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第2話 諦められない
このあと、メイリールはなんで、とか、どうして、とか、ほとんど意味もなさないような言葉を口にしたような気はするが、記憶はおぼろげだ。ただルーヴストリヒトがひどく遠くに感じられたことだけが、なぜか鮮明に焼き付いている。メイリールが何を言っても、ルーヴストリヒトは、メイリールにはきっと俺より、もっとずっと大切な人が現れる、その時が来たら分かるんだよ、と繰り返すだけだった。言われたことに頭が追いつかなくて、ただとっても悲しくてつらいことを言われたことだけは分かって、メイリールは大きな月色の瞳から、壊れてしまったように涙を流した。
それからいく日もの間、メイリールは体調が悪いと言って部屋に閉じこもり、誰も寄せ付けなかった。身体中の水分が干上がるかと思うほど泣いて、泣いて、泣き疲れては眠り、目が覚めてはまた涙を流した。時々、思い出したように部屋の扉の外にそっと置かれていた食事に手をつけたが、何を口に入れても涙の味しかしなかった。いつもは片時もそばを離れない守護烏のルークも、主の張り裂けんばかりの悲しみを前にしてどうすることもできず、部屋の片隅にうずくまって目を瞑っていた。
次にメイリールが人前に姿を現したとき、もはやそこに以前のメイリールの面影はほとんどなかった。派手なメイクに、身体の線も露わな服。目にはどこか凄みのある挑発的な笑みをたたえ、有無を言わさぬ威圧のオーラを誰彼構わず放った。その変わりように、以前わずかに付き合いのあった魔族たちは皆、揃って疎遠になった。たった一人、旧友のヴィンスだけが、人が変わったように荒んだ生活をし始めたメイリールに対して、以前と変わらぬ態度で接した。
社交界に出ることもせず、夜な夜な繁華街に繰り出しては頻繁に恋人をとっかえひっかえするメイリールを、家族は半ば呆れ、半ば黙認する形で許していた。自由な生き方をしていたのはメイリールに始まったことではなかったし、そもそも十二人も兄弟がいれば、全員に目が届くわけもない。魔界の法に触れることさえしなければ、基本は放任するのが家の方針だった。
そんなわけで、誰もメイリールに干渉するものはいなかった。ただひとり、ルーヴストリヒトその人を除いては。メイリールの変貌ぶりに、ルーヴストリヒトは心を痛めている様子で、会うたびにメイリールの行動をたしなめた。
「じゃあ、ルーヴが俺の相手をしてよ。そしたら、俺、もうどこにも行かないよ」
まるで保護者のように小言を言うルーヴストリヒトに、メイリールは決まってこう言った。そうすれば、ルーヴストリヒトが黙ることを、メイリールは分かっていた。だが、ルーヴストリヒトが黙り込んでしまうことが、メイリールの心のどこかに、もう忘れたはずの痛みを鈍く引き起こした。
メイリールの元に、耳を疑うような噂が入ってきたのは、そんなある日のことだった。
「あの難攻不落と言われたルシファーの息子が、天使に入れ込んでいるらしい」と。
ルシファーの息子と一口に言っても、 その人数だけで三十人を超える。ルーヴストリヒトのことだとは限らなかった。それにまず、魔界の王の息子たる地位にある高位も高位の魔族が、天使と恋仲だなんて、そんな常軌を逸した話をいきなり信じろというのが無理な話だ。だが、メイリールは、それが根も葉もない噂であると切り捨てることもできなかった。もしそれがルーヴストリヒトならば、あの変わり者に限っては、あり得ないと言い切れない。
どうしても、この目で確かめたい。噂に振り回されるには、あまりに耐え難い話題だった。もし、もし本当にその話が真実だったなら、自分はどうなってしまうだろうか。考えたくもなかった。けれど、はっきりさせないままにしておくこともまた耐え難く、メイリールは行動に出ることにした。
メイリールが真っ先に思いついたのは、ルーヴストリヒトに会って直接確かめることだった。だが、正攻法で問い詰めて、すんなり答えてくれるとも思えない。それならば、言い逃れできないような証拠を押さえるしかない。ルーヴストリヒトが本当に天使と逢引きをしているのか、もしそうなら、どこで、どうやってそれが可能なのか、後をつけて確かめる。メイリールは、それが自分の首を締めることになるかもしれないと予感しながらも、そうするしかないのだと自分に言い聞かせた。
メイリールは己の探知能力を全開にして、ルーヴストリヒトの気配を探った。ノイズをかいくぐり、感覚を研ぎ澄ませる。そして微かに、しかし確かにルーヴストリヒトの魔力を感じとった。どうやら、気配を消して行動していたようだった。その時点で、怪しさが一気に増す。だが、他の魔族の目は誤魔化せても、同じ一族の血が流れるメイリールの探知を逃れることはできない。メイリールは、自身も気付かれぬよう気配を消し、ルーヴストリヒトの向かった方角を目指して動きだした。
天使なんて、メイリールにとっては学校の退屈な授業で学んだだけの、ほとんど歴史上の存在だ。天界にかつて君臨していた、神に最も近しい位の大天使のひとりが、堕天して、魔族の祖たるルシファーとなったと、そうメイリールは教わった。そういう意味では、天使は魔族にとって分かちがたい半身であると同時に、血で血を洗う戦いとなった魔界と天界の大戦で、同胞を数多く失うことになった元凶、憎しみの対象でもある。そんな存在と、もしかしたらルーヴストリヒトが、想いを交わしているかもしれない。そのことが何を意味するのかわからないほど、メイリールも子供ではなかった。もし事実なら、魔界の一大事である。ルーヴストリヒトの気配を見失わないように気を配りながらも、メイリールは手のひらにじっとりと汗をかくのを感じた。
ルーヴストリヒトが一体どこへ向かっているのか、はじめのうちメイリールには見当もつかなかった。だが、次第にその行先が魔界の境界へと向かっていることに気づいたメイリールは、思わずぶるりと身を震わせた。それでも、メイリールの頭の中に、尾行をやめて引き返すという選択肢はなかった。
境界を抜けるのは、初めてだった。なんとも言えない、ゾワっとした違和感を一瞬肌に覚えたが、それだけであとは拍子抜けするくらい呆気なく、気づいたら空気が変わっていた。
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