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1-16 その出遭いは幸運か、それとも?

 その宮殿の庭は、まるでそこだけ人界にいるような錯覚になった。白と赤の花を基調とした、統一感のある美しい庭で、小さな池も趣がある。この宮殿の主は、風情のわかる人物のようだ。  大扇を手に持ちながら、ふと、足元に咲く白い花に目がいった。ひとつの房にいくつもの小さな白い花を咲かせており、名は知らないが、単純に可愛らしいと思えた。  不自然なことに、他の花や木々は同じような種類がいくつも植えられているのに、この花だけはぽつんと一輪だけ咲いており、しかしながら大事にされている事だけは、その周りの状態を見ればわかる。 (けれども、この魔界でこんなに見事な庭を見ることができるなんて、思いもしませんでした。これだけでも遊びに来た甲斐がありましたね、)  口許を緩め、翠雪(ツェイシュエ)は可愛らしい花に微笑みかける。鬼谷(きこく)は底も見えない深い谷の下、崖の間に造られているため、燈はすべて赤や青の鬼火の入った灯篭や提灯しかなく、陽の光など届かない。  もちろん、植物など育つはずもなく、観賞用に摘んで来たものも長くは持たない。  魔界も同じようなもので、常に暗い雲が空を覆っており、時折光る雷光が唯一の空から齎される光なのだ。この庭がどういう仕組みでこのような見事な状態を保っているのか、ぜひとも主に訊ねてみたいものだ。  宮殿内に入ると、護衛の武官たちや忙しくしている宮女たちとすれ違った。彼ら彼女らの会話を聞くに、ここは黑蝶(ヘイディェ)殿という場所で、第七皇子の住まいらしい。  そして、皇子の母、つまり大王の妃のひとりであるこの宮殿の主は、体調が優れないようで、自室で療養中とのことだ。 (魔界の皇子に恩を売るのも悪くないですね、)  一応、生前は仙人を目指して日々修行に明け暮れ、その合間に丹薬(たんやく)の研究していた過去を持つ翠雪(ツェイシュエ)は、鬼になってからも煉丹(れんたん)は続けていた。  煉丹(れんたん)とは、神仙(しんせん)になることを目的として作られる丹薬(たんやく)を、様々な原料を組み合わせて作る技術のことで、よっぽどの知識がないとその成果は得られない。そもそもなぜ彼が鬼谷(きこく)に落とされたのか。  それは、優秀すぎたからというのも理由のひとつだろう。周りの道士たちの妬みや嫉みを物ともせず、我が道を突き進んだ結果、丹薬の秘伝書を書き上げた。  しかしその秘伝書を巡って同門で争いが起き、属していた門派の、信頼していた掌門(しょうもん)さえも敵となってしまう。翠雪(ツェイシュエ)は掌門が率いる道士たちに谷に追い込まれ、秘伝書の在り処を問い詰められる。  元々同門たちには、歯に衣着せぬ物言いと、その天賦の才能故に煙たがられていた。  一見すると中性的でおっとりとしており、物腰は柔らかく穏やかなのだが、彼の周りと歩幅を合わせない唯我独尊な性格も災いして、その最悪の状況を招いてしまったのだ。  そして、仕方なく秘伝書を彼らに譲った矢先、底の見えない鬼の棲み処、よりにもよって、鬼谷(きこく)の谷底へと落とされてしまったのだった。  その後の事は先に語った通りである。  あれから百数十年が経ち、彼も少しは大人になったかと思いきや、今回の魔界訪問である。  妃の自室らしき場所に辿り着き、物怖じすることもなく扉をすり抜ける。便利な符を作ったものだ、と自画自賛し、妃が眠る天蓋付の寝台へと近付く。  本来、魔族であっても赦されないだろう行為だが、翠雪(ツェイシュエ)はまったく気にする様子もなく歩を進める。寝台で眠る顔色の悪い妃の顔を眺め、おや?と首を傾げた。 「このお方は、魔族と人間の混血のようですね」  かつて、魔族と人間が共に暮らしていたという昔話がある。本当かどうかは今となっては不明だが、どちらが先に裏切ったのかは、当事者で見解が違う。魔族は人間が悪いと言い、人間は魔族が悪いと言う。水掛け論というやつだ。  だが、中には良い関係を保っていた者たちもいた。その証が、混血の存在。彼ら彼女らはひっそりとひとの世で暮らしており、稀に魔族と違わぬ魔力を持って生まれる者もいるらしい。  ただ身体は人間に近いので、ある程度歳を重ねても若さを保てるらしいが、本来の魔族が持つ再生能力や不死といった特徴はない。  この童顔だが美しい妃からは、人間の匂いと魔族の気配が混ざって感じられた。 「······この症状、普通の病ではないですね、」  翡翠の瞳を細めて、ぽそりと呟く。そんな中、部屋の扉がキィと音を立てて開かれる。 「桃李(タオリー)兄上?」  符の効果があるので見破られることはないと思っていたのに、背中に投げかけられた声に、思わず振り向く。  その声は、まだ声変わりもしていないような少年の声で、まるで幻でも見たかのような顔で、こちらを真っすぐに見つめてきた。  赤い瞳。魔王候補の皇子の証。幼さの残る容姿だが、すでに秀麗さが備わっているのが見てわかる。  少年の表情は急にガッカリしたようなものに変わり、なんのことやら?と翠雪(ツェイシュエ)は首を傾げた。  その隣にいる青年、いや、鬼の護衛らしき青年には、自分の事は見えていないらしく、怪訝そうに的外れな方向を見ていた。  仕方ない、と翠雪(ツェイシュエ)は符を破り、ふたりの前に姿を晒す。 「な、いつの間に!貴様、どこから入って来た!妃嬪(ひひん)様になにを······ちょっ、藍玉(ランユー)様?」 「あなたは、誰?」  護衛の青年を右腕で制して、黒衣の少年が一歩前に出る。そう言えば、桃李(タオリー)兄上、と自分を見るなり呟いていた。  今は先程までの動揺を隠して、冷静な表情で訊ねてくる。知り合いにでも似ていたのだろうか。 「どうも、はじめまして。私は鬼界(きかい)鬼谷(きこく)谷主(こくしゅ)、名を翠雪(ツェイシュエ)と申します」 「鬼谷?谷主?あ、鬼ってことは、碧雲(ビーユン)と一緒?」  斜め上に後ろにいる護衛の青年を見上げ、少年は敵意などまったくない瞳で訊ねてくる。  その碧雲(ビーユン)という者の事は知らないが、少年の後ろにいる彼がそうだろう。確かに、彼は鬼。  しかし、なぜ魔族の皇子の護衛など? 「えっと、翠雪(ツェイシュエ)さんは、なにしにここへ?母上に何か用?」 「ああ、この方に用はありません。ありませんが、あなたの母君はとても深刻な状態のようです。正しい治療をして差し上げた方が良いですよ?」  後ろで眠る少年の母に視線だけ向けて、翠雪(ツェイシュエ)はにっこりと笑みを浮かべる。  魔族の中に医師がいるのかは不明だが、見つかってしまった今の状況ならば、交渉をするにはもってこいだろう。 「貴様のような者に何がわかるというのだ!そもそも妃嬪(ひひん)様のことは、関係ないだろう!」 「ちょっと待って、碧雲(ビーユン)。僕、このひとの話が聞きたい」  声を荒げる碧雲(ビーユン)に対して、藍玉(ランユー)と呼ばれた少年が落ち着いた声でこちらを見上げて来る。喧しい従者と違い、この皇子は話がわかるようだ。 「ここの医師がどう診断したかは知りませんが、この薬では一生治らないどころか、症状を悪化させるだけでしょうね」  寝台の横に置いてある棚の上の白い包みを手に取り、くん、と匂いを嗅ぐ。これがなんであるか、彼らは本当に知らないらしい。となれば、こちらの要求も通りやすくなるだろう。 「どこで呑まされたのか知りませんが、彼女の中に(むし)がいるようです。魔界で蠱毒(こどく)を作るとすれば、魔蟲(まちゅう)の掛け合わせでしょう。解毒剤がないと、いずれ死にますよ?」  ふたりの気持ちなど知らない翠雪(ツェイシュエ)は、不穏な言葉を包むこともせず、はっきりと言い放つ。案の定、信じられないという顔で、ふたりは呆然とその場に立ち尽くしていた。  その微妙な空気は感じていたが、またやってしまったかも、と翠雪(ツェイシュエ)は心の中で反省する。だがすべて本当のことなので、遠回しに言おうが結果は同じ。言い換えるのも面倒だったのだ。 「私なら、なんとかできなくも、ないですけど?」  指に挟んでいた薬を戻し、大扇を広げた翠雪(ツェイシュエ)は、隠した口元に笑みを浮かべる。その瞳は、どこまでも穏やかで優し気。しかしその心の内は、誰にも読めないのだ。 「母上を助けてくれるのなら、どんな要求でも呑む。なにをすればいい?」  藍玉(ランユー)が口を開く。碧雲(ビーユン)はそれに対して、かなり不服そうな顔をしていた。  その答えに満足げに微笑むと、翠雪(ツェイシュエ)はふたりに対して、ある提案をするのだった。

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