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20 春に君の隣を歩く1

 入学式に合わせて咲き誇っていた桜が、いつの頃から足を速め入学式には散っていることが多くなった。合格の知らせで『サクラサク』と打っていたのは遠い昔なのかと思うほど入学式を終えて出た講堂から見えるのは、新緑の葉ばかりだ。 「入学おめでとう、悠人」  忙しい家族が入学式だけはとなんとかスケジュール調整しようと躍起になっているのを止めたのは悠人だ。大学の入学式なんて保護者の参列は少ないし、ましてや年度初めすぐでは仕事の調整が難しいだろう。その中で自分の名を呼ぶ人間に、心当たりがある。 「なんだ、わざわざ来たのか?」 「当たり前だろ。秀人様にきちんと動画撮るように言いつかってるし」  中西がいつものようににかっと笑った。ストライプのシャツにカーディガン、その上に黒のトレンチコートを羽織り、コートと同色の細いデニムというラフな服装をしたその手には、兄に託されたのだろう最新型のハンディカムが握られている。 「悠人の挨拶めちゃくちゃ綺麗だった」  ほわほわと花が浮いているような顔をする中西に嘆息して歩調を速めた。 「うわ、先に行かないでくれよぉ!」  スーツに合わせた革靴は履き慣れないせいでどうしてもいつもより歩調が遅くなる。  慌てて後を追いかけてくる足音が少しだけ胸を浮き立たせてくれる。  うっかり新入学生代表挨拶に選ばれてしまったから今日まで忙しく、構ってやれなかったのに中西は変わらず元気だ。当たり前のように横に並んでくるのにも随分と慣れた。  手術が成功して退院した夏、悠人が高校二年生をもう一度やり直しとなっている中、中西は受験勉強に忙しく、冬休みを最後にあまり会えなくなってしまった。 (とはいえ、学校があの雰囲気だったからな……)  久しぶりに登校したらなぜか二・三年から温かく迎えられ、二人の交際が公然の事実となっていたのには驚いた。放課後になれば中西が教室の前まで迎えに来て家まで送り届けてくれるのが当たり前になっていた。 「こうすれば誰かが悠人を好きになったりしないだろ。保険だって」  事実を知って怒りはしたが、見る方が温かくなる笑顔でそう言われれば許すしかなかった。  夏には二人で海辺を歩いたし、もう一度あの水族館にも行った。中西がした「約束」はすべて果たされた。術後だからあまり無理はさせられないといつも決まった時間に帰るのが少し寂しかったし、なによりもあれ以来身体の関係がないのが悲しい。  自分から誘うのはちょっと憚られ、中西から言ってくれるのを待っていたら、彼の受験が始まり、落ち着いたと思ったら次は悠人の受験だ。  もう心臓の心配をしなくて良くなった家族は当然のように進学を勧めてくれ、なによりも中西が自分と同じ大学に来ることを強く願った。  また高校時代のように一緒に通学をしたかったのだろう。  残念ながら第一志望の国立大学が受かってしまい同じ大学に通うことはできず、春休み中はどれだけ悲しかったかを延々と聞かされる羽目になった。 「今日この後って予定ある?」  ハンディカムを鞄にしまって中西が当たり前のように手を繋いできた。 「ぁ……」  一緒に下校していた頃はよくこうして手を握っていた。初めは恥ずかしがっていたがいつの間に慣れて、自由登校となる三学期から中西に握られない手がいつもよりも冷たくなっていたように思う。卒業してからは余計に会える時間が減り、休日に出かけるときだけだ。  久しぶりの中西の温かさをじっくりと感じながら駅へと向かう。新入学生がほぼ帰った後だから、駅へと続く道は人がまばらだ。 「久しぶりにさ、一緒に昼飯食べないか?」  そういう誘いかとちょっとだけ落胆した心を隠して頷く。  大学の側のターミナル駅に行けば食べる場所は多いだろうと考えたが、中西はどうやら地元まで戻るつもりだ。電車に乗って見慣れた駅で降りるまでずっと手は離して貰えない。いざ離されれば寂しさにその手を追いかけてはギュッと拳を握り自分を抑えてしまうが。  デパ地下で惣菜を買い、当たり前のように中西の自宅へと連れて行かれる。中西の両親は共働きでこの時間は誰もいないのをいいことに、中西の部屋へと連れ込まれる。すぐに出されたローテーブルには昼食にしては多めの量の食事が並んだ。  あまりの多さに愕然とするのは、ステロイドの投与で成長障害を生じている細い身体のせいだ。身長も百六十前半で打ち止めとなった。反して、ニュキニュキと伸びた中西は今何センチあるのか分からないが、それでも見上げなければならないくらいまで伸びきっている。  そんな中西ならこれくらい食べても足りないのかも知れない。 (そういえば最近、一緒にご飯食べてないな)  忙しいとすげなくしてしまったのに、それでも逢えば嬉しそうに笑い、愛おしそうに手を握ってくる忠犬ぶりに思わず顔が綻ぶ。 「いっただきまーす」  元気に挨拶して、すぐにご飯を豪勢にかっ込む。反して悠人はサラダの軽いものから少しずつ胃に入れていかなければ胃もたれを起こしてしまうようになった。そんな違いが二人の体格差を産んでいるのかと思うと少しはちゃんと食べなければという気になる。なんせ未だに骨と皮ばかりなのだ。受験で机に向かってばかりでちっとも運動しなかった不健康さが際立っている。  サラダからご飯へと移行し、少しだけ肉を摘まんでスープでフィニッシュ。それだけでもう辛いくらいにおなかがいっぱいになる。 「えっ、それだけ?」  雀が啄んだような食べ方に驚く中西は、三倍以上食べているのにちっとも満たされた雰囲気はない。 「もういらない、後は任せた」  座っているのが苦しくなるくらい膨れ上がった腹を伸ばすために立ち上がると、机の上に文芸誌が置かれてあった。いつも読んでいる雑誌の最新号で、悠人も昨日ようやく完読したばかりだ。  本を読むのが好きだとは聞いていたが、何度この部屋に来ても本の気配を感じなかった。兄のように壁一面を本で埋め尽くされていれば一目瞭然だが、中西の部屋にあるのは教科書類だけだ。じっくりと本を読んでいる風はなかった。  パラパラと文芸誌をめくる。  新人賞を受賞した作品が掲載されていて、かなり話題になっている。悠人も読んだが、主人公の爽やかな雰囲気に反して凶人とも言うべき愛し方をするギャップが恐怖を掻き立てる内容だった。  物語の登場人物に似ていると言うことで、芽生えた恋心を抱いて相手の心を拘束するという内容だ。どこまでも一途に真っ直ぐに愛しているのに、行間に込められた想いは、重いを通り越して尋常ならぬ恐怖を読み手に与える、新感覚ホラーと言ったところだ。それを恋愛に当てはめ綺麗にまとめているから読みやすくはあったが、道を外せば間違いなく誰かを殺しそうな主人公だった。  読んだ後の余韻があまり快くはなかったが、寝ても覚めても頭から離れない不思議な話だ。こんな男が実在するなら、いつも側にいる『恋人』は騙されているとしか言い様がない。純愛というヴェールを纏ったホラーなのに、酷く説得力があった。  その話をまた読もうとしている自分に苦笑する。  あんなに怖いと思っていたのに、読まずにはいられない。  そして久しぶりの恋人とのデートなのに読書を優先してしまう自分にも苦笑する。サラダの最後の一葉すらしっかりと口に入れ、テーブルの上に乗った容器がすべて空になったのを確認する。それでもまだ足りないと言わんばかりの表情が面白くて雑誌をめくりながら笑ってしまう。  これから大学生だ、今までずっと中西がデート費用を持ってくれたので、これからは自分が出せるようにバイトでもしようかと考えている。  中西が容器を片付けローテーブルをしまってから悠人の側に来た。 「それ、もう読んだ?」  覗き込んで新人賞を取った作品だと分かると酷くそわそわした態度になった。 「昨日読んだ」 「どうだった?」  買ったのに読んでいないのだろうか。嘆息して感想をそのまま告げればピンと尖っていたはずの見えない耳がしょんぼりと垂れ下がり始めた。中西には純愛に映り面白い話だったのか。思ったのとは違う感想でがっかりしていたのだろう。 「悠人はさ……この主人公みたいな男、どう思う」 「……重いな。愛情の一方通行でなかったのが救いだが、一歩間違えたら犯罪者になるし、ヒロインが受け入れなかったらなにをされるか分からない恐怖感があった」 「そんなぁ……」 「……どうしたんだ、拓真」  退院してから名前呼びを強要され続けて、今では名字よりも口に馴染んでいる。 「ラブレターのつもりなのに……」 「これがラブレターだとしたら、随分と感覚がおかしいぞ。……まさかお前これがただの純愛小説だと思って読んでいたのか? どう贔屓目に見たってホラーだろう」  こんなサイコパスな主人公のどこに感情移入できるというのだ。理解不能な恐怖がつきまとって早くヒロインが逃げられるようにと願わずにはいられない。ヒロインが愛という檻の中に閉じ込められているのだと気づかないまま、まんまと主人公の掌中に囚われて一生を終えるのだと思うと恐怖心は一層増す。 「この作者、まだ若いみたいだが随分と精巧なホラーを書く」  感心してれば、中西は今にも泣きそうな顔をしながら抱きついてきた。 「ひどい……俺の精一杯のラブレターをホラーって言うなんて……」 「なに言ってるんだ? ……まさかお前が書いたとかいわないよな……?」 「あっ、やっと分かってくれた? 悠人に宛てたラブレターのつもりだったんだけど……」  悠人はじっくりと中西を見つめた。いつものように大型犬を彷彿とさせる仕草でじゃれついてくる恋人が胸の中に秘めていた想いがこれ程までに恐ろしいなんて考えたこともなかった。 「うそ、だろ……」  だとしたら、あそこに描かれているヒロインは自分と言うことか。

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