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春の章 四、千年桜の下で

 冬の頃。  朔はひとりいつものようにぼんやりとそこに座っていた。  春を待ち眠っている千年桜の下で。  遠くで列をなしてどこかへ向かう人々。みんな同じ白い着物を纏って綺麗に真っすぐ進んで行く。その中に人ひとりが入りそうな箱を担ぐ者たちや、棒に吊るされた飾りを持つ者、花やお盆を持つ者、とにかくたくさんの人が歩いていた。  昨日の夜に降った雪が地面を白銀へと変えたが、今日の朝は澄み渡るくらい真っ青な空が広がっている。太陽のあたたかい光が真っ白な地面に反射して、きらきらと眩しかった。 (······あの家紋は、)  憶えがあった。あれは、この地の領主の家の家紋。上弦の月の紋様を模した綺麗な家紋で、生前、兄たちや弟が纏う着物に付いていた。  あの列は、葬列というものだろう。  何度か見たことがある。一度目はここで目覚めてからすぐ後。二度目はその十数年後だった。  あれから数十年経つが、こんなにたくさんの人が歩いていたのは二度目に見た葬列以来だった。  朔は胸元で両手を合わせ、眼を閉じる。 (卯月様、どうか安らかに······)  気付いてしまった。   あの箱、棺の中で眠っているひとが誰か。  一度目はおかあさま(・・・・・)。二度目は一の兄、葉月様。  この地はずっと平穏で、ここを時々通るひとたちはみんな笑顔だった。  この千年桜には願いを叶えてくれるという不思議な言い伝えがあり、たくさんの願い事がかけられている。それが果たされているかはわからない。  それでもこの千年桜が愛されているのは、きっと、そういうことなのだ。  朔はゆっくりと瞼を開け、千年桜の方を振り向く。枯れ木になっているこの千年桜は、自分と同じ。冬の先に必ず訪れる、春を待っているのだ。寂しい、という気持ちを知ったのは、最近だった。  あの優しく、あたたかい季節は、朔にとっても、この千年桜にとっても愛しい季節。その太い幹にそっと触れる。冷たいも、あたたかいも、もうわからないけれど。きっと、あたたかいのだ。 「朔、」  朔はその声に、すぐに振り向くことができなかった。どくん、と鼓動が身体の中で大きく音を立てて、それはどんどん早くなって眩暈がした。息を整え、ゆっくり、ゆっくりと身体をそちらに向ける。  そこには、あの日のままの姿で立つ、懐かしいひとがいた。 (······卯月、様)  優しく笑うひとだった。とても。  触れる指も、唇も、なにもかもが優しくて。  思い出す度に心が揺らいだ。 「すまない、随分と待たせてしまったな」  気付いたら、抱きしめられていた。  あたたかい。  その声も、なにもかもが記憶のままのあのひとだった。  桜の花びらが描かれた、薄墨桜のような地色の羽織を見つめ、卯月は嬉しそうに笑みを浮かべていた。 「君のことを想わない日はなかった。いつか、自分が死んだ時、永遠を誓ったこの千年桜の木の下で逢えると、信じていた」 (私も、私もお逢いしたかったです。たくさん御礼を言ったかった。私などを慕ってくださったこと、愛してくださったこと、本当に嬉しかったんです)  見上げてぱくぱくと気持ちと一緒に口が動く。声が出ていないことも忘れて話しかけてくる朔に、卯月は罪悪感からか思わず眼を逸らしてしまう。  その首に巻かれた包帯の下に眠る、深い深い傷痕。あの日の傷は、心の奥深くに刺さったまま、卯月の中で癒されることはなかった。  朔は卯月の腕の中で、首を傾げる。  逸らされたままの視線の先は、彷徨うように朔以外のものを映していた。 (卯月様、もう、いいのです。私のことなど、お気になさらず、あなたはあなたのいくべき場所へいってください)  朔は頷き、卯月の右手を取り、その手の平に指を当てた。描かれる文字を読み取った卯月は、思わず逸らしていた視線を自分の手の平の上にある朔の指へと向けた。 『さ』『よ』『な』『ら』 『あ』『り』『が』『と』『う』  書き終えた後、朔は小さく微笑んだ。  逢いに来てくれたこと、嬉しかった。  永遠の約束。  逢いたいひと。  ずっと、待ち続けると決めた。 『こ』『こ』『に』『い』『ま』『す』  春を待ち続けると、決めた。  千年桜の下で。  卯月はもう一度朔を抱きしめると、ごめん、と震える声で呟いた。この長い年月の中で、愛しいものが増えた。もちろん、朔のことを忘れたことはない。しかし、それ以上の時間を共にしてきた愛するひと、子、孫の姿が頭から離れない。 「君を、愛していた」  こく、と朔は頷く。 (私も、愛してました)  この想いは、間違っていたのかもしれないけれど、それでも、それだけは真実。  目の前で消えていく卯月を最期まで見送り、朔はまたひとりになった。しばらくぼんやりと立ち尽くす。雲一つない晴天は、まるで空っぽな自分の心のようだと思った。  これで、いい。  これで、あのひとを縛るものはなにもなくなったのだ。  朔の頬にほろりと涙がつかう。  泣く、のははじめてだった。  悲しい、寂しい、痛い。  蹲って、泣き続けた。  そして、また、あの季節が廻る。  千年桜が枝に蕾を生み出し始めた頃、朔は落ち着かない様子で、雪解けの湿った大地の上を行ったり来たりしていた。春はもうすぐそこまで来ていた。 (どうしましょう。こういう時は、なんて言ったらいいんです?)  卯月のことを話して、ここにずっといることを決めたことを話して、それから、それから······。 (望むこと、したい、こと······)  うろうろしながら、くせのように細い指を胸の前で絡め、その答えに頬を染めた。  そんな奇妙な姿を遠目で見つめていた春水は、足を止める。なんだか様子がおかしい。なにかあったのだろうか?  心配になって止めていた足を速める。その頃にはうろうろするのを止め、千年桜を見上げていた朔の後ろ姿が見えた。声をかけようと思った矢先、くるりと朔が振り向いた。    すぐ後ろにいた春水を視界に入れた途端、時が止まったかのようにぴくりとも動かなくなったので、 「なんだよ、どうした?俺の顔に何かついているのか?」  と、春水は怪訝そうに訊ねる。  顔の上半分は狐の面に覆われているので、ついているとしたら口元だろうか?気になった春水は袖で口元を拭う。  朔は我に返ったのか、そのまま覆いかぶさるように春水に抱きついてきた。その突然の行為に油断していた春水は、体勢を崩してそのまま後ろに押し倒される。 「······おい、なんなんだ?本当に、どうかしたのか?」  呆れた顔で春水は嘆息する。自分を下敷きにして抱きついたまま離れない朔が、どんな顔をしているのかわからないまま、もはや好きにさせてやろうと諦める。 「そんなに(おれ)が待ち遠しかったのか?まったく、大袈裟な奴だな、」  よしよしと背中を撫でて、子供をあやすように春水は笑みを零す。まるで大きな子供のようだ。まだ雪の残る地面を、所々彩り始めた新芽の薄緑が目に入った。  春。  やっとこちらを見た朔の顔には、まるで花でも咲いているかのような笑みが零れていて、春水はその花に触れたいと思った。  ゆっくりとその唇が音のない言葉を紡ぐ。  その言葉は、音にすればくすぐったく、どこまでもあたたかい言葉。  ずっと、心のどこかにあった、想い。  ――――あなたが、すきです。  この千年桜の下で、永遠に廻る(あなた)を待つ。 ~ 春の章 了 ~

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