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幸せで満たされる

「あれ? 支社長。まだ昼食食べに行かれないんですか? 遅くなりますよ」 いつもならとっくに昼食を食べに行っている時間にデスクにいたものだから、事務員の子に心配されてしまった。 彼女は日本からの転勤組ではなく、こちらで採用したパートタイムで働く金沢(かなざわ)さん。 旦那さんの仕事の都合で仕事を辞めてついてきたけれど、こちらの生活にも慣れ、再度働くことにしたのだと聞いている。 ここでの勤務期間はもう3年以上だから、俺よりもよっぽど長い。 彼女の勤務時間は週で20時間だと決められているため、昼食時間は30分ということもあって、いつも外には食事には行かずにお弁当を持ってきたり、デリバリーを頼んでいるようだ。 「金沢さんもキリの良いところで食事に入って。私は今日はお弁当を持ってきたから外には行かなくて良いんだ」 「えーっ、支社長がお弁当、ですか?」 目を丸くして驚く彼女を見て、思わず笑ってしまう。 「そんなにおかしいかな?」 「えっ? あっ、すみません。なんか意外で。だって……支社長、自炊はされないって仰ってましたよね?」 「ああ。そうなんだけどね」 「あーっ、もしかして料理勉強されたんですか? おかずひとつ味見させてくださいよ」 透也の作ってくれたものをあげる? それはちょっと嫌かも……。 でもお弁当のおかずくらいで断るのも上司として心が狭いとか思われるかもしれないな。 心の中で透也にごめんと謝りながら、 「ああ、いいよ」 と言いたくもない言葉を口にして、お弁当袋をデスクに置いた。 結構重量感があると思ったら、スープ入れが二つも入っている。 それを次々にデスクに並べていると、 「すごーいっ、豪華ですね」 と彼女が覗き込んできた。 なんだか俺以上に期待している様子の彼女の隣で、まずひとつめのスープ入れを開けた。 中身は出汁の香り漂う美味しそうな味噌汁。 具材は長ネギとお麩。 今日朝飲んだものと同じだ。 それだけで朝一緒に食べた時の透也の嬉しそうな笑顔を思い出す。 「美味しそうなお味噌汁ですね。これ、ちゃんと出汁から取ってるやつですよね。支社長、すごいですね」 「いや、これは……」 そう言いながら、お弁当の蓋を開けると 「えっ……これ……っ」 金沢さんがお弁当を見たまま、微動だにしなくなった。 「んっ? どうしたんだ、金沢さん。あっ、どのおかずが欲しいんだ?」 「えっ? あっ、あの……えっと、おかずは大丈夫です。すみません、ゆっくり召し上がってください。失礼します」 「えっ? どうし――」 理由もわからないまま、金沢さんは突然俺のデスクからバタバタと離れていってしまった。 その素早さに呆気に取られながらも、俺は弁当に向き直った。 もしかしたら嫌いなものだったのかもな。 俺としては透也の料理をあげずに済んで助かったけど。 これ、よく見たら今日の朝食のおかずでも昨日の残りでもない。 ということはこの弁当のために朝、一から全部作ったのか? しかも朝食も作りながら……。 透也の凄さに今更ながら驚いてしまう。 きちんとお手拭きが入れられていることに、几帳面でまめだなと思いながら手を拭いた。 あ、そうだ。 こっちには何が入ってるんだろう……。 もう一つのスープ入れを開けると、どうやらこれは小さな水筒だったみたいだ。 中には今日朝も飲ませてもらった、透也の緑茶。 俺が好きだって言ったから淹れてくれたんだな。 透也の心遣いに嬉しくなる。 「いただきます」 透也を思い浮かべながら、手を合わせてまずは卵焼きに手を伸ばす。 「あぁ、美味しい」 ああ、この味。 本当に俺好みの味だ。 海苔を巻いた小さなおにぎりには上にわかりやすいように具が乗せられている。 鮭と昆布ともうひとつはしらすかな? 珍しいしらすに惹かれ手に取って食べると、ピリッと山椒の味もする。 ああ、これ前に京都で食べたことがあるやつだ。 ふふっ。これをアメリカで食べるとはな。 サワラの西京焼きや金平牛蒡、それにひじきの煮物、合間に味噌汁を口に運びながら美味しく平らげ、あっという間に弁当箱は空になった。 ふぅ。 最後に美味しい透也の淹れてくれたお茶を飲んで、今日の昼食は終わった。 はぁ……大満足だな。 お腹もたっぷり満たされて、午後も頑張ろうかとお弁当袋にしまっていると何やら視線を感じる。 ハッと周りに目を向ければ、いつの間に帰ってきたのかわからないけれど大勢の社員が俺の方を見ていた。 「んっ? どうした?」 「あ、いえ。なんでもないです」 「そうか? みんな食事は済ませたか?」 「はい。大丈夫です」 「そうか、じゃあ午後も頑張ろうな」 そう声をかけると、みんなは各々デスクに戻り仕事を始めた。 不思議な違和感を感じつつも、パソコンをひらけばもうあとは仕事に集中してしまっていた。 気づけばもう17時。 あと30分で宇佐美くんとのビデオ通話の時間だ。 「高遠くん、準備はできてるか?」 「はい。予定の時間には間に合わせます」 「よし。3階の会議室を開けているからそこに資料を集めておいてくれ」 「わかりました」 宇佐美くんとの話が終わったらすぐに帰れるように準備を整え、俺は先に会議室に向かった。 パソコンの準備をしていると、約束よりも早く宇佐美くんがビデオ会議に入ってきた。 「お疲れさまです、支社長。少し早すぎましたか?」 「いや、私もちょうど開いたところだったからタイミング良かったよ。もうすぐ高遠くんも来るから少し話しながら待っていよう」 「はい。今回のプロジェクトに呼んでいただきありがとうございます。ちょっとタイミングが悪くて少しお待たせしてしまって申し訳ありませんでした」 「いや、君が気にすることじゃないよ。本来ならこっちで調整しないといけなかったんだが、どうしても先方の要望を他のことで補うことができなくて君に突然の出張をお願いすることになって、申し訳ないと思っていたんだ。でも、婚約者さんが背中を押してくれたんだって? 良い彼女じゃないか」 「はい。寂しくても我慢するから仕事を頑張ってきてと言ってくれて……決心したんです。だから、彼女のために頑張って成功させないと」 そう話している宇佐美くんは本当に幸せそうに見えた。

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