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第13話 もとにもどる

 そうと決まればやることはひとつだ。  五穀を断ち、毎日神殿から運ばれてくる聖水で禊を行うのだ。  神殿の地下奥深くに右手で天を、左手で地を指差す神像か安置されており、聖水はその右手よりしたたり落ちている。  この像は国に3体あり、建国のときに神からときの皇帝が授かったのだという。  ハンローレンがこのマスカード城を選んだのは、その堅牢な城壁もさることながら、城内の神殿がその像の1体を有しているからだと、このとき知った。  ハンローレンは神殿よりしたたり落ちる聖水を甕に集めると、俺のもとに運んできた。 「聖水……久しぶりだ……」  かつてこれを見たときは周りに複数の見張りがいて、また俺も配偶者となるための教育の真っ最中であり、それこそ歩き方から目線の送り方まで指導されていた時期であるから、聖水というのをじっくりと観察したことはなかった。  甕に入れられたそれは透明ではなく、やや薄黄緑色がかっている。  部屋にその甕がやってくると、一気にそれが存在感を持つ。あたり一帯に、独特の匂いが立ち込めるのだ。  侍従たちが匂いを誤魔化すために窓を開け、また花の香り袋を部屋につりさげてくれていたが、そんなものではたりない。  そしてそれが陶器のたらいに移される。  ハンローレンが慣れた手つきでたらいに水を入れる。聖水を薄めたところで、いよいよ禊がはじまる。はじまってしまう。 *  久しぶりの禊はやはり痛みを伴った。  俺はマスカード城の中心を流れる川に全身浸かって聖水を洗い流していた。  簡易的な衝立はあるものの、ものすごく開放的な場所だ。  しかし、俺はそれどころではない。体が熱くて、冷たい水を求めているのだ。 「1回目はこの程度だけど、続くともっと痛くなるんだよなぁ」  俺はそうそうに弱音を吐くと、キリルたちが励ましてくれる。 「わたくしは儀式というのをはじめて拝見いたしましたが、キフェンダル様が痛がっているとは気がつきませんでした。たいへんご立派な様子でしたよ」 「耐えるものだって刷り込まれてるからな」  俺は首をすくめる。 「でも、この痛み、なんとかできるならしたいよな」 「神の思し召でございますれば」 「せめてあの臭いだけでもなんとかできたらなぁ……」 「聖なるものですから」  キリルたちは一応反乱に加担している身であるはずなのに、意外にも保守的だ。 「でもあの臭いさ、なんか……」  ほとんどひとりごとのようにつぶやいて、記憶をたどる。しかし、思い出せない。  俺はすっきりしないまま、キリルに促されて川を出て服を着た。  ちょうどそのとき、ハンローレンがやってきた。  彼は川のまわりの衝立を見て、それから口を開いた。 「ずぶんと大胆な場所で水浴びをなさってますね?」 「そんなことを気にする余裕もないくらいに体が冷水を求めるんだよ」  俺がそういうと、彼は「そうですか」と言って眉をひそめた。  彼はかつて俺がこの禊によって苦しめられたことをよく知っている。 「夜は祝詞をお忘れなく」  彼に言われて、俺はうんざりしたように返す。 「わかってるよ」  儀式はこれで終わりではない。寝る前には祝詞を唱えなければならない。  いまの俺の髪は色が抜けて、白っぽくなっている。  それが祝詞を唱えて「神の血を呼ぶ」ことで黒く染まる。  禊と祝詞。そして五穀絶ち。これを続けるうちに、髪が黒が濃くなっていくのだ。  俺はいまは老人のように白くなった髪を乱暴にかきあげた。  非科学的な事象を目の当たりにすると、頭が混乱してくる。  俺は深くため息をついた。  神殿に関連することを深く考えるのはよそうと思った。  唐突に、ハンローレンが尋ねた。 「何か、欲しいものはありますか?」  俺は笑った。 「子どもの機嫌をとってるみたいだな」 「まあ、機嫌をとりたいのは間違いないですが」 「なに? 俺、不機嫌に見える?」 「そういうわけではありませんが、私がそうしたいと思って」 「そうだなぁ……じゃあせっかくだし」  俺はなにかをねだってやろうと思って、何にすべきか思案した。しかしよいものが思い浮かばなかった。 「まあ、考えとくよ」  そう言って会話を切り上げた。  それから、俺が儀式をはじめたということはあっという間に城内、もっといえば国中に広まったらしい。  マスカード城にはハンローレンを支持する貴族、傭兵、武器、商人、そして民衆の期待の声が続々と集まった。  キリルたちに尋ねても何も答えてはくれないが、ここまで大々的に傭兵が集まったなら、宮城側も強硬姿勢で出てくることは予想にかたくない。  マスカード城内は日に日に人が多くなり、不穏な雰囲気に包まれていった。  俺はその武器のきらめきたちを、どこか対岸の火事のように眺めていた。      俺の両親がこちらの軍門に合流したという知らせを聞いても、それは変わらなかった。  現実感というものを得られないまま、俺はハンローレンの取り計らいにより両親と対面することになった。 「キフェンダル……」  対面するとすぐに俺の名を呼び、母親が泣き出した。父親は母親の肩を抱いて、それから俺を見た。  俺はなんと声をかければいいのかわからなかった。  一、二歩、彼らに近づいて、それからようやく捻り出せたのはくだらない質問だった。 「なんでここに?」  その問いに、父親はゆっくりと答えた。  俺が知っている威厳のある声ではなく、どこか自信なさげで、細い声だった。 「お前が、第二皇子と結婚すると聞いて……次はお前を信じてかけてみることにしたんだ」  それでも、その言葉は俺の胸を打つにはじゅうぶんだった。  頬を涙が伝った。  俺は確かに彼らに対して、怒っていた。  俺のことを信じてくれなかった彼らを一生許さないと思っていた。  しかし、それとは別に、どこか俺の知らない場所で平和に暮らしてほしいという思いもあった。恨みを抱いていることと、破滅を願うことは別のものなのだ。  それこそ、こんな反乱に巻き込みたいと思ってはいなかった。 「馬鹿だなぁ……父上も母上も」  俺が言うと、二人の体から緊張が消えた。ふっと、かつての家の中で暖炉を囲んでとりとめもない話をしていたあの頃が甦る。 「ああ……またそう呼んでくれるか」  俺たちは静かにお互いを抱擁した。

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