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15 水族館とクラゲと告白と2

 そう思えるのが不思議だ。薄暗い館内で、明るいのは水槽ばかりという不思議な空間の中で、初めてただ素直に『生きる』のを見て、言いようのない衝動が走った。 「そろそろ行こうか」 「うん……」  中西がゆっくりと車椅子を押していく。近海の珍しい魚たちが小さな水槽に入れられライトアップされている。 「井ノ上見ろよ、金色のオニオコゼ! すっげー金運良くなりそう」  同じ水槽には砂利と同じ色のオニオコゼが一緒に泳いでいる。 「突然変異だろうな……保護色じゃなければ敵にすぐ見つかってしまう」  図鑑で得た知識だが、それでもここまで大きくなって生きているのだから凄いと思う。 「へぇ。でも綺麗だよな。触ったら運勢良くなるかな」 「背びれに毒があるからどうかな」  笑えば「そんなぁ」と残念がる声が上がる。ゆっくりと一つずつ水槽を見て次の展示へと移動すれば、またそこで言葉をなくした。  青いライトに照らされた静寂な空間の中央にある大きな球体の中で、クラゲが自由気ままに泳いでいる。ひらひらと絹のような身体を萎ませては少しずつ、とても儚げにふわふわと開いて移動していく。どの種類も毒を持っているのに、その姿はとても優美だ。  ライトアップの仕方でとても幻想的に映し出され惹き込まれていく。 「クラゲがこんなにも綺麗だって知らなかった……」  ぼそりと呟いた中西の言葉に静かに頷いた。これ程まで優美に漂う生き物は他にいないのではないかと思わせるほどに、美しい。 「俺さ、子供の頃にクラゲに刺されてすっげー痛い思いしたんだ。だから夏の終わりの海って大嫌いだった……こんなに綺麗だったんだな……なんか井ノ上みたい」 「……どういう意味だ?」 「ん? 凄く綺麗なのに人を寄せ付けないところが似てるなって」 「なんだそれは……」  自分はこんなに綺麗じゃない。もっと醜い心を持っている。 「井ノ上は綺麗だよ。凄く、綺麗だ」  地上にいたときとは違う、ひどく穏やかな声が悠人の心を優しく包み込んでくる。  心地良い声音でゆったりと。  その温かさに、きつく縛り付けたはずの鎖がゆっくりと外れていく。 「綺麗じゃない……こいつらと違って僕は……」  言いたいことが巧くまとめられないなんて初めてだ。悠人はふぅっと細い息を吐き出すと目を閉じた。鎖が外れた心から溢れ出てきたのは嫌な思い出ばかりだ。 「僕は……死のうとしてるんだ」 「え?」 「生きる意味が分からなかった……」  ぽつりぽつりと話し始めた。 「生まれる前から心臓に問題があるのが見つかったんだ」  それでも産もうと決めた母とは違い、出産に立ち会うことなく父は離婚届だけを置いて家を出た。NICU(新生児集中治療室)にいる悠人の顔を見ることもないまま、不倫相手の元へと逃げ出していった。母も母方の親族も怒り狂ったが、逆に父方の親族は兄は引き取るから離婚しろと迫ってきたそうだ。まだ七歳の兄は必死でそんな大人達を怒鳴りつけたらしい。  それからというもの、一家の大黒柱となった母はすぐに仕事に復帰して子供二人を養った。NICUから出ても、安静でいなければならない悠人の世話は母方の祖父母と兄がしてくれた。入退院を繰り返す不安定な存在に疲弊しただろうが、誰もなにも言わなかった。ただ当たり前のように病弱な悠人を受け入れてくれた。  何度も手術を繰り返す子供の相手は大変だったのに、本当に言わなかった。  だからショックだった。初めて会った父の親戚が自分を『外れ』と言ったことに。まだ幼いから分からないだろうと口にしたのか、分からなくても言いたくてしょうがなかったのか。 『お前みたいな外れが出てきたから、あいつは逃げ出したんだよなぁ』  家族を放り出した身内を庇う言葉だったのかも分からない。けれど、その意味を知ってから悠人はいつもどこかで自分が死ねば良かったと考えるようになった。  自分さえ死ねば、母は治療費のために働かなくて済む。兄は大学に入って人生をやり直せる。こんな外れの相手をしているから損をさせてしまった。自分に生きる価値が見いだせなかった。  だから心置きなく死ねるように、高校へと通わせて貰った。次に入院したらその時は死のうと決して。 「不思議だよな。僕に生きている意味なんてないって思ってた。生まれなければ良かったって思ってた。なのに、生きる意味なんて考えたこともないこいつらの方がずっと一生懸命生きてるんだ……その方がずっと綺麗なんだ……僕はちっとも綺麗じゃない」  こんな重たい話を聞かされてるというのに、遮ろうともせずただ静かに聞いていた彼はどう思ったのだろうか。いっちょ前のことを口にするくせにと呆れられただろうか。自分がいつも側にいたのがこんな人間だと失望しただろうか。  するりと中西の大きな手が頬を撫でてきた。 「生きる意味とか難しいことは分からない。けど、俺は井ノ上に生きて欲しい」  水族館の低い空調で冷やされた肌に、熱い掌は心地良い。懸命に生きようとしている身体が持つ力強さに似ている。 「生きて……生きて生きて、死ぬのはそれからにして欲しい」  中西らしい言葉に口元が緩む。真っ直ぐな彼ならそう言うだろう、目の前にいる人間を簡単に見放したりはしない。死のうとしているなら尚更だ。  そう思っていた、のに。 「それで、それまで井ノ上の隣にいさせて欲しい」 「隣にいてどうするんだよ……」 「俺がめちゃくちゃ大事にして俺だけのものにする」  右頬にあった手がするりと左の細い腕の先へと向かう。肘掛けに置いた手を上から握ってきた。  じわりと伝わってくる熱。 「好きなんだ……だから俺と一緒に生きて」  耳元で、中西とは思えないほど小さな声が鼓膜を震わせた。同時に悠人の指先も震える。  古くから『衆道』という言葉があり、男同士の恋愛なんて日本では珍しいことではない。あの光源氏ですら想い人の弟と夜を共にした記述があるくらい、当たり前のこと……なんて知識があっても意味がない。それよりも、自分を好きだという言葉に驚き目を見開くしかできなかった。  こんな『外れ』を好きになる人間が家族以外にいるはずはない。だから自分とは無縁のものだと思っていた『恋』が今目の前に溢れ出ている。 「……なか、にし?」 「ずっと井ノ上の側にいるのが俺じゃ、ダメ?」  分からない。恋愛なんて自分とは関係のないところで繰り広げられているものだと思っていた。自分とは一番縁遠いものだと思っていた。失う命なのだからと考えたこともなかった。  けれど。 「本気なのか?」  嫌じゃない。 「うん、本気。俺、井ノ上がいいんだ」  重なった手を強く握り引き寄せられる。そしてもう片方の手が首筋に触れた。少しだけ圧をかけ、脈を測るようにしたかと思えば頬を寄せてきた。  頬までもが温かい。  今までにないほど近くに中西の顔がある。側にいるのが心地良いと感じていたけれど、触れ合っているのも嫌悪感どころか、ずっとこうしていたいと思ってしまう。 「物好きだな……」  つい出てくるのは憎まれ口。クスリと中西が笑う。目を伏せた顔が一層悠人に押しつけられる。 「そうかな? 良い趣味だと思ってるんだけど。綺麗で気高くて頭が良いのに、俺にだけ弱みを見せるところが可愛い」  まただ。 「本音言ったの、俺にだけだろ。それが嬉しい」  不意に鋭いところを突いてくる。  普段は脳天気なそぶりしか見せないくせに、とてもよく人を見ては、相手の機微に合わせられる。それが犬の特徴にそっくりだと、中西は知っているだろうか。  恋がどんなものか分からない。物語の中でしか知らないそれを、自分がするなんて想像ができない。  でも中西が相手ならいいかと思えるのが不思議だ。  きっとあの言葉が頭の片隅に残っているからだ。 『俺は一人の人で充分だ。その人がいれば幸せになるし、他の人なんか目に入らないと思う』  奇特なヤツだと思いながらも、今までにないくらい胸が高鳴ってそわそわしてしまう。同時に身体が包み込まれているようで、ふわふわとしてしまう。  目の前のクラゲのように、ふわり、ふわりと水中に浮いているような気持ちになる。  こんな感情が自分の中にあるなんて不思議だ。  もしかしたらこれが、嬉しいという気持ちなのだろうか。 「本当に好きなんだ……だから気持ち聞かせて」 「あとでな」  素直になるのは少し気恥ずかしくて、わざと素っ気ない態度を取る。それでも中西は笑いながら「ひどいなぁ」と零すだけだ。そして間近で悠人を見てもう一度球体の水槽に目をやった。 「やっぱり似てる。綺麗なのに毒を持ってるところがそっくりだ」  そうかもしれない。  自分と似ていると言われたクラゲはどう思うのだろうか。それでも気にせずふわりと水の中を漂うように泳いでいくのだろう。

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