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第19話 黄金の瞳

 この一件で鉄郎との間の空気がぎくしゃくしてしまったように感じていたのは、蘇芳の方だけのようだった。鉄郎は相変わらず隙を見ては店に顔を出しにくるし、その度に相変わらず文吉に怒られている。  けれど、あの時鉄郎が言った「いいなと思っている人がいる」という言葉は、蘇芳の心に突き刺さって、抜けない棘のようにチクチクと痛みを与えていた。  ——どんな人なんだろう。やっぱり町一番の器量よしと評判の菓子屋の(たえ)さんかな。いや、金物屋の八重(やえ)さんと、この前親しそうに笑っていたから、八重さんだったりして……  聞きたい気もするけれど、聞くのは怖かった。まだ、鉄郎と過ごす時間を失う覚悟は、蘇芳にできていない。  蘇芳はその日も同じことで頭をいっぱいにしながら店先で帳簿をつけていた。しかし、上の空だった蘇芳の耳にも入ってくるくらい、表がどうも騒がしい。  不審に思って立ち上がり、顔だけ覗かせると、町の人たちが興奮した顔つきで人垣を作っていた。 「え、捕物だって?」  ちらっと奥を振り返ると、文吉は新しく手に入れた薬草と睨めっこをしていて、蘇芳の方に目もくれようとしない。  ——ちょっとくらいなら、いいかな。  この町は城下町から程近く、人も物も活発に流れる割には、あまり不穏な出来事は起こらない、穏やかなところだ。だから、こうした町奉行が動くような事件は、言葉は悪いが町の人々にとってはちょっとした娯楽に等しかった。  御多分に洩れず、蘇芳も好奇心が勝ってしまい、店の先に身体を出し、背伸びして人だかりがしている方を見る。  その時、目にしたものに、蘇芳は記憶の奥底にあった何かが呼び起こされるような、ざわざわとした違和感と奇妙な感覚に襲われた。 「どこ行きやがった?」 「こっちには来ちゃいねえ! いるとすりゃあこの通りだけだ!」 「けどこれだけ人がいんのに見失うわけあるめえよ!」 「そう言ったって、消えたんだ!」 「ばかな、狐に化かされたわけでもねえだろうが!」  人々の喧騒が、急激に遠ざかる。  キン——と空気が鳴る音が聞こえた気がした。  蘇芳の目の前を、黒っぽい何かが走り抜ける。  幻覚、だとしか思えない、そんなことがあるはずがないと思うのに、蘇芳には、時が止まったようにはっきりと見えた。  くすんだ黒銀の髪、きりりと濃い眉、その下で強い光を放つ黄金の瞳——明らかに、人の形をした、人ではないもの。あやかしの、姿を。  目が、合った。  蘇芳の姿を捉えた黄金の瞳が、一瞬だけ、見開いたように、見えた。  同時に、何とも言えない清々しい香りが鼻を掠める。  その香りに、蘇芳は、なんだかわからないものに胸がぐっと締め付けられるような、泣きたいような、不思議な心地になった。  しかし、おかしなことに、誰もこちらを振り向かない。皆てんでばらばらの方向を見て、慌てふためいている。あっという間に遠ざかったその後ろ姿に、蘇芳はなぜか強い既視感を覚えた。  ——そんな……ありえない。  人の姿をとることのできるあやかしは、ミソラ以外に知らない。第一、あんなに鮮烈な印象のあやかしに会ったら、絶対忘れない。だから、会ったことはないはずなのに。  何かすごく大切なことを忘れているようなもどかしさに襲われて、蘇芳はその場に立ち尽くす。  先ほどまで、鉄郎のことで思い悩んでいたのが、まるで床に落ちている木の屑よりも些細なことに思えた。心臓が激しく動悸を打ち、こめかみからつうっと汗が伝い落ちる。 「蘇芳、……蘇芳? 大丈夫か」  声をかけられるまで、蘇芳は自分が地面にへたり込んでいることに気づかなかった。

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