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秋の章 八、道は違えど、想いはひとつ
無残な姿となっている無月 に対して、口の端を歪め、いつものあの仮面のような優しい表情のまま、自分が鞭で痛め付けた、両の腕を眺めていた。
破けた衣から覗く、右脚に残る古い大きな傷痕。首筋に薄っすらと残った赤い痕。手首を拘束する鎖の痕。そのどの痕も、生白い肌を飾る、美しい痕。
「もうすぐ、この地は他の国の領主が派遣した兵によって火の海にされるだろう。あの忌まわしい森も焼き払われる。白の神になにができると?そもそもそんなモノ、いるはずもないのに」
信仰心など微塵もない。昔から、あの森を崇拝してやまない兄を、気持ち悪いとさえ思っていた。毒などではなく、さっさとこの手で殺していれば、あんな遺言書を残されることもなかったのに。
「残念ですが、あなたの"願い"は叶いません。あなたがやり取りをしていた伝書鳩も、あの森の中で密かに交わしていた密約も」
「······どういう意味だ、」
紀章 は鉄格子にしがみついて、明らかにそちらの方が不利な状態だと言うのに、笑みを浮かべる無月を怪訝そうに見据える。
「あなたが最初に放った伝書鳩は、森の眼である鴉たちによって止められ、その文は彼らの長の手に。それはそのまま白の神へと伝えられました。そこにはあなたが、領主である桂秋 様の父上、つまり実の兄を毒殺した、と書いてありました。また、森と捕虜と領地を渡す代わりに、自身を彼の地で優遇するように手配して欲しいとも」
紡がれていく言葉に、薄暗い牢の中でもはっきりとわかるくらい、紀章の顔色が悪くなっているのがわかった。
「あなたの許へと届いた伝書鳩の返信も、その後のやりとりも、全部。森の中で交わした密約さえも、存在しません。つまり、森は焼かれることもなければ、桂秋様が、彼の国の領主によって、見せしめで首を切られることもないのです」
もちろん、あなたの優遇などあり得ない、と止めを刺すかのように付け足して、無月は小さく笑った。そのやりとりはすべて、あの漆黒の衣の白い仮面の青年、鴉の長である黒羽 が代行していたのだ。
「馬鹿な······っ!あり得ない!お前はなんだ!?まさか本当に、彼の地の間者だとでもいうのかっ」
「最初から言っているでしょう?私は鎮守の森の使いであると。間者などではありません。もちろん、この地を陥れる者でもありません」
「それこそあり得ない!そんなものは存在しない!愚かで何の力もない者たちの、ただの妄想だ」
「······叔父上、今の話は本当ですか?」
は、と紀章は握りしめていた鉄格子を思わず放す。よく知る声の方を振り向いた矢先、その傍にいた従者たちがこちらに太刀の鋭い切っ先を向けてきた。桂秋の表情は、どこまでも真っすぐで、強くて揺るがない意志に満ちていた。
「すべて聞きました。ここにいる者が皆、証人となるでしょう。言い逃れは不要です。そんなこと、俺が赦さない」
桂秋は従者たちに叔父を拘束させ、その場から遠のかせる。罪人牢から出た後も、ずっと、その声で自分を罵る声が聞こえてくる。
それは聞くに堪えないような言葉ばかり。あんなひとを尊敬し、あんな風になりたいと願っていた自分を、否定したくはないけど。
「無月様、俺は、あなたになんて酷いことを、」
「いいのです。それに、様、など。今の私には相応しくありません」
手首に残った赤紫色の鎖の痕。叔父が鞭で打ったのだろう、両の腕のいくつもの新しい痣。自分が付けた首筋に残る痕。肩を抱き、支えるように桂秋は傍に座った。拒否されるかと思ったのだが、無月はそのまま胸に寄りかかってくれた。
ふと、衣の隙間から覗く右脚の傷痕が目に入った。あの時、無月と身体を重ねた時も、気になっていた古い傷痕。その経緯を知ってしまった。桂秋の視線に気付いたのか、無月は隠すように開 けていた衣をそっと直す。
ふたり、冷たい牢の中で座ったまま、視線が重なった。
「鈴 から聞いた。あなたが、あの時の白い狐で、白の神の化身だということも。叔父上を止めて欲しいという、父上の願いを叶えてくれたことも。俺、何も知らなくて。あんな酷いこと、」
「····酷いことなど、されてません。私は、あなたの気持ちを受け入れたんです。だから、そんなこと、思わないでください。しかし、この身は、もう、朽ちるのも時間の問題でしょう」
その言葉を証明するかのように、無月 の身体は白い光に包まれ、ぼんやりとし始める。寄りかかっていたはずの身体の重みはまったくなくなり、支えていた肩は無数の光の粒と化して、散り始めた。
桂秋は形を成していたその光の欠片が、どんどん散っていくのを目の当たりにして、必死にその光の粒子を集めるような仕草をするが、光はどんどん泡のように闇に溶けていく。
「····さよならは、言いません。道は違えど、私たちの想いはひとつ。あなたはひとの中で、私は森で。この地を、守る。あなたの幸せを、祈っています」
言って、無月は消えてしまった。
残された桂秋は、その大きな喪失感から、しばらく動くことができなかった。やがて辺りを漂っていた小さな光の粒がすべて消え去った時、ゆっくりと顔を上げ、その琥珀色の眼を細めた。
――――数年後。
鎮守の森の奥深く。秋の頃。
白い衣を纏い、長い白銀髪を風に靡かせた碧い瞳の細身の青年が、赤や黄に染まった森の木々の隙間から零れる光の筋に、手を伸ばしていた。眩しそうに眼を細め、青く澄んだ空を見上げる。鳥の声。森の匂い。
優しい声が、その名を呼ぶ。
ゆっくりと振り向いた先、そこに立っていた者に対して少し驚いた表情を浮かべたが、やがて慈しむように微笑んだ。
「やっぱり俺は、他の誰かじゃなくて、あなた がいい。あなたは、どう?」
「····私、は、」
光差す森の中で、ふたり、祝福されているかのように。
どこからともなく吹いた風でひらひらと舞う、赤い楓の葉たち。
「俺はあなたと一緒に、この森を、この地の民を守ると誓うよ、」
そっと抱きしめられ、耳元で囁かれた声は、どこまでも真っすぐで心地好い。
戸惑いながらも、それに応えようとする健気な神に、青年は触れるだけの口付けを落とす。ひとの寿命は短い。流れる時間も違う。それでも。
この想いは、永遠にあなたに捧げる――――。
~ 秋の章 了〜
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