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第79話 猫の涙の色①

「エチゼンー」 この日エチゼンを呼んだのは、九でもコノエでもなく会社の先輩だった ここはエチゼンが働くアプリゲーム開発会社のオフィスの一角だ 「なんですか?」 元来、エチゼンは人と健全な関わり方ができる人間だ 前に勤めていた会社が特別ブラックだっただけで、勤務体系がきちんと守られ、常識的な人ばかりの職場ならきちんとやっていける 「この本読んだことある?」 エチゼンは先輩のパソコンを覗き込んだ そこには小説の作品レビューが載っていた 「なんですか?小説?【猫の涙の色】?」 「ホラー小説なんだけど、いま売れてるらしくてさ。ちょっと読んでみたんだけど、世界観がゲーム向きなんだよな。お前、ホラーゲームも自作したことあるって言ってたろ?」 「はぁ」 「これ、俺とお前で企画出さないかなーって」 「…それはつまり企画だけだして、俺に丸投げするってことですね?」 「さすがエチゼン!俺が育てただけあるわ~」 先輩はそう言うと、勝手に共有フォルダを作って作品の出版情報を送りつけてきた 「じゃあとりあえず読んではみますけど、それからでもいいですか?」 「いいけど、夏までに間に合うようにな」 「は?」 「夏」 「…来年のですか?」 「今年に決まってるじゃん」 エチゼンは絶句した ※※※※※※※※※※※※※ エチゼンはその日の帰りに早速本屋に寄った 電子書籍ですぐに読めるが、エチゼンは紙派なのである 【猫の涙の色】は本当に人気があるらしく、店の一番目立つ棚に平置きで置かれていた ボップには、『異色の作家、鮮烈デビュー!』だとか『恐怖とは違う怖さがあなたにまとわりつく』など大層な文句が踊っていた (恐怖とは違う怖さってなんだよ…) エチゼンはあまり期待はしないことにして、本をレジに持っていった 「ただいまー」 「おかえりー」 エチゼンが帰ると、洗面所からヒヤが顔を出した 「何してんの?」 「うなじの毛を剃ってたんだけど…」 表情が浮かないということはうまく剃れていないのだろう エチゼンは手を洗うと、カミソリを受け取ってヒヤの背後に立った カミソリを手にしてもヒヤはもう手首を切ったりはしない 手首には、皮膚の下にミミズでもいるようなボコボコした盛り上がりがあるだけだ 「エステとか美容院でやってもらえばっていつも言ってるのに」 極論を言えば、エチゼンはヒヤにそういうことをしてもらうために安定した職業についたのだ でもヒヤは、 「俺、お金貯めたいもん」 「だからそれはー」 「コースケの気持ちは嬉しいけど、いつも言ってるじゃん」 ヒヤが突然振り返った エチゼンは驚いて、あわてて万歳のポーズを取った 「急に振り向くなよ。危ないだろ」 「ごめんごめん。そんなつもりじゃないから。でも、コースケに殺されるなら全然いいけど」 こういうことを言ってしまうところが、まだ傷が癒えてない証拠だとエチゼンは思っている だからといって、そのことを責めたり追求したりはしない ただただ相手にせず、何事もなかったかのように接する どうせ、ヒヤ本人も言ったことをすぐ忘れてしまうのだから 割りきれるようになるまで時間がかかったが、これがエチゼンがヒヤといるために選んだ道であった 「何度も言うけど、俺は老後にコースケと暮らしていくためにいまから貯金してんの!」 「エステ行くくらい…」 「ダメ。俺は普通のところじゃ働けないもん。プッシールームだっていつまで続けられるかわかんないし、AV時代の貯金だって長くはもたないだろうし…」 同棲するにあたって、家賃や光熱費、食費を完全折半したいと言ったのはヒヤである そのくらい頼ってほしいと思うエチゼンと、自立した男として見てほしいと思うヒヤとの溝は埋まらない でもその溝がある限り、ヒヤの病気は治らないのではないかとエチゼンは考えていた (でも少しずつ甘えてくれるようにはなってる。少しずつ、ヒヤの自尊心を取り戻していく) そういう地道な作業は得意だ 「できたよ。このまま風呂入れば?」 エチゼンはカミソリを洗面台に置いてヒヤのうなじの毛を払った ヒヤは今度はカミソリがないことを確認して振り返った 「エチゼンが一緒に入るなら入る」 ヒヤの栗色の瞳で見つめられるとそわそわする いつの間にか条件反射で身体がうずくようになっていた バスルームでヤッたのは何回目だろう ヒヤはバスルームだけでなく、キッチン、玄関、ベランダなど、ベッド以外のところでするのが好きだった 最初の頃こそエチゼンは、AVのシチュじゃないんだからと戸惑ったが、結局どこでヤッても同じだと気づいてからは気にしなくなった 「…あっ…」 ヒヤのあえぎ声が浴室に反響して、それが頭の中を満たし、何も考えられなくなる エチゼンは、前屈みになって鏡に手をつくヒヤの腰をつかんで揺らしながら、鏡越しにヒヤの顔を見た 上気した頬に半開きの口、苦しそうに閉じた瞼 それらをエチゼンが眺めていると、ヒヤの目がいきなり開いて真っ先にエチゼンを見た ドキッとした それはまるで、いついかなるときも、エチゼンが自分のことを見ているかどうか確認するかのような行為だった エチゼンはヒヤの目にかかっている前髪を払うと 「大丈夫だよ」 と声をかけて、奥へ奥へと押し込んだ ※※※※※※※※※※※ 「本屋に寄ってきたの?」 ソファの上に置いた書店の袋を見つけたヒヤが、髪の毛を拭きながら聞いた 「それな、ゲームとタイアップできそうだから読んでこいって先輩が」 ヒヤは袋の中から本を取り出した 「あ、この作家好き」 「ヒヤ、知ってるの?デビューって書いてあるのに」 先に髪を乾かし終えたエチゼンが、ヒヤから本を受け取って帯を見た 「この人、官能小説家だよ」 「官能小説?!」 「ホラー小説家としてデビューってことじゃない?」 エチゼンはヒヤの髪を乾かしながら、 「てか、黒滝邦(くろたきほう)ってタキさんが浮かぶような名前だよなー」 と笑った ヒヤの動きが止まった エチゼンの手が止まった 二人は急いで著者近影を見た そこに写っていたのはまさしくタキだった

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