始まってしまったことを感じて。
世界の色がいっぺんに変わってしまったことを認めるほか、なかった。
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