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第54話 忘れない

「俺は、忘れません」  考えるより先に、声を上げていた。 「執着だとか第二性の本能だとかは、俺には分からない。でも、俺はあなたに出会ったことを忘れない。あなたを追うこともやめない。俺にはまだうまく言えないけど、あなたに伝えなきゃいけないことがあるって思うから」 「……お前、俺の話聞いてたか?」  呆れよりも苛立ちの強く乗った声が投げつけられるが、蘇芳はもう怯まなかった。 「聞いていました。ちゃんと分かってるとは言えないかもしれないけど……あなたの言っていることを聞いて、聞いたからこそ、俺はあなたを諦められない」  沈黙が流れた。押し黙っている晴弥の表情は見えないから、何を思っているのかは分からない。けれどその沈黙は拒絶ではないように、蘇芳は感じた。  やがて、闇がふっと弛緩した。晴弥の気配が消え、立ち去ったのだと分かる。 「行って、しまった……」  口に出てから、蘇芳はがくりと膝を折った。自分で思っていたより遥かに、身体に力が入っていたのだと気づく。よろよろと身体を引きずって木の根元に座り込み、冷たく澄んだ山の空気を深く吸った。  初めて、晴弥の心に少しだけ、触れることができた気がする。何がどう、と上手くは言えないが、ずっとあった違和感は、蘇芳を突き放すように、わざと傷つけるように投げ出されていた晴弥の言葉が、きっと本心からではないとどこかで感じていたからだと蘇芳は思った。  自分にもまだどうしたいのか、掴みきれていない。このままではいけないと思っているだけだ。でも分かっていないのは晴弥も同じなのではないかと思い始めている。 「逃げられちゃったな……」  でも不思議と、心は晴れやかだった。今は目の前から姿を消してしまったけれど、蘇芳が追いつけないような遠くへは行かないと、なぜか確信のようなものがあった。  何より、今は自分にまだ、晴弥を捕まえられるだけの準備が整っていない。手を引いて、駆け出す方向が見えていない。けれどそれも遠くないうちに掴めるような気がしていた。不思議なほど、道が自分の前にまっすぐ伸びているような気がした。  ‪—‬—必ず、あなたを捕まえてみせます。そうして、分からないことも一緒に考えればいい。一人で手に負えないことは、二人で向き合えばいい。誰かの力を借りること、助け合うことは怖いかもしれない、でも悪くないなって、思って欲しい。  自分がそれを晴弥に示せるくらい、強くならなければ、と思った。  第二性に流されたのではなく、まだ子どもで晴弥しか知らないからでもなく、晴弥の手を取りたいのだと、分かってもらえるような自分になっていなければならない。その方法が、次に晴弥に会うまでに、自分が見つけなければいけないものだ。  まだこの時蘇芳は、自分の前に伸びる道の平坦さを信じて疑ってはいなかった。

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