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第3章 後編
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―――ははっははっははっはっはっはっはhっはっはhっはっはっはっはhhっは。
誰が笑っているのか。嗤っているのは、
誰なのか。
誰ならこの状況を最も、
嗤えるのだろうか。
―――いたのは、
ただの女。僕の興味の外。
(『エバルシユホフ』より)
****
ノリウキが眼を開けないまま、一週間が経った。
見舞いに行くのも世話をするのも全然苦にならないけど、一つだけ、我慢ならないことがある。
平勢井穣生 。
ノリウキの幼馴染だか何だか知らないけど、後から出てきて最重要関係者みたいな顔をしないでほしい。
それにノリウキを騙して連れ去ったうえに、眼の前で飛び降りを許すだなんて。
こんな奴と一緒にいたら次は無事では済まない。
今度こそ、ノリウキは俺が守るんだ。
「機嫌が悪そうね」セイルーにもからかわれるし。
「悪そうじゃなくて悪いんだよ」
「そんなに気に入らないなら殺しちゃえばいいのよ」
壁伝いにぐるりと取り囲む、巨大水槽内の生き物がぼちゃんと音を立てて跳ねた。
床に水の塊が飛び散る。
「あの子は気が小さいのよ」セイルーが掃除用具入れを指差す。「ちょっとした殺意に反応するの。ほら、拭いて」
「俺がやるの?」
「他に誰がいるの?」
いいように使われている気がする。
「いいように使ってあげてるのよ」セイルーが得意そうに言う。「チューザの思い通りになんかさせない」
チューザというのは、ヨシツネさんの妹。
セイルーは、ヨシツネさんの妹の従姉なので、ヨシツネさんの従姉か従妹ってことになる。
血のことはいまはどうでもいい。
いつになったらノリウキと話せるんだろう。
ノリウキのお父さんもお母さんも心配してる。ノリウキの兄貴はしばらく仕事を休んで付きっきり。
ノリウキが眼を覚ましたとき、それがノリウキじゃなかった場合。
ヨシツネさんが蘇らせたとかゆうキサガタって人だったら。
でもノリウキだったら自殺を選んじゃうのか。だからキサガタって人がノリウキの代わりをするってゆったんだっけ。
いろんなことがありすぎて。
疲れちゃったな。
「嘘? チューザが?」セイルーが電話しながら叫んでいる。「わかった。行くわ」
「どうしたの?」
「チューザが」
後継者を殺した。
「後継者って」
まさか。
「ムダくんの息子のことじゃないわ。ああ、いいえ、そいつもムダくんの息子には違いないか」
「ムダくん?」
「こっちの話よ。もう死んでるから」セイルーが深く息を吐いた。「それより、行かないと。付いてきなさい」
辺鄙な山間にある古い洋館。
通称、家具屋敷というらしい。
なんで家具屋敷というのか、聞こうと思ったけどその必要はなくなった。
家具がすべて、ニンゲンでできている。そうゆう趣味の悪い屋敷だった。
エントランスホールの大階段を上がった先の部屋。
甘ったるいような、それでいて渋みがある妙なにおいが漂う。セイルーが平気な顔をしているので、慣れていると感じないのだろうか。他人の家のにおいみたいに。
テーブルも椅子も本棚も照明も、全部、ニンゲン。
気持ちが悪いなんてもんじゃない。
出来るだけ周囲に焦点を合わせないように。
「座ったら?」セイルーは相変わらずなんてことないみたいな顔で。「わたしのお付きをしたいならいいけど」
だって座るったって。
それは椅子じゃないし。
そんな問答をしているうちに、ヨシツネさんの妹と、ヨシツネさんと、クオロと、白い髪の男がやってきた。ヨシツネさんは俺を見つけて複雑な表情を浮かべた。
「ノリウキならまだ意識戻ってないよ」
「そか」ヨシツネさんの表情が更に曇る。
「私語は屋敷を出てからになさいな」セイルーが俺に肘鉄をくれる。「チューザ、何人殺せば気が済むの?」
「わたくしは朱咲 でしてよ?」ヨシツネさんの妹が言う。「あなたこそ、私語は慎んではいかが?」
「本題でしょ? あんたの吊るし上げだってわかってるんだから」
不意に強烈な、眩暈がする。
においだ。
柔らかそうな長い髪の女が立っていた。その傍らに気の強そうな女。
「座りなさい」気の強そうな女が声を張り上げる。
「ウチがゆうてへんことを言わんといてな?」髪の長い女が言う。眠くなりそうなくらいゆっくりした口調だった。「廊下に見たことない空気があったさかいに。ちょお、見てきてくれへん?」
「最初から席を外せと仰れば従いますけど?」気の強そうな女はそう言い残してドアの向こうに消えた。
「気ィの強いんが長所やさかいに。堪忍な?」長い髪の女が言う。ゆっくりと椅子に腰掛けた。
ぎいと鳴ったその音は。
椅子が軋んだ音じゃなくて、椅子になってるニンゲンの奇声。
「よお来てくれはったなぁ。ウチのかあいらし子、全員いはる? 出席取ろか?」
「おば様、ご機嫌麗しゅうございます」セイルーがわざわざ立ってお辞儀した。
「はじめまして」肘鉄が飛んでくる前に俺も真似した。「えっと、僕は」
て、ちょっと待って。いま。
「外出用の脚よ」セイルーが小声で呟いて、義足をぶらんと動かす。
脚があるんなら。
「俺要らなくない?」
「失礼します。紅茶をお持ちしました」気の強そうな女が荒々しくドアを開けて、ティーカップを4つテーブルに置いてから出て行った。
おば様とやら。セイルー。ヨシツネさん。ヨシツネさんの妹。
これで4つ。
「なに?飲みたいならあげるけど?」セイルーが俺の前にカップをずらした。
別に欲しくてカップを見てたわけじゃない。
数が少ない。ここにいるのは、ああそうか。
頭数としてカウントされていないということか。
クオロ。白い髪の男。それと俺。
そういえば、白い髪の男がいない。
「毒は入ってないと思うけど、美味しくもないわよ」セイルーがどうでもよさそうに言って身を乗り出す。「そんなことよりおば様、お母様からも申し遣わされていますのよ。チューザが好き勝手していますことに対して」
「せやからね」おば様とやらが言う。「ウチがゆうてへんことを言わんといてな? 久しぶりやさかいに。熱が入ってはるんもわかるんやけど」
「出過ぎた真似をしました。ごめんなさい」セイルーが頭を下げる。
「ルーは素直なとこが長所やなぁ」おば様とやらが紅茶を一口すする。
ヨシツネさんは、紅茶のにおいを嗅いで顔をしかめた。
「ねえ、チューザ? あんたからおば様にお詫びすることがあるでしょう?」セイルーが鋭い眼で睨みつける。
ヨシツネさんの妹は、全然動じていない。
正面のセイルーに一瞥くれてから口を開く。
「ですから、わたくしはチューザではなくてよ。もう、何千回お伝えしたらわかっていただけるのかしら」
壁かけの古びた時計の針が動く。
針は文字盤の裏側にいるニンゲンが動かしている。
「何千回でも何万回でもわからないわ」セイルーの声が上擦る。「あんたがおば様とムダ君の子どもを殺して、ゲングウに産ませたムダ君の子を匿ってるの、知ってるんだから」
「知っているからどうするというの? わたくしの子も殺すのかしら?」
おば様とやらが手を叩く。ぱん、という音が壁に反響する。
「ほんまに、スーとルーは仲良しやなぁ」
「何事かございましたか?」ドアが開いて気の強そうな女が部屋中をぐるりと見渡す。
「呼んでへんねんけどなあ」おば様とやらがうんざりしたように首を傾ける。「ああ、せやった。羊羹。紫芋のな。食べたいさかいに。買うてきてくれへん?」
「かしこまりました。では、一旦失礼します」気の強そうな女が深々とお辞儀をして退室する。
「悪気はあらへんのやろけど、親族会議にアレは要らんわ」おば様とやらの声音が低くなった。「スーザ、ウチを殺しにきたんやろ?」
「ええ。でも死んでいただけないのでしょう?」
セイルーが何か言いたげにするが呑み込んだ。
ヨシツネさんは誰とも眼を合わさずに宙空を見ている。
「ウチだけ殺しても意味あらへんさかいにな」おば様とやらが吐き捨てるように言う。
「ええ。ですから、全員殺すことにしましたの」ヨシツネさんの妹の口の端が釣り上がる。「お母様はとっくに殺しましたから、次は、ベイ=ジンと呼ばれる外向けのお顔。あなたが死ねば、お母様のもう片割れが出てきますから。そうしたらあとは、お兄様と一緒に実家に帰るだけですわ」
一瞬。
瞬きした間に。
おば様とやらの真後ろに。
白い。
「ロー」おば様とやらが微動だにせずに言う。「なんのつもりやろか」
白い髪の男が、おば様とやらの白い首筋に。
鋭い刃物を当てている。
「あんたはウチのもんと違うん?」
「俺から言うことはなんもないよ」白い髪の男が言う。目線はヨシツネさんの妹に。「朱咲ちゃんよ。いつでもやれっけど?」
「お兄様。お召物を汚したくなければ、あちらのほうまで下がってくださいな?」
「なあ、朱咲」ヨシツネさんがやっとそれだけ言う。
「スーザ」おば様とやらも言う。溜息も聞こえた。
「さあさ、お兄様。眼に毒ですわ。お立ちになって」ヨシツネさんの妹が無理矢理ヨシツネさんを壁際に追いやる。「ビャクロー」
「あいよ」という返事が早いか。
黒が。
飛び散って。
遅れて。
生きていたモノが。
床に。
音が。
しなくなった。
咄嗟に聴力を遮断したけど。
視覚をどうにかするのを忘れてて。
黒の残像が焼きついて消えない。
「ねえ、ちょっと大丈夫?」セイルーが俺の顔の前で手をひらひらさせる。「見えてる?」
さっきの部屋とは違う。
クラクラと眩暈のにおいはするけど。
さっきとは違う時計が壁にかかっていた。
「見てよこれ」セイルーがスカートの裾をつまんで持ち上げる。「べったりよ。もう、台無し」
「着替えるなら出てるけど」
「それだけ気が遣えるなら大丈夫そうね。ええ、そうしてちょうだい。て言いたいところだけど」
「手伝えって?」
「着替えがないのよ」
「俺もないけど?」
セイルーが真っ黒てことは。
俺も真っ黒だった。鏡なんか見なくてもわかる。
ひどいにおい。
「ここ、おば様の別荘なの」
「探せって?」
「衣裳部屋があるはずなの」
「買ってきた方が早くない? それか帰るとか」
「帰るにしても裸じゃ帰れないわ」
「だから、帰ったら着替えれば?」
「おば様の血なんか付けて帰ったらどうなるかわかってるの?」
「どうなるのさ」
「わたしは餌になんかなりたくないの。お願い。早く」
ねえ、なんで。
「服探してきて」
「一人っきりになって大丈夫?」
「問題ないわ」
なんで。
「目撃者まで消したら、誰がお母様に報告するのよ」
「利用価値があるわけ? わかった」
役に立つかわからないけど、内側から鍵をかけてもらった。
さて。
この広い家具屋敷のどこに着替えがあるのかってことだけど。
「顔くらい洗うたったら?」ヨシツネさんの声が降ってきた。上階の手すりに頬杖をついている。「部屋にタオルあったやろ?」
無視するにしても眼が合っちゃったし。
「どのツラで話しとるんかゆうてな」ヨシツネさんが自嘲する。「俺は謝らへんさかいにな」
「別に謝ってほしいわけじゃないし」
「そか」
意味ない会話。
「着替えどこにあるか知ってる?」
「着替え?」ヨシツネさんが俺を見てああ、と声を上げる。「確かにそのほうがよさそやな」
「知らない?」
「ここ来るん二回目なん。聞いてみよか?」ヨシツネさんが自分の後ろを指さす。「ああ、あかん。取り込み中やったわ」
「取り込み中? なにそれ」
「さあな。なんやろ」ヨシツネさんが他人事のように肩を竦める。
「別に一人で探すし」
「もうノト君に会わへんさかいに」
だから。
「それがなに? 謝らないんじゃないの?」
もうとっくにイライラは通り越してる。
腹立たしいし、憎らしいし、煮え繰り返りそう。
誰が。
「ノリウキが眼覚まさなかったら」
殺してやりたい。
平勢井穣生なんかどうだっていい。
そうだ、そもそも誰のせいでこんなことになったのか。
「ノト君はお前のもんと違うやろ?」
「ヨシツネさんのものでもないじゃん。俺はノリウキの親友だけど」
睨んでいた視線をヨシツネさんはゆらりとかわす。
ノリウキを殺したのは。
ノリウキをあんな眼に遭わせたのは。
「まだ眼ェ覚ましてへんのやね」
「誰かさんが殺したせいでね」
「俺は」
「殺してないって? いい加減認めなよ」
ヨシツネさんが立ち去ろうとするので呼び止める。
しぶしぶ足が止まった。背中を向けたまま。
「グンケイ君は? もしかして、ノリウキと同じ眼に」
「門番や門番。外にいてるさかいに」
「仲間外しってこと?」
「俺に権限なんあらへんよ」
「妹?」
「もうええか。着替え探さはるんやろ?」
「ホントに知らない? 嘘吐いてるんじゃなくて?」
「まあ、俺の信用はあらへんやろね」
今度は呼び止まらなかった。嘘吐いてても本当のこと言っててもどっちにしろ。
着替えの場所はわからない。
適当に探すにしても。
屋敷の家具が気持ち悪すぎる。
ヨシツネさんが頬杖ついてた手すりだって、眼の前に見える大きな階段だって。
いま大きな音で鳴った時計だって。
ぜんぶ。
ニンゲンなんだから。
早く帰りたいけど、着替えがないとセイルーは動いてくれなさそうだし。
あ、そうか。いいこと思いついた。
グンケイ君が門番で外にいるんなら。
そうと決まれば。
なにか。
変な感触のモノを踏んだ。
なんだろうと。
視線を下ろしたら。
黒い絨毯の中央に、何かが転がっている。
ちがう。
絨毯はもっと明るい赤だ。周囲と色が違ってて。
そこに。
転がっているモノは。
外に通じる扉の前に、ニンゲンが落ちていた。
家具?
嗅ぐ?
までもない。
家具じゃなくてさっきまで生きて動いていた。
それは。
「ビャクローだ」扉が開いて、グンケイ君が顔を出した。「俺じゃない」
「別に疑ってないよ」
「ならいい」と言うと、扉は無遠慮に閉まった。
さっきまでおば様とやらと一緒にいた気の強そうな女。
死んでる。
殺された。
なんで?
芋羊羹にかこつけて洋館を追い出されただけなのに。
なんで?
なんでみんなそんな簡単に殺すんだろう。
俺がおかしいのかな。
そんなわけない。
俺以外がみんなおかしいだけ。
「着替えをご所望ですかしら」
ヨシツネさんの妹の声がして振り返る。
視線を合わせようと思った視界に、何かが飛び込んで来て顔に命中する。
タオルだった。
しかもご丁寧に湿らせてある。
「まずはお顔をきれいにしたほうがよろしくてよ。セイルーなど全裸でもなんら問題はないですけれど、お兄様のお友だちに窮屈な思いをさせてはわたくしの信用に関わりますもの」
「そもそも誰のせいでこんなことになってるのかってところを気にしてもらいたいけど」
「あら、わたくしのせいだと仰りたいの?」
責任の所在を明らかにしたって意味ない。
この女は、そうゆうのを飛び越えた領域に鎮座している。
「あなたは、お兄様を傷つけたいのかしら? それとも傷ついているお兄様を見て嗤いたいのかしら?」
「何が言いたいの?」
「セイルーに付いていたらいずれ獣と掛け合わされるのが落ちですのよ。そんな取り返しのつかないことになる前に、どうかしら? わたくしに付いては」
「誘ってるの?」
「ええ、セイルーと心中するつもりもないのでしょう?」
それは。
そうだけど。
「わたくしが、お兄様のお仲間だと思っていますの?」
「仲間じゃないの?」
「逆ですわ」妹は妖しく微笑む。「お兄様が、わたくしのお仲間なのです。お兄様側に意志などありませんの。わたくしに従うという、盲目的なご意志以外は」
「ヨシツネさんの弱みを握っていいなりにしてるだけじゃないの?」
「ええ、そうですわ」妹はちょっと面食らったようだった。「よくおわかりですのね。ですから、お兄様のお友だちであるあなたも、わたくしの手の中に入れておきたいの」
「そうやってヨシツネさんを苦しめたいの?」
「ずっと独り占めしてきたおもちゃをお兄様に奪われて挙句返ってきたら修復不可能なくらい壊れていて。さぞ怨みつらみも積もっておいででしょう? ですが、セイルーに付いていることだけは看過できませんのよ」
「そっちに付いたほうがこっちのメリットも、そっちのメリットもデカいってこと?」
「あなたはもっと賢いはずですわ」
別に賢くなくたって馬鹿だってどっちだっていいんだけど。
とにかくものすごく嫌な予感がして。
ニンゲンが敷いてある絨毯を蹴って。
「ねえ、いる?」鍵はかかったまま。「大丈夫?」
「来ないほうがいいわ」セイルーの声がした。
「大丈夫なの?」
絶対大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないから。
「大丈夫。大丈夫だから」セイルーの声は落ち着いている。「チューザに逆らわないほうがいいわ。あの子、もう」
「よけーなことくっちゃべらんほうがいいね」白い男の声がした。ドア越しでもよく通る。「長生きしたくないの?チンロンちゃんよ」
「その名前で呼ばないでってゆってるでしょ」
どうしよう。
ドアを蹴破って入ったとしても、死体が一つ増えるだけだ。
「聞こえてるんでしょ? 聞こえてるんならさっさと」
「なんで殺すの?」口が勝手に聞いてた。「おば様って人も、そのお付きの人だって。ヨシツネさんの妹に言われてるの?」
「部外者が生き延びる方法は一個しかないよ」白い男の声。「なんにも知らないフリして黙っていなくなること。そうじゃないと、マジにいなくなっちゃうよ?この世から」
俺はもう。
部外者じゃない。
「セイルーを殺す理由を教えて。教えてくれたら」
「あ?」
一瞬音が消えて。
どかんと。
ドアに穴が開いた。
「素人がでっけぇツラつっこんでくれてんじゃねえよ」穴から白い男の眼が睨んだ。「てめぇの命がなんで永らえてんのか、もっかいよく考えてみろや。あ? 俺が優しくしてるうちによ」
なんで一方的にキレられてるんだろう。
全然わかんないんだけど。
「俺を殺すと都合が悪いはずだけど」
「ツネちゃんに嫌われっからね」白い男がドアの穴から離れる。「わかってんならさくっといなくなってくれや。生き映し君の容態とか芳しくねんだろ?」
「ビャクロー」妹がすぐ後ろにいた。
「チューザ。殺したらどうなるかわかってるの?」セイルーが言う。ドアの穴からじゃ姿は見えない。
「ビャクローが言っている通り、お友だちには手を出しませんわ。実際、出していないでしょう? むしろ守ってさえいますのに」
「ならいいわ。さっさとやりなさいよ」
「セイルー!!」穴をのぞこうとした眼を。
冷たい手で塞がれる。
音は、
いつだって遅い。
「わたくしの後ろで、お兄様が地獄に堕ちるところを見届けるとよろしいですのよ」
視界が開けた。
ドアをこじ開ける力は俺にはない。
確かに、
それもいいのかもしれない。
けど。
「どうなさいましたの?」ヨシツネさんの妹が言う。
「帰ってもいい?」
ヨシツネさんの妹は、大きな眼をさらに大きく見開いて。
俺をノリウキのいる病院に送ってくれた。着替えもくれた。
実際に送ったのはヨシツネさんの妹じゃないけど。
「じゃあ、ここで」グンケイ君が眼線だけの会釈をする。
「もう会わないと思うけど」
皮肉じゃなくて事実を言ったつもりだった。
「ヨシツネさんによろしく」
グンケイ君は肯きもせずに車を発進させた。
さようなら。
ノリウキの病室は、この病院で一番高い部屋。地上からの距離じゃなくて一日当たりの個室代の話。
ノリウキの兄貴もここで寝泊まりしてる。いまちょうど席を外してるみたいだけど。
平勢井穣生は出禁になってるけど、俺はフリーパス。
空気が淀んでいる気がして窓を開ける。
夏が近づいているにおいがした。
ふと振り返ったら。
ノリウキの兄貴がベッドに縋りついているのが見えた。
まさか。
いや。
でも。
そんな。
兄貴が泣いてる。
ノリウキが。
身体を起こして。
あれ?
ノリウキの口が動いているのに。
声が。
音が。
なんにも聞こえない。
ノリウキの兄貴の涙は悲しいときの涙じゃないのに。
ノリウキが不思議そうな顔で俺を見てる。
呼んでる。
読んでる。
のになんで。
あんなにうるさかった雑音だって聞こえてこない。
なにも。
おとが。
「罰が当たったのよ」
セイルーが教えてくれた。
ああ、なんだ。
やっとわかった。
気づかなきゃよかった。
俺の送ってた文字式メッセージのカラクリ。
ダーは双子だから言わなくたってわかる。
ノリウキは親友だから言わなくたってわかる。
ヨシツネさんは。
ただとてつもなく察しがよかったから。
だって、ノリウキの声が聞こえなくたって。
俺は親友だから。
何を言おうとしてるのかくらいわかる。
たったそれだけのこと。
だったのに俺は奇跡だと勘違いしてはしゃいで。
莫迦みたいに愚か。
なんにも聞こえないから俺が喋ってるのかもわかんない。
だから。
心配して俺に声をかけてくれてるノリウキが。
俺の知ってるノリウキなのか。
俺の知ってるノリウキのフリしたニセモノなのか。
見分けがつかない。
どっちなのか。
どっちでもいいか。
5
―――「それで終わり。なんもかもおしまーい」
―――「いま帰るから」
「待ちきれませんわ」
「待っててよ」
(『エバルシユホフ』より)
―――ツネが。
逃げたのは。
「お前のせいやない」
「僕のせいだよ」
(『香嗅厄祕ファニチェア』より)
*****
テレビでもネットでも桓武建設の御曹司がアイドルよろしく出ずっぱりなのは、悪夢以外のナニモノでもないだろう。
そのお陰か、義兄がめっきり顔を見せなくなった。アイドルプロデュースに忙しいのは大いに結構なことで。
能登は意識が戻って大学にも復帰できたらしい。
その反動か、屋島はまた喋らなくなったようで。自慢の耳が聞こえなくなったとかいう噂もあるが。
こちらの近況といえば。
事務員の奥陸さんが寿退社してしまったので。あ、いや、本当に寿退社なのかは置いておいて。
支部はまた支部長一人。
静かなのはいいことだが。
大学と両立させるのはちょっと面倒、いや、かなり面倒なので。
新しい事務員を募集したら。
まさかの7人も応募があったので、一人ずつ面接がてら試用期間。
あとでわかったのだが、この7人は全員知り合いで。あ、いや俺が知り合いなんじゃなくて、7人が知り合い同士なので、7人組だったわけだが。
支部の規模的に7人全員を雇うわけにいかないが、そこそこ能力が高いので、本社の方とも相談して、数人だけ支部所属にして、残りを本社の方で引き取ってもらうことにした。
さて。
誰にするか。
ぶっちゃけ、あいつ以外なら誰でもいいんだが。
あみだくじでも作るか。
駄目か。
そんなことをしているうちに、3年経ってしまった。
******
―――ツネが逃げた。
たったそれだけのことで。たったそれだけのこと。捕まえたところで摑まえた気になっているだけで。連れ戻したってまた逃げる。それがわかっていてどうしていたちごっこをおっぱじめようと。
追いかけるから逃げる。なるほど、慧眼だ。
(『香嗅厄祕ファニチェア』より)
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