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1-7 魔窟の中で
妖魔に攫われ魔界に連れて来られたのは、十歳にもならない幼い少年。
薄暗い雲に覆われた、常に頭上で雷が鳴り続けているこの場所が、自分が今までいたセカイではないと気付くのに、時間はかからなかった。
そこには異形の者たちが蠢き、到底ひとではない見た目の魔物が、自分より弱い者たちを殺しては喰らい、また違う形態を形作っていく。大きく膨れ上がって巨大化する者、どんどん醜くなっていく者、逆に美しくなっていく者、様々だった。
岩陰に隠れながら、少年は小さな両手で口を押さえ、声を殺していた。
纏う衣は質素なもので、少年の身分はひとの世でもかなり下のようだ。両親は奴婢 と呼ばれる、所謂、奴隷であり、その子である少年も奴婢だった。
大きな町の領主の私奴婢だったのだが、ある日、何体もの妖魔が町に現れて民を脅かし、その領主に言った。
「この町にいる子供を五人差し出せば、町から出て行ってやろう」
領主は私奴婢の中から少年を含む五人を見繕い、さっさと妖魔に差し出した。両親たちは泣きながら抵抗をしたが、その内の何人かが見せしめとしてその場で殺される。
それでも少年の両親は最後まで抵抗していたが、他の子供たちも妖魔に抱えられていく。
少年も恐ろしい顔の妖魔に抱えられ、地面からずっと高い位置に持ち上げられた。
泣き叫ぶのも、手を伸ばすのも、両親を危険な目に遭わせてしまう気がして、少年はすべてを諦めるように身体から力を抜いた。
そして気付いたら、魔界と呼ばれる異界に連れて来られていたのだ。
「餓鬼たちをどうするんです?」
しゃがれ声の手の長い妖魔が訊ねる。
「魔窟に落として、争わせるそうだぜ? 最後に残った奴を、魔王候補となる皇子の護衛にさせるとかなんとか。こんな小さい餓鬼、あいつらの餌になるだけなのにな!」
魔窟とは魔物の巣窟。言葉も話せない知力も劣る魔物は、共食いをすることで力を付け、やがて妖魔となる。
そんな者たちを相手に、人間の、ましてや武器も持てない子供が敵うわけがないのだ。
「これで何度目かは知らんが、今まで生き残った者などいないのさ」
「我らが魔王のお考えは、頭の悪い俺たちにはさっぱりだ」
そんな会話を聞かされて、連れて来られた子供たちは言葉を失う。
「武器は落ちているものを自由に使え。まあ、お前らみたいな餓鬼には、重くて使えんだろうがな。ここにいる奴らを全部殺して生き残れば、出してもらえるそうだ。ほら、希望はあるだろう? だが、気を付けろよ?泣き叫ぶとすぐに奴らに見つかって、頭からがぶり、ってな!」
五人の子供たちは、絶望しかなかった。
武器など扱ったことはなく、十分な食事も与えられておらず手足も細い。そんな自分たちが生き残ることなど、不可能だろう。
岩に囲まれたその魔窟の前で放り投げられ、妖魔たちはさっさとその場から消えてしまった。
「みんなで力を合わせて、抜け出そう」
ひとり、一番年上に見える少年が他の四人に提案する。
「ばらばらに逃げた方が、生き残る確率が上がると思う」
またひとり、違う少年が全く逆の提案をする。子供たちは同じ家に仕える奴婢の子ではあったが、顔見知りではあってもあまり会話を交わしたことはなかった。
「どうせ死ぬんだから、苦しまずにさっさと終わる方がマシだ。母さんも父さんももういない······俺のことは放っておいて」
「僕も残る。どうせ殺されちゃうんだから、こんなの意味ないよ」
少年は他の四人が口々に言葉を交わす中、ひと言も発しなかった。皆、どこかで生き残れないと諦めているのがわかる。
けれども少年だけは、心の中で絶対になにがあっても生き残ると決めていた。例え目の前の少年たちを犠牲にしてでも、生き残る。
(······絶対に、帰るんだ)
拳を握り締め、魔窟の奥へと歩き出す。そんな少年の行動に対して他の四人は構うことはなく、その場でまだなにか言い合っていた。
妖魔たちが言っていた通り、武器は至る所に落ちていた。少年は弓を手に取り、無造作に転がっている矢筒を拾い上げて肩に斜めに掛けた。何本か残っている矢の本数を確認し、また先に進む。
魔界は暗い雲に覆われた空と、その隙間から時折光る稲光が、唯一の道標。この薄暗い魔窟には、その光さえ届かない。
少年の父は、元々王宮の護衛官だった。ある"誤解"からその身分を取り上げられ、奴婢にまで身分を落とされた。少年にとって父は尊敬する大人であり、目標だった。
それが王宮の官奴婢ではなく、さらに下の身分である私奴婢になり、その子である自分も奴婢となった。二年前の事だ。
それまでは護衛武官のひとり息子として、それなりの暮らしを約束されていた。
いつかその誤解が解け、再び元の身分に戻れるように仲間たちが動いてくれていると父は言っていたが、少年も少年の母もそれを当てにしてはいなかった。少年は岩陰に身を潜め、声を殺す。
(な······んだ、あれ)
隙間から見えたモノは、悍ましい姿の異形の魔物たち。それらがお互いを喰らい合い、奇声を上げていた。思わず口を塞ぐ。
一体は、異様に大きな焦点の合わない眼。長い手足。大きな口の魔物。もう一体は、どろどろに溶けかけている灰色の魔物で、まるで大きな泥人形のようだった。
それらが理性の欠片もない戦い方で、お互いを喰らい合っていて、その光景は吐き気を覚えるほどだった。
遠くで子供の叫び声が響いた。一緒に連れて来られた者たちだろう。少年は口を塞いでいたため、咄嗟に耳は塞げなかった。
それは、断末魔の悲鳴。叫び声のすぐあとに、ゴリ!ガリ!という大きな咀嚼音が聞こえてきた。それが何の音かなんて、想像したくもなかった。
その音に反応した目の前の二体の魔物たちは、少年が歩いて来た方向へと顔を向け、のそのそと歩いて行く。
岩陰から離れ、奴らとは反対方向へと息を殺して進んで行く。その後ろから次々と上げる悲鳴を、気にしている余裕はもはやなかった。
あんな化け物たちと正面から戦って生き残るなど、無謀でしかない。
(弓は····少しだけ父上に教えてもらった。剣は俺の手では長すぎて使えないだろう。短い剣でもあれば、なんとかなるかもしれない)
そうして、いったいどれくらいの時間が経っただろうか。朝も昼もないこの場所では、時間の流れがまったくわからず、いつの頃からか空腹も疲労も感じなくなった。
弱い魔物を何体かその矢で射抜いて倒した。必死に生きた。殺されそうになりながらも、絶対に、なにがなんでも生き残ることだけ考えて。
――――数年後。
十歳にも満たなかった少年は、成長し、手には剣を、背に弓を背負い、魔窟の中にできた魔物の死体の山の上に立っていた。
長く伸びた髪の毛は適当に縛って背中に垂らし、魔物の血で汚れた元々白かっただろう衣は、魔窟で殺された誰かの物。その目付きは異様で、何者も近寄らせない獣のような眼をしていた。
死臭が漂う魔窟に、久々に人の声が響く。
「これは驚いた。少年、私は感動したよ。今まで誰ひとりとして、この試練を乗り越えた者はいなかったからな。所詮、ただの人間の子には無理なことと思っていたが、これは確かに朗報だ」
魔物の死骸の山の下に、黒を纏った中年の男がいた。身なりからしてかなりの大物らしく、後ろに控える魔族も人の姿に近い者たちばかり。
その男は三十代くらいの凛々しく端正な顔立ちで、声も低く威厳があった。
「まあ、これはそもそも想定外のことだから、もはや君がなんであれ、その資格は手に入れたと言っていいだろう。まずは身なりを整えてやれ。この者には相応しい地位を与えよう。その上で、明日行われる試合を勝ち抜けば、武官の最高位である、皇子直属の護衛官の座を与えてやる」
後に少年は知ることになる。彼の名は、紅黑鳴 。
この者こそが、魔族を率い、広い魔界を統べる大王であったことを。
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