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秋の章 六、裏切り

 ある夜のこと。  無月(むげつ)はよく知る気配を感じて目を覚まし、衣を一枚肩に羽織ると、それから自身の部屋をそっと抜け出した。  足取りは重く、顔色も良くない。月明かりのせいか、青白く染まったその肌は、この世の者ではないようにさえ見えた。  邸の裏手。見回りの兵もいない場所に、ひとり、佇む。そうしていると、ひらりと黒い羽根が目の前を一枚だけ過った。  それが視界を奪ったその一瞬のうちに、目の前に舞い降りた黒い影。闇より深い漆黒の衣を纏った青年が、無月の前に立っていた。 「化身の身が弱まっている。なにがあった?」  心配するように、漆黒の衣の青年が無月のその青白い頬に触れようと、指先をこちらに向けた。逃れるように一歩後ろに下がって、それから「大丈夫です」と首を振った。 「黒羽(くろは)、ひととは、時に恐ろしい生き物。優しい顔の裏に、鬼のような顔を隠していて、紡がれる言葉と本音が矛盾している。この身は、今、どれくらい穢れていますか?」  平らな胸の辺りに手を当てて、碧い瞳が悲し気な色を浮かべる。  穢れ。  ひとの中に在れば、必ず触れてしまうモノ。  黒羽と呼ばれた黒衣の青年の顔は、上半分が白い仮面で覆われていた。長い髪は後ろで三つ編みにしており、無月よりも頭ひとつ分は背が高い。 「もう時間がない。目的を果たしたなら、森に戻るべきだよ。あなたはいつまでここにいるつもり?」 「あのひとがしていること、しようとしていること、止めないと」 「······今のその状態で?」  面の奥で怪訝そうに眼を細め、黒羽は無月に問う。ゆっくりと頷くだけの無月に、はあと嘆息し、半ば諦めの表情で再び頬に手を伸ばした。触れ、自分の気を注ぐ。気休めかもしれないが、少しは役に立つだろう。 「俺は止めたよ?後は自己責任。どちらにしても、形を失えば森へ戻ることになるだろう。そうなった時に後悔しても遅いからな」 「すみません、我が儘を言って、」 「······とにかく、無理はしないで?駄目だと思ったらさっさと見限るのも、ひとつの判断ってやつだから、と、誰か来るみたい。じゃあ俺は行くよ、」  はい、と無月が答える前に、黒羽は闇に溶けるかのように姿を消した。足音が後ろからゆっくりと近付いて来る。  その音は、どこか苛立ちと不安を含んでいるようで、振り向くのに勇気が要った。 「今の、誰だ?何の話をしていた?俺には言えないこと?叔父上の言うように、あなたが俺に毒を盛ってるんじゃないかって憶測は、なにかの間違いだって······弁解できるなら、今、ここでして欲しい」  無月はその言葉に耳を疑った。自分が、だれに、毒を盛った?と。  動揺を隠せない無月の表情は、月明かりでも十分にわかるほどで、桂秋(けいしゅう)はそれが肯定の意であると思い込んでしまう。 「······やっぱり、そうなのか?だから、膳を交換して欲しいなんて言ったの?」 「ちが····違います、私は······、」 「最初からそのつもりで、俺に近付いたの?俺が馬鹿みたいにひとを信用するのを、心の中で笑ってた?助けるふりをして、本当は間者として手引きをしてたってこと?だから、俺の想いも受け入れてくれなかったのか?」  俯いたまま、怒りと悲しみに震える声に、無月はただ首を振る。先に手を打たれてしまったことに、今更気付いた。  おそらく、日常会話として、何の気なく桂秋は叔父の紀章(きしょう)に話したのだろう。最近、自分が彼の膳を交換するように願い出てていたことを。  けれども、それは毒を盛るためなどではなく、毒を盛られていないかを確認するためだった。その指示を出しただろう張本人が、先にこちらに疑いを向けさせるように、桂秋に入れ知恵をしたのだ。  無月は掴まれた右の手首に、その強さに、絶望する。今ここで、何を言っても、彼には信じてはもらえないだろう。  彼の口に入るはずだった毒を代わりに受け、無月の身体も弱っていた。毒は穢れとしてその身を侵し、黒羽が言ったように、もう、残された時間はわずかだった。  強く手首を握りしめられ、引き寄せられたそのままに、人気のない場所まで連れて行かれると、思い切り背中を固く冷たい壁に打ち付けられた。  逃げられないように囲われ、近付いて来る顔から眼を背ける。代わりに首に顔を埋められ、無月は思わず桂秋を突き飛ばしてしまう。  薄暗闇の中で、月を背にした桂秋の、その泣き出しそうな表情が目に焼き付いて離れない。  その後の事は、ただされるがままだった。弱った身体は抵抗などできるわけもなく、言葉などなにも届かないと思い知る。  その気持ちを、願いを、全部受け止めて。  もう二度と、あの真っすぐで優しい笑みには会えないだろう。それもこれも、なにもかも全部、自分のせいだ。  彼の傷付いた心がこれ以上壊れないように、そっと背中に手を回す。こんな形で触れ合ってしまったことを、後悔などしていないと伝えるために。  そのぬくもりを、忘れないように。    その碧く澄んだ瞳に、秋の夜空を照らす丸く大きな月を映す。    ゆっくりと閉じられた瞼。  最後に触れられたその唇は、微かに震えていた。  もう、戻れない。  これが、最後の――――。  次に目覚めた時、無月は牢に繋がれていた。両手を鎖で吊るされ、薄暗く冷たい罪人牢の中で、自分の置かれた状況を理解する。    その視界の先に現れた人物に対して、精一杯の皮肉めいた笑みを浮かべるしかなかった。

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