「無理です、本当に無理です」 　カフェスペースで泣き言を言ってしまうのはもう定番だ。 「原子記号は丸暗記なんだからそんなに苦じゃないだろう。覚えろ」 　相変わらず片手にはあのフランス文学調の源氏物語が広げられている。しかももうかなり巻数が進んでいる。確か文庫本で全十四巻あるのに、悠人はもうその最終巻を手にしている。しかもめくっているページは後半だ。 　中西に勉強を教えながらも読書をし続けるその器用さに感心する暇は全くない。原子記号がずらりと並んだ表を前にしてこれを全部覚えるなんて無理でしかない。未だに悠人に出された「最低限」と言われた英単語すら覚えられないでいる。 　他にも数学の公式もあり、覚える量が多すぎて頭がパニックになってしまっている。一度覚えたものはどうにかなるが、新たに覚えなければならないのが多すぎてもうギブアップだ。 「いいから覚えろ。お前が無駄にした時間分を取り戻せ」 「無駄って……俺なりに頑張ったんだけど」 「部活をだろ。その努力を勉強に向けろ」 「ひどい……井ノ上が冷たい」 「好きに言ってろ」 　パラリとページが捲られた。教科書に目を落とすふりをしてちらりとそれを見る。白くて細いせいか長く見える悠人の指は、白魚と例えられる貴婦人のようだ。本当に白くて細くて、本よりも重いものなど持ったことがないような、そんな嫋やかさがある。男の手なのにと思いながらも見入ってしまうのを止められない。正直、最近これの繰り返しだ。なぜか悠人のことがビジュアル的に気になる。男だと分かっているが、仕草が本当に綺麗で目が離せないのだ。 　日に日に悠人のことが気になってしまう。マドンナに似ている部分を見つけるたびにドキリとする。相手が男だと分かっていてもときめかずにはいられない。ずっと憧れていた存在なだけに、側にいるとドキドキしてしまう。二ヶ月も毎日顔を見ているのに未だに胸がドキドキしてしまう。なぜなのかが分からないまま、とにかく勉強を続けることが悠人との接点だから必死になってやってきたけど、無理が多すぎる。自分が走り高跳びと出会ってから勉強しなかった時間を取り戻そうと躍起になってはいるが、同時に悠人に魅了されてしまうのに時間を取られる。どうしてか、時間ができれば勉強よりも悠人のことを考えてしまう。駄目だと分かっていてもどうしても悠人のことを考えずにはいられないのだ。 　どうしてこの病院に入院しているのか、どうしてそんなに本ばかり読んでいるのに勉強ができるのか。 　知りたいことがたくさんあるのに、教えてくれるのは勉強だけ。もっと他のことを彼に聞いてみたい。彼を知りたいと思ってしまう。 （俺、ちょっとおかしいのかな？） 　相手は同じ男なのに、初めて会った時にマドンナだと思ってしまったせいで意中の女の子といるような気持になってしまったのだろうかと自己分析するが、毎晩のカフェスペースでの勉強会の時間が近づくたびにソワソワして気持ちが落ち着かなくなる。 　ちらりちらりと見てしまうのを止められず、問題を解いているふりをしては悠人の横顔をずっと見つめてしまう。 　そんな繰り返しで正直暗記問題なんて難しい。 　まだ新しい公式を使って問題を解いた後に答え合わせしてくれる方が堂々とその顔を見ることができる。 「……とりあえず水素から銀までは最低でも覚えろ。たった15個だ、すぐに覚えられるだろう」 「井ノ上と一緒にしないでくれよぉ」 　なんで水素が「Ｈ」で酸素が「Ｏ」なのかも分からなくて覚えられるわけがない。泣きそうな顔でそれを伝えれば重い溜息が活字ばかりの紙に吸い込まれる。 「元はラテン語で『hydrogen』だからだ。もしかしてラテン語まで覚えたいのか？」 「これ以上は結構です！」 「なら書いてあるのをそのまま頭に叩き込め」 　教え方が鬼である、スパルタである。夜のカフェスペースは人がいないせいで静寂に包まれている。この空間だけは悠人と二人きりなのだと思うとそれだけで舞い上がってしまいそうだ。 　なのに、スパルタ。分かりやすいが悲しくなってくる。もっと褒めて欲しいのに愛情が微塵も感じられない。何とか数学は一ヶ月で中学一年生を卒業できたが、英語と理科が全くわからない。しかも歴史に至っては教科書を丸暗記しろと言ってくる。 『理科と社会は暗記すれば終わりだ。それ以上する必要はない。歴史は漫画日本史と三国志とベルサイユのばらでも読んでおけ』 　無茶ぶりにもほどがある。 　指示に従順な中西は言われた通りにそれを読んでから教科書に向き合ったら、不思議と内容がするりと頭に入ってきた。当然すべて漫画であるが、それでも妙に詳しくなってしまった。自国の歴史にすら疎かったが、小学生が読む歴史漫画は分かりやすく纏められていて、正直とても読みやすかった。誰かひとりに感情移入できないが、それでもなんとなく流れが分かった。 　だが、今出されている課題は難題だ。元素記号なんて分かるわけがない。むしろこれが何の役に立つのかさっぱりわからない。 「本当にこれ、覚えなきゃダメなのか？」 「同然だろう。蛙からオタマジャクシが生まれるくらい当たり前のことだ、知らない方が恥ずかしい」 「……そんなに恥ずかしいことなのか!?」 「あぁ、恥ずかしいな」 　では今まで知らずに生きてきた自分はどれだけ無知だったんだ。中西は急に心を入れ替え必死で元素記号を頭の中に叩き込んだ。さすがにすぐには覚えられないが、それでも必死になる。さっきまで「井ノ上の横顔って美人だなぁ」なんて思っていたのが吹き飛んでいく。そんな余裕も時間もないのは重々理解しているし、むしろ悠人といられる時間に頑張っている姿を見せて褒められたいなんて下心もあるのだが、いかんせん悠人から出てくる要望のハードルが高すぎる。記憶力は悪くないと思ってはいるが、それでも日本語だけを覚えればいい日本史よりも、アルファベットが混ざっている分だけ、心の拒否反応が高すぎる。 　だが言えるのはただ一つ。 「がんばります……」 　これ以外の言葉を悠人に言おうものならすぐにでもこの勉強会は切り上げられてしまう。それではせっかくできた蜘蛛の糸よりもずっと細い接点なんてすぐに切れてしまう。あっという間にプッチンプッチンどこからでも切れて見当たらなくなる。 　今ですら友達だというには薄い関係だ。 　できるなら親友になって何でも話せる関係になりたいと、強かな欲にまみれている。お互いに退院したら昼休みは一緒に学食でご飯を食べて、放課後には一緒に帰って、そして休日には待ち合わせして遊びに行く、そんな友人として当たり前の関係になりたいのだ。せっかくできた接点をこんなところで壊してしまいたくない。 「明日の朝にその15個を覚えられたか確認するから頭に叩き込め。計算するよりはずっと楽だろう？」 　計算の方が楽です……なんて言えるはずがない。 「がんばりますぅぅぅ」 　いい年して涙が出そうだ。明日の朝ってすぐそこではないか。これでは寝る時間も惜しんで勉強しろというのと変わりない。 （いや、できる。俺はやれる奴だ、井ノ上のためなら！） 　中学でこんな難しいことを覚えらせられていたなんて驚愕でしかないが、自分が朝練で疲れた体力を取り戻すために眠っていた間に、他のクラスメイト達はずっとこの難しい課題を乗り越えてきたに決まっている。 （なんで俺、あの時寝ちゃったんだよ） 　中学の部活とはいえ、夏休みや冬休みに大きな大会があるため、いつも朝練や放課後の練習を繰り返し、休日すらない状態でずっと練習し続けてきたのだから、体力の限界を補うのは無理もないことだろう。だがそれを言い訳にできるのは、今でも結果を出している状況の時だけだ。もう結果を出すことができない中西に求められているのは、勉強での結果のみ。もう部活の成績は考慮されない。今度登校したら、退部届を出してただの一般生徒になる。そうなれば必然的に成績が重要視される。いつもテストの上位にいる悠人と違い、中西は後ろから数えた方が早いくらいの低空飛行だ。 　夏休み中に退院はできるだろうと言われているが、その後には中間テストに期末テストが控えている。 　だから一刻の猶予もないのだ。 　なのに、目の前に悠人がいるとどうしてもその造りの美しさに見惚れてしまう。 　神様は彼にばかり何重もの祝福を与えているように思えるほど、顔もいいし頭もいい。性格は少しきついが、それも中西にとって不快にはならないし、むしろ言いたいことを隠されるよりもずっといい。 　もし悠人が女性だったら、間違いなくこの場で告白して彼氏の座をゲットしていることだろう。それくらい、悠人は中西の理想そのものだ。医師や看護師には愛想が良いのに、中西にだけつっけんどんなのがまた何とも言えず、グッとくるのだ。それだけ心を開いてくれているような感じで、他人には決して見せない顔を自分だけが知っているという優越感に浸れる。 　が、ここまでつっけんどんだと時折泣きそうになるのはなぜだろう。 　今だってちっとも目を合わせてくれようとはしない。ただひたすら本を読み続けている。そんな猫のような態度の悠人を目にしながらも、こんな酷いことばかりを要求してばかりでも、心拍数が上がるのはなぜだろう。 　泣き言を一蹴されても、しがみ付いて何とか明日までには完璧に覚えなくてはという気持ちにさせられる。 （このままじゃ駄目だ！） 　中西は両頬をパンと叩き、テキストに集中した。 「Ｈが水素で……Ｏが酸素……」 　一つずつ読み上げていき、早く高校の勉強に辿り着こうとする。 　必死になって読み上げていく中西に、目を向けないまま悠人はページを捲りながらそれを聞いている。最低限覚えるべき15個目の元素が読み上げられるのを待って珍しくその口から勉強とは関係のない言葉が紡がれた。 「お前の足、今どうなってる？」 　勉強を教えて貰うようになってから二ヶ月、初めて怪我のことを聞かれたのに驚いて顔を上げた。 「え？」