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第6話 男の名
邪魔はするなという男の言いつけを殊勝らしく守り、メイリールは男の後をついて歩く。しばらく歩くと、やがて行く手にキラッと光る水面が見えてきた。近づくと、それは小さな泉だと分かった。新鮮な水がこんこんと湧いている。水が沸いているところなど直接目にするのは初めてだったメイリールはその様子が物珍しくて、泉のほとりに膝をつくと両手で水をすくい、口に含んでみた。
——甘い……
成人した魔族の飲むものといえば、基本は酒。応用も酒。成人前の成長期でも、アルコールを飛ばした葡萄酒などが主で、あえて水を選んで飲むのは余程の変わり者か、病気になった時くらいのものだった。そんな、特段美味しいものという認識もなかった水だが、不思議とこの湧水は甘く美味に感じられて、メイリールは手にすくった分を綺麗に飲み切ってしまった。
手に残った水分を舐めとっていると、ふと顔に男の視線を感じた気がした。思わず顔を上げた先では、男がちょうど身に纏った布を脱ぎ捨てようとしている。メイリールは慌てて目を逸らした。心臓がうるさく音を立てて、伏せた顔が熱い。
それはほんの一瞬で、時間にすれば一秒あったかないかだ。なのに、メイリールの頭の中には、今しがた見てしまった男の身体が、まるで焼き付いたかのように離れなかった。一言で言うなら、理想的な体躯。がっしりとした骨格に均整のとれた筋肉が美しく、それでいて見た目の美しさのためだけに造られた身体ではないことが、そこかしこに残る傷跡から見てとれる。早まる鼓動を誤魔化すように、メイリールは頭を振って立ち上がった。
のそのそと服を脱ぐメイリールの後ろでは、男が水を浴びるざぶざぶという音が聞こえる。ルークも肩から飛び降りて、水際でバサバサと水飛沫をあげている。男の視線を感じたのはあの一瞬だけで、もうこちらを見ている気配はない。ホッとするような、それでいてなぜか少しの寂しさも感じて、メイリールは振り回される自分に苛立った。男に背を向けたまま、泉の端でメイリールも水を浴びた。夏の早朝に浴びる冷たい水は思いの外心地よくて、メイリールはしばし時間を忘れて身体を洗った。
ようやく気が済んで泉からあがると、メイリールは困ったことに気がついた。濡れた身体を拭くものを持ってきていなかったのだ。
——しまった、さっきは、あいつに置いていかれないようにって、慌ててて、忘れてた……
このまま着替えを着てしまうしかないか、いやでも、と逡巡しているメイリールの前に、ぬっと男の手が伸びてきた。
「ぎゃっ!」
およそ可愛らしくもない悲鳴をあげて、メイリールが飛び退く。
「こっち見んな!」
咄嗟に拾い上げた着替えで身体を隠し、メイリールはギッと男を睨みつけた。
「誰がお前の身体なんか見るか。それより、拭くものがないんだろう」
そっけなく言うと、男はメイリールの目の前に布を放って、また背を向けた。メイリールは恥ずかしいやら腹立たしいやらだったが、布はありがたく拝借した。
「……これ。あり、がと」
着替えを済ませて、ぶっきらぼうに布を差し出すメイリールの頭を、くしゃっと男が撫でる。
——また、ガキ扱い……!
みるみる不機嫌になるメイリールには構わず、男は淡々と肩から下げたカバンにメイリールから受け取った布を無造作に突っ込むと、歩き出した。慌ててメイリールも後を追う。
どこに向かっているのか聞こうにも、この森の中のことをメイリールはほとんど知らない。何度も木の根に足を取られそうになりながら、男の背中を見失わないように懸命に歩いた。翼を出そうかと何回も迷ったが、無駄に魔力を消費したくなかったから、やめておいた。
やがて、男が立ち止まり、メイリールに静かにしているようにと合図を送って、何かを狙うように姿勢を低くする。視界の端で何かが動くのと、男が手にした何かをそちらへ向かって投げたのがほぼ同時だった。ギャッ、という悲鳴が上がった方向を見ると、ひと抱えはありそうな獣が横向きに倒れている。首元に、男が投げたと思しき短剣が刺さっていた。男は獣に近づくと、手際よくとどめをさしたあと、動かなくなった獲物を脇に抱え、メイリールの方へ戻ってきた。
「お前も、こういった肉は食えるのか」
その後も小さな獣を数匹追加で仕留めて洞窟へと戻ると、慣れた手つきで解体しながら男が聞いてきた。人間界に棲む生き物を食べたことがないメイリールは、答えに詰まる。
「わか……んない」
「まあ、物は試しだ。食ってみればいい」
そう言うと、男は火を起こし、切り分けた肉に何か調味料らしきものをふりかけると、次々と木の枝に刺して炙っていく。やがて、香ばしい匂いが洞窟の中に充満した。それにたまらずメイリールの腹が空腹を訴える。
「熱いぞ」
男が差し出した肉を、枝ごと受け取ってメイリールはかぶりついた。口の中に、肉の脂と旨味が広がる。
「……うまい」
摂取できる魔力の量こそ魔界の食物に比べれば劣るが、それでも今のメイリールには十分なご馳走だった。次々とおかわりを要求し、焼いた分は二人であっという間に平らげた。男はさっさと火を片付けると、獣の残骸の処理に取り掛かった。メイリールもなんとなくそばへ寄って、男のすることを眺める。
「こいつは皮が売り物になる。ある程度たまったら、街へ売りに行く」
「街へ……?」
「そうだ」
淡々と手を動かしながら話す男に、そういえばまだ名前も、どこから来たのかも、この男のことを何も自分は知らない、ということにメイリールは今更のように気付いた。
「お前、名前は?」
「……俺の魂を食う気か?」
冗談を言っているのか、表情の乏しい男の顔からは分かりにくい。はぐらかされたような気がして、メイリールは少しムッとした。男は黙り込んだメイリールをちらっと見ると、付け加えた。
「俺の生まれ育った地方には、悪魔に名前を聞かれたら答えてはいけない、魂を食われるから、という言い伝えがあってな」
「なにそれ?」
そんな話、聞いたこともない。人間とはまあよくそんな迷信を思いつくものだ、とメイリールは感心した。
「違うのか?」
「確かに俺は魔族だけど、そんなことできないし、する理由もない」
憮然として答えるメイリールに、男が少しだけ笑ったように見えた。
「本当だな?」
初めて男がわずかに見せた笑顔に、メイリールの心臓がまた、どきりと音を立てる。なんとも形容のしがたい感覚が、メイリールの身体を駆け抜けた。食う、食われる、という直接的な表現が、なぜかすごく官能的に聞こえて、動悸がおさまらない。男は少しの間、意地の悪い顔をしてメイリールを見ていたが、口を開いた。
「……ディートハルト」
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