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第1話 犬は猫を食べがち
「迷子か? それとも家出か?」
買い物の帰りにちょっと散歩でもしようかと遠回りをしたら、小さな猫が道の端でうずくまっているのに遭遇した。
「子猫……の匂いではないな」
小さい体だから一瞬子猫かと思ったが乳臭い匂いはしない。ということは成猫なのだろう。超大型犬である俺は大抵の犬猫より体が大きい。そのせいか見た目だけでは成犬や成猫を判断しづらいのが難点だ。
(子猫も面倒だが、成猫は成猫で面倒だな)
しかし見つけてしまったものを無視するのは性に合わない。「やれやれ」と己の気性にため息をつくと、いまの気分を現すように尻尾がファサッと揺れた。
「おい、大丈夫か」
「……」
一応共存区域内ではあるものの、このあたりは犬のほうが多い。弱っている猫は格好の標的になる。寝ているだけだとしても起こしてやったほうがいいだろうし、怪我をしているなら病院を紹介してやろうと思い声をかけた。ところが返事がない。
「……」
しばらく様子を見ることにした。ヤンキー座りでうずくまっているというのは、どういう状況なんだろうか。「つむじは中央よりやや左側か」と、どうでもいいことを観察しながら返事を待つ。
どのくらい時間が経っただろうか。俺の気配には気づいているだろうに、一向に反応がない。顔を上げる様子もない。
「まさか、そんなおかしな格好で死んで」
「死んでない。勝手に殺すな」
「生きていたか」
俯いていた猫が顔を上げた。茶色の髪が揺れて……前髪は黒か? 耳はほとんど茶色のようだが、地面の上でしおれている尻尾は白に黒が混じっている。
「三毛猫か?」
「悪いかよ」
うずくまっている割には強気な返事だ。だが立ち上がらないということは、どこか怪我をしているのかもしれない。
「怪我でもしているのか?」
「怪我なんかするか」
「じゃあ、どうして立ち上がらない?」
「……」
今度はだんまりか。もしかして病気なのかもしれない。そう思って手を差し出しかけたところで声が聞こえたような気がした。伸ばした手を止め、ヤンキー座りのままの猫を見下ろす。
「何か言ったか?」
「…………腹が減って、動けない」
なるほど、そっちか。
「飯、食いに来るか?」
見事なほどしょげた両耳に、思わずそう声をかけていた。
(声はかけたものの、さてどうするかな)
先ほどの態度から考えると素直に頷くとは思えない。それでも腹が減ったと弱気なことを口にしたのは追い詰められている証拠だ。そんな状態で放置すれば、今夜にも路地裏の片隅で本格的にのたれ死んでしまうだろう。
そんなことを考えながら茶髪のてっぺんを見る。
(やっぱりな)
返ってこない声に小さなため息が漏れた。
大体、猫たちはプライドが高すぎるのだ。犬には絶対に負けないと、小柄な体でシャアシャア威嚇してくる。こちら側に戦う意思はないからと無視すれば背後から飛びかかる。うるさいぞと吠えれば、今度は少し離れたところから睨みつけてくる有り様だ。犬とは違い、猫は何を考えているのかわからない厄介な生き物だった。
だんまりを続ける猫の様子に「帰るか」と一歩踏み出したとき、ようやくか細い声が聞こえてきた。
「…………動けないんだって」
「そんなに空腹なのか」
呆れ混じりでそう言ったら、茶髪がばさっと揺れてキッと睨みつけてきた。緑色の目は強気だが、それでも立ち上がらないということは本当に動けないのだろう。
(それなのにその目つきとはな)
さすが猫といったところか。
「抱えるが暴れるなよ」
動けないのなら抱えて運ぶしかない。親切心で手を貸すのに引っかかれても困る。そう思い、先に断ってから腹に腕を回して肩に担ぎ上げた。
(想像以上に軽いな)
これでは毛布と大して変わらない。小さいと思っていたが、あまりにも軽い体に少し驚いた。
(行き倒れもいいところだ)
そんな感想を抱きながら、怖がらせないようにとゆっくり歩く。先ほどまでと違い、猫は文句一つ言わず大人しく抱えられていた。ふと、顔の横にある尻や太ももに目が留まった。
(本当に小さいな)
さっき腕に抱えたときの腰の細さも気になったが、これではほとんど子猫のようなものだ。そう思ってしまったせいか、厄介な世話焼き気質がムクムクと頭をもたげる。
「昨夜の残りのカレーならすぐに用意できるが、食べられるか?」
歩きながら問いかけると、先ほどより細い声で「平気だし」と返ってきた。
「ちょうど揚げたてのカツを買ってきたことろだ。カツカレーもできるが?」
返事の代わりに盛大な腹の音が聞こえてくる。こうして超大型犬の俺は、体の小さな三毛猫を拾うことになった。
・ ・
「めーしー! めーしー!」
「わめくな。スプーンでコップを叩くな」
「めーしー!」
何度注意してもスプーンで食器を叩くのをやめない。今日もカチャンカチャンという音をBGMに食事の準備をすることになった。ため息をつきつつ冷凍してあったカレーを取り出し、それを鍋で温めてから炊きたての白米を皿によそう。
「めーしー!」
「静かにしろ」
「はーやーくー!」
ため息をつきながら白米にレーズンを散らした。茹でてあったブロッコリーやミニトマトを載せ、その上にたっぷりのカレーをかける。ほろほろのチキンに色鮮やかな野菜が食欲をそそる見た目だ。
「ほら、できたぞ」
「ぅお! カレーだ! おれ、カレー大好き!」
「こら、がっつくな。ちゃんと冷ましてから食べろ」
「っちぃ!」
だからがっつくなと注意したんだ。まったく、自分が猫舌だということを忘れるなんてどんな猫だ。
(わかっていて熱々のカレーを出す俺も俺だがな)
しかしカレーは熱いほうがうまい。炊きたての白米に熱々のルーこそがカレーの醍醐味だと思っているくらいだ。
向かいの席で耳をピクピクさせながら、必死にふぅふぅしているニャン太を見る。まだ熱いだろうに我慢できないのか、大きな口を開けてスプーンを突っ込んだ。そうしてすぐにはふはふする。よく見ると尻尾も左右にブンブン揺れていた。
(少しは落ち着いたらどうなんだ)
猫全般がそうなのかはわからないが、ニャン太はいつも忙しない。食事では猫舌なのを忘れていまのような状態になるし、風呂に入れば毎回のように泡だのシャワーだのに大騒ぎする。窓の外を犬が通ればバタバタと窓辺に走り寄り、相手が猫でもぶわっと尻尾の毛を逆立て威嚇することもあった。
そうかと思えばテレビをじっと見て、気がつけば窓を開けて空を眺めている。毎日平穏に暮らしていた生活はニャン太を拾ってすぐに崩壊した。
(それでも出て行けと言わない俺も俺だが)
おそらくニャン太は行くところがない。ニャン太というのも俺が付けた名だ。
拾ってからひと月以上が経つが、ニャン太は相変わらず自分の家のような顔をして居座っている。俺のほうも行き場のない猫を放り出すほど情が薄い犬じゃない。「ま、気楽な一人暮らしだからかまわないが」なんてことを思いながら、自分の分のカレーをぺろりと平らげた。
「なんだ?」
視線を感じて顔を上げれば、ニャン太がじーっとこちらを見ていた。緑色の目が空っぽになった皿を見て、それからまた俺を見る。
「言いたいことがあるなら言ったらどうだ」
「……山盛りのあっついカレー、よくそんな早食いできるよな」
なんだ、そんなことか。
「俺は猫舌じゃなからな。それにおまえより体が大きいし、口も大きいから早く食べ終わる」
「……マジで無駄にあちこちでかいよな」
「なんだ、うらやましいのか?」
「誰が」
そう言ってスプーンに山盛りのカレーを口に入れた。ようやく食べられるくらいに冷めたのか、勢いよくパクパクと食べ進めている。
(まったく、強気なのは相変わらずだな)
それとも三毛猫という種類がそうなんだろうか。
(そういえば三毛猫の雄は珍しいんだったか)
非常に数が少ないと聞いたことがある。そんな猫が俺のような超大型犬と一緒に暮らしているなんて、世の中妙なこともあるものだ。
「ついてるぞ」
口の端についているカレーを親指で拭い、ペロッと舐め取った。するとニャン太がギョッとしたような表情を浮かべた。
「なんだ?」
「な、なんでもねぇよ」
「それにしても食べるのが下手だな」
口どころかTシャツの胸のところに小さな染みまでできている。「カレーは落とすのが面倒なんだが」と思いつつ、いま着ているTシャツはカレー専用にするかと思い直した。
「食べ終わったら風呂に入れ」
「……昨日入った」
「毎日入れ」
「猫は毎日は入らな」
「入れ」
猫だろうが何だろうがここは俺の家だ。俺は風呂が好きだし毎日入らないと気が済まない。当然、側にいる猫にも同じことをしてもらう。
「入るんだ」
そう言えば、渋々といった感じで風呂場へと向かった。
(さて、いまのうちに片付けておくか)
つけ置きしていた鍋と食器を手早く洗う。残った白米のほうはおにぎりにして、明日の朝は梅味噌をつけた焼きおにぎりにでもしよう。ついでに居間をざっと片付けてから寝室も簡単に片付けた。
脱ぎっぱなしになっているニャン太の服を拾い脱衣所に入ったところで、ちょうどニャン太が風呂から出てきた。俺がいたことに驚いたのか、ドアノブを握ったままぴたりと動きを止めている。
「上がったらさっさと拭け。風邪をひくだろう」
「わ、わかってるし」
「おい、尻尾を拭いてから服を着ろ。それじゃあ下着もズボンも濡れるだろうが」
「……っ」
ハンドタオルを手に取り、ズボンの尻尾穴から出ている尻尾を拭うと、途端にボボッと毛が逆立つのがわかった。そういえば猫は尻尾を触られるのが苦手だったなということを思い出す。
「耳は自分で拭えるな?」
そう言いながら覗き込んだ顔は、いつもより真っ赤になっていた。
「ニャン太?」
「勝手に尻尾とか触ってんじゃねぇよ」
「悪かったな」
「自分でちゃんと拭けるし」
「つぎからはしないようにしよう」
「……別に、してもいいけど」
ボソボソと喋るニャン太に笑いたくなった。
(こんなふうに笑いたくなることなんて、以前はほとんどなかった)
一人暮らしが長いせいか、丸一日誰とも話さないことなんて日常茶飯事だ。当然笑うこともあまりない。それがニャン太を拾ってからというもの、こうして笑いたくなることが明らかに増えていた。
「それなら耳も拭っておくか」
ハンドタオルで右耳を覆い、先端からゆっくりと押さえるように拭っていく。髪の毛に触れるところまで拭ったらつぎは耳の内側だ。タオルで拭いつつも人差し指をほんの少し伸ばし、指の腹で熱い耳の内側をそっと撫でた。
「っ」
肩が震えていることには気づいている。尻尾もピンと立っているし毛も逆立ったままだ。それらに気づかない振りをしながら、ゆっくりと耳の内側を撫でるように拭った――半分はタオルで、半分は俺自身の指で。
(おもしろいくらい震えてるな)
顔を真っ赤にしながら震える姿に喉の奥で笑ってしまった。こういうのを嗜虐心を煽られるというんだろう。
しかも上半身は首からタオルをかけただけという無防備さだ。首まで赤くしているのも、タオルの隙間からツンと尖った乳首もよく見える。
カプッ。
腰を屈め、震える耳の先端を甘噛みした。途端に「ひゃっ」と悲鳴のような声が聞こえてくる。
「な、何して」
カプッ。
今度は真っ赤になった頬を甘噛みしてみた。思ったよりもモチモチした弾力に、またもや喉の奥で笑ってしまいそうになる。
「な、なに、」
「あぁ、知らないのか? 犬は猫を食べたくなることがあるんだ」
「は!?」
ニャン太の尻尾がブルッと震えたのが見えた。両手で自分の体を抱きしめているのがおかしくて、今度こそ笑い声が出た。
「あぁ、猫を食べたくなるんじゃなくて“かわいいと食べたくなる”の間違いだ」
耳まで震わせているニャン太に「さっさとパジャマ着ろよ」と言ってからTシャツを脱いだ。それにギョッとしているニャン太を横目で見ながら「何だ、もう一度風呂に入るのか?」と尋ねる。
「は、入らねぇし!」
「俺が出るまでに歯を磨いてベッドに入っておけよ」
「こ、子どもじゃねぇし!」
「言わないと夜更かしするだろうが」
「猫だからいいんだよ!」
「言い訳が子どもだな」
何も言い返せずプルプルしているニャン太の姿がおもしろくて、また笑ってしまった。
(本当によく笑うようになった)
家族と住んでいたときも友人らと過ごすときも、ここまで楽しいと思ったことはない。少し浮かれ気味な自分に思わず苦笑しながら浴室に入り手際よく体を洗う。
(しかし、俺を怖がらない猫がいるなんてな)
同じ犬にさえ怖がられることがあるというのに肝が据わった猫だ。その印象は初めて会ったときから変わっていない。
(さて、さっさと風呂を済ませるか)
そうしないとニャン太がまた夜更かししかねない。ただ起きているだけならかまわないが、テレビを見ながらお菓子を食い散らかされると朝の爽やかな時間が台無しになってしまう。
(それに湯たんぽみたいな体はいい安眠剤になる)
さっと風呂まで洗ってから出ると、言うことを聞いたのか居間にニャン太の姿はなかった。
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