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第7話

 またしても。  またしても。  熱で前後不覚になってる間に。  醜態を晒した気がする。 (何だあいつ……! 何だあいつ……!)  少年にとって、アクロという男は未知の生き物だった。  大人なのに、怒鳴ってこない。叩きもしないし、罵倒も、脅しもしない。睨むことも、蔑むことも、嘲笑うことも、気持ちの悪い目で見ることもしない。  何もしない。  何もしないくせに、与えようとする。  対価は、名を呼ぶことらしい。  理解出来なかった。  名前なんて、ものを識別するためだけの、ただの記号だ。あんなものを有り難がって、何になるんだ。  くだらない。  意味のないことをさせて面白がっているだけか、親切ぶって満足したい自己愛精神の傲慢野郎か。  やはり、理解出来ない。  だけどとりあえず、今のところは、こちらに危害を加える気はないらしいことは、わかった。  時折飲まされるヘドロみたいなものは、飲むと体がほんの少し楽になるから許す。その後の甘いものに釣られているわけではない。決して。  ぎゅう、と腹が鳴った。  もう慣れ親しんだ音だ。  目が覚めてすぐに周囲を見回したが、木皿はすぐに片付けられてしまうようだ。まだ残っていたのに、勿体ない。  今は何時(なんどき)だろうか。辺りは既に薄暗い。  次にあの男が来るのは、いつだろうか。 「起きているか、少年」  それは、思いの外、すぐに来た。  ざくざくと残雪を踏む音が近付いて来たと思ったら、間を置かず、松明を手にしたアクロが虚を覗き込む。 「……また丸くなってるな」  ふ、と笑う。何が面白いのか。  不愉快だった。  この男が笑うと、不愉快だ。  胸がざわざわと落ち着かないのだ。  アクロはいつものようにかまどを組み、いつもより時間をかけて鍋に手を加えている。  ほんのりと甘い、いつもと違う匂い。  どこか、心を落ち着かせるような匂いだ。薄れていく警戒心を呼び戻すために、少年は唇を噛む。  やっぱり、不愉快だ。 「さて、今更だという自覚はあるのだが、少し君に用がある、入ってもいいだろうか」  食事の支度を終えたらしきアクロは、木皿を片手に少年を伺う。  本当に、今更だ。  少年は鼻を鳴らした。 「かってに、すれば」 「! ああ、そうしよう」  信用したわけではない。  信じたわけではないが、アクロが敵意を持たないことはだけは、理解した。ので。いつまでも彼を怖がることは少年の矜持に関わる。  紙くず同然の矜持であっても、少年には必要なものだ。  虚の中に体を滑り込ませる彼を、じっと観察する。 (アンタなんて、怖くない)  だって、体が大きいだけの彼は、少年が知るどの大人よりも穏やかだ。  あの時だけだ。彼が怖かったのは、あの時一度だけ。  けれど少年は、あの時アクロが何に怒ったのか、どうしても思い出せなかった。 「少年、食事より先に、食べて欲しいものがあるんだ」  少年の前に膝をついたアクロは、腰に括り付けた小袋から手のひら大に畳まれた紙を取り出す。  カサリ、と開いた紙の中心には、白茶色の──これは、果実、だろうか。 「なに、これ」 「トトの実という。栄養価が非常に高く、病人や怪我人に食べさせると治りが早くなる。今の君の体に、最も必要なものだと思う」  少年は眉根を寄せた。  自分の体に、栄養が必要なのはわかっている。  村にいる時から、わかっていた。  村人は皆痩せていたが、時折村長からの“お恵み”を与えられている周囲の家の子供は、少年やその妹よりも成長が早かった。  いや、自分たちが遅すぎたのだ。  今力が出ないのも、そのせいであることは、何となくわかる。  だが栄養がある食べ物は高価で、とても少年の手に届くものではないことも、嫌と言う程わかっていた。  アクロは苦悩している。  きっとこの実も貴重なものなのだ。一団の財産を、部外者に与えていいものか迷っているに違いない。 「いらない。そんなのわたされても、対価なんてはらえない」 「そう言うと思ったが、これは、絶対に食べて貰う。無理矢理にでも」 「は?」 「しかし、そうすることで折角許されたこの距離が、また、なかったことになるのではと……」 「…………」 「いや、君の回復と、私の身勝手な欲を天秤にかけることなど出来ないな。腹を括ろう。少年、選んでくれ。これを受け取るか、否か」 「…………はぁ」  気の抜けた声が出た。彼は至って真剣である。  大真面目に、少年に再び距離を取られることを危惧している。  何なのだ、この大人は。  本当に意味がわからない。  アクロは多分、やると言ったらやるだろう。受け取っても受け取らなくても結果が同じなら、余計な体力は使わない方がいい。  少年は手を伸ばし、その実を摘まみ上げる。 「────っ待て!」  そのまま口に放り込もうとした手を止められた。  今度は何だ。 「受け取ってくれるのか、それなら、待ってくれ。小さく切り分ける。それを、噛まない方がいい」 「なんで」 「とてつもなく不味い」 「…………」  これも本気らしい。  この実は元々それ程大きなものではないが、確かに丸呑みをしろと言われたら困る大きさである。  それにしても、だ。 「まずいって、あのヘドロより?」 「ヘドロ……薬のことか。あれは苦いだけだろう。臭いもそれ程ないしな」  アクロは水のたっぷり入った皮袋を少年に渡し、自分はトトの実とナイフを握る。 「腐臭がするが、腐っているわけじゃないからそこは安心してくれ。なるべく早く、水で流し込んでしまうといい」  そう助言をして、彼はトトの実にナイフを入れた。  ◇ ◇ ◇ 「うぅぅ……っ」 「……よく頑張ったな……」  涙目で口許を抑えた少年はぐったりしている。  やはり子供の敏感な舌に、トトの実は厳しかったか。  ついでだからとそのまま薬を飲ませたのもよくなかったかもしれない。その後に舐めさせた蜂蜜も、口の中に残ったトトの実の腐臭に負けてしまったようだ。  虚の中に充満してしまった臭いも問題かもしれない。 「少年、ほら、これで多少、後味を中和出来るから」  今回アクロはルードの食事から取り分けたものではなく、少年のために自らパン粥を作った。  野菜のスープでは負けてしまうが、羊獣の乳を使ったものなら少しは不快感を押し流せるだろう。  中和、と聞いて少年は、アクロが目の前に差し出した匙に躊躇なく食い付いた。 (…………手から、食べた)  熱に浮かされているわけでもない少年が、自分の意思で。  あの警戒心の塊だった少年が!  妙な感動を覚えてしまうが、打ち震えている場合ではない。  それ程アレの後味が嫌だったということだ。  もうひと掬い。差し出せば、それにもまた食い付く。  三度、繰り返して四度目。  差し出した匙を前に、少年は顔を覆ってしまった。  雛鳥のように給餌されていたことに気付いたらしい。 「……ぁ、あくろ……」  消え入りそうな、か細い声。 「じぶんで……たべる……」  アクロは、自分の感情が態度に出にくい方であることにこれ程感謝したことはない。 「そうか? 残念だ」  驚いた。  名前を呼ばれて、締め付けられた心臓がそのままねじ切れるかと思った。  対価だ。対価だった。  ならば渡さなければならない。本当に残念だ。  驚かせないようそっと手を取り木皿を握らせて、アクロはルードの子供たちに思いを馳せる。  今、ルードにいる子供は、赤ん坊が二人と、やんちゃ盛りが六人、皆健康で元気がいいかわいい子供たちだが、なかなか、こんな初な反応は見られない。  何とも新鮮なものを見た。と改めて少年を見れば、木皿を見つめたままぼんやりとしていた。  中身は殆ど減っていない。 「口に合わなかったか?」  味の確認はした筈だが、少年には合わなかっただろうか。  不安になって訊ねれば、少年はふるふると首を振る。 「おいしい。でも、いつものとちがうなって」 「美味いならよかった……いつもの野菜スープではトトの実(アレ)に負けると思ったから、パン粥にしたんだ。料理番が作るものに比べたら味が劣るのは勘弁してくれ」 「……アンタがつくったの」 「ああ、ついさっき、そこで。簡単なものだからな」  虚の外の簡易かまどを指差せば、少年はフゥンと気のない返事をした。  一口、二口と。ゆっくりと口にして、また手を止める。 「腹のなか、きもちわるい……」 「無理するな。水も大分飲んだから腹が膨れてしまったんだろう。片してしまうから、こっちへ」  木皿を受け取ろうとするが、少年はまた、小さく首を振った。 「あとで、たべる」 「冷めたら流石に不味いと思うが」 「いい」  考えてみれば、今の少年は一度に食べられる量が極端に少ない。  体調がよくないのもあるのだろうが、続いた飢餓により胃袋が萎縮しているのだろう。  そのせいで、すぐ空腹になってしまうのか。  これまでの食事は朝と夕方のみ。昼に様子を見に来たら深く眠っていたので睡眠を優先させたが、もっとこまめに食事を摂らせた方がいいのかもしれない。 「ではこうしよう、これからは朝と昼、夕方と夜、日に四度、食事を持って来る。これなら冷めたものを食べなくてもいいだろう?」  冷たいものは、それだけで臓腑に負担をかける。今の少年には、あまり食べさせたくはない。 「……てま、かけさせたいわけじゃ……」 「君の体調がよくなったら、ある程度の食料を渡すのもいい。火の扱いも教えよう。だが今はまだ駄目だ。ほら、また少し後で、新しい食事を持って来るから、それを渡してくれ」 「…………」  手を差し出しても、少年はムッと唇を閉じたままそれを渡そうとはしてくれない。 「少年?」 「うー……っ」  威嚇。ここへ来て。そんな。  アクロはぱっと両手を上げた。強引に奪い取ったりはしない、意思表示だ。  そして途方に暮れる。  新しく持って来ると言っても駄目なのか。 「なら、後の食事ではこれを温め直そう。それまでは君も手を付けない。それならどうだ?」 「……すてない?」 「捨てない」 「…………」  まだ完全な納得はしていないようだが、もう威嚇はされなかった。  どうやら、残ったものを捨てられることを危惧していたらしい。なるほどそれなら、理解出来なくもない。 「我らの食事はオルシュアの恵みだ。残ったからと、捨てたりはしないさ」 「じゃあそれ、どうするつもり、だったんだ」 「私が食べるつもりだったが」 「…………」 「今まで君が残したものも、すべて私が食べている。捨てたことは一度もないよ」  懐疑的だった少年の目が、口と一緒にぽかんと開く。 「おれの……食いさし、なんて……きたない……」 「汚い? ふむ……ノマの民は食料が少ない時は皆でひとつの皿を回して食べることもある。汚いなんて考えたこともないが、内地の人間には馴染みのない習慣だったか」 「そういう、ことじゃ、なくて……」  誰かに言われたことがあるのだなと、思った。  溜め息が出そうになる。 「君が今まで、どんな生活をしていたかは想像することしか出来ない。どれ程の屈辱を受けて来たのかも。だがせめて今だけは、憂いなく過ごして欲しいという私の気持ちを汲んでくれないか。もし、それが叶わないなら……」  少年は、戸惑いを隠せず視線を彷徨わせていた。  わかっている。  信じろと言ったところで、少年の経験上それは難しいことなのだろう。  なので、アクロは木皿をじっと見つめて、神妙に呟くのだ。 「君の目の前でこれを食べて信じて貰うしか」 「これは!! おれの!!」  大慌てで木皿を守ろうとする少年は子供らしく、大変愛らしかった。

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