26 / 50

1-25 旅立ち

 ――――約五年後。  夜鈴(イーリン)を蝕んでいた蠱毒も、翠雪(ツェイシュエ)が作り出した蟲の効果を中和する解毒薬によって、少しずつだが回復の兆しがみられた。体力も戻って来て、最近は女性の鬼たちと一緒に、鬼谷に庭を造る計画を立てているようだ。  藍玉(ランユー)はといえば、背も伸び青年らしくなり、より秀麗さが増した。  その身なりも、黒い下衣、白い上衣の上に、膝までの長さの紅色の衣を重ねて纏い、その上に上質な白い帯を巻いており、魔界にいた頃とは真逆の色合いである。  長く伸びた少し癖のある黒髪を、桃李(タオリー)から貰ったお気に入りの琥珀の玉飾りの付いた紅色の髪紐で括り、右肩に垂らしていた。 「藍玉(ランユー)様、準備はできましたか?」  あの後、三人のために増築された簡易的な邸に移り住み、魔界にいた頃と大差ない生活をさせてもらっていた。  自分たちの事はなるべく自分たちでするようにしていたが、世話好きな女性の鬼たちがなんでもやってくれるため、環境が変わってもまったく困ることはなかった。  おそらく、翠雪(ツェイシュエ)が彼女たちに"お願い"をしてくれたからだろう。この鬼谷において、谷主が"命じる"という強制的な指示は存在しない。  しかし谷主が"お願い"すれば、それをできる者が率先して動いてくれるのだ。それくらい、ここでは彼の存在は特別なようだ。 「人界では常にひとの姿でいないといけません。予期せぬ事態が起きて魔族や鬼とわかれば、多くのひとはあなたたちに恐れや不安を抱き、拒絶し排除しようとするでしょう。そうならないように、わかりますね?」  藍玉(ランユー)の纏う紅色の上衣の合わせの部分を整えながら、夜鈴(イーリン)は優しい声で諭すように言葉を紡ぐ。我が子の成長を嬉しく思いながらも、幼かった頃の思い出が重なって、物悲しくも思う。  その目元は夜鈴(イーリン)にそっくりで、人懐っこい性格やひとに好かれるその笑顔は藍玉(ランユー)の長所だろう。  人当たりも好く誰とでも仲良くなるため、故に、心配でもあった。魔族と知れれば、簡単にその関係が変わってしまうことを夜鈴(イーリン)は身をもって知っていたから。 「うん、わかってる。気を付けるね」 「これを、持っていって、」  夜鈴(イーリン)は左右の耳飾りを取ると、藍玉(ランユー)の耳にひとつずつ飾っていく。それは小さな紅い玉の付いた耳飾りで、夜鈴(イーリン)の家に代々受け継がれてきたお守りのようなものだった。 「これ、母上がいつも付けてた大切な耳飾りでしょ?いいの?」 「ええ。私の代わりに、あなたを守ってくれるはずです。この耳飾りには古い言い伝えがあって、自分が一生添い遂げたい、もしくは離れていても繋がっていたいと決めたひとにその片方を贈ると、その縁は永遠に切れないのだそうよ。私は大王様にこれを贈ることはなかったけれど、あなたがもしそんなひとに巡り会えたら、その方に贈るといいでしょう」  夜鈴(イーリン)はどこか寂し気に眼を細め、口元を緩めた。鬼界に来てから、後悔こそしていないものの、やはりこんな風に笑うことが多かった。  それは、いつか藍玉(ランユー)が遠くへ行ってしまうと確信していたからだろう。 「碧雲(ビーユン)藍玉(ランユー)のこと、頼みましたよ?」 「はい、任せてください。夜鈴(イーリン)様の事は天雨(ティェンユー)殿たちがお守りしてくださるとのこと。定期的に翠雪(ツェイシュエ)に通霊して知らせをくれるそうですから、なにかあればすぐに駆け付けます」  拱手礼をし頭を深く下げると、碧雲(ビーユン)はが真面目な顔でそう言ったのに対して、心配はいりませんよ、と夜鈴(イーリン)は落ち着いた声で答える。  この五年の間、鬼谷が危険に晒されることは一度もなかった。鬼界同士がお互いの領域を侵すことはないらしい。魔族もまた、鬼界とは不要な戦いは避けている。 「母上、あんまり無理はしないでね?俺、それだけが心配だよ」 「ふふ。大丈夫ですよ?翠雪(ツェイシュエ)殿のお陰で、最近は少し動いても平気なんです。だから心配など不要です。あなたは、あなたがしたいようにしてください。そして、いつでも帰って来ていいのです。この世は良いことばかりではないし、悪いことばかりでもない。あなたがあなたでいられなくなる方が、辛いのです」  だから、と藍玉(ランユー)の右の頬をそっと撫で、夜鈴(イーリン)は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。 「いってらっしゃい、藍玉(ランユー)。どうか、無事に帰って来てくださいね」 「うん、行ってきます!」  言って、藍玉(ランユー)は元気よく答えた。  ずっと、人界に行くための準備をしてきた。約五年。魔界のほとんどの者が、第七皇子や妃嬪、その護衛官はあの火事で命を落としたのだろう、と思っている。疑っている者もいるだろうが、それならそれで構わない。  ひととして生きるために、人界を旅する。ひとの事を知っているようで全く知らない藍玉(ランユー)。だからこそ、知りたいと思った。憧れのような、もの。  ふたりは夜鈴(イーリン)との別れを惜しみつつ邸を後にして、翠雪(ツェイシュエ)の待つ本殿の方へと向かった。そこには翠雪(ツェイシュエ)の他に天雨(ティェンユー)や双子たち、(ヤン)の姿もあった。 「お待たせ!そっちの準備は大丈夫?」 「ええ。とっくに終えてますよ。では、参りましょうか」  翠雪(ツェイシュエ)がくるりとこちらの方を振り向いて、にっこりと笑みを浮かべる。それとほぼ同時に、天雨(ティェンユー)が拱手礼をして頭を下げた。  それに気付いた翠雪(ツェイシュエ)は、背を向けたまま視線だけそちらに向け、大扇を開く。 「天雨(ティェンユー)、私が留守の間、この鬼谷と夜鈴(イーリン)様を頼みましたよ」 「案ずるな。それが俺の仕事だ」  人界に行くことを最後まで反対していた天雨(ティェンユー)は、完全には納得していないまでも、自分のやるべきことはやると決めている。 「いってらっしゃ~い」 「谷主、なにかあればいつでも呼んでください」  飛星(フェイシン)飛月(フェイユエ)は声を揃えてそう言い、両手を掲げてぶんぶんと左右に振っている。その横で(ヤン)が気だるそうにだらしなく立って、ゆったりとした口調で言った。 「ええ、もちろんです。あなたたちには役に立ってもらう機会も多いでしょう。天雨(ティェンユー)をあまり困らせないように、良い子にしていてくださいね」  はーい、と双子たちは良い子ぶって素直に答えているが、天雨(ティェンユー)は「こいつら絶対困らせる気満々だろ······」と口元を引きつらせる。  この双子が"良い子"なのは、谷主の前でだけなのだ。夜鈴(イーリン)のことも気に入ったのか、彼女の言うこともよく聞くようだ。  藍玉(ランユー)を真ん中にして、その右側に碧雲(ビーユン)、左側に翠雪(ツェイシュエ)が遅れて並ぶ。 「改めてよろしくね、碧雲(ビーユン)翠雪(ツェイシュエ)!」 「はい、」 「ええ、こちらこそ」  三人がそれぞれ視線を交わし、翠雪(ツェイシュエ)が開いた霊道を通って人界へと続く道を進んで行く。  入口はすぐに閉じ、先程までの景色とは一変して真っ暗になる。あの時と同じように緑色の鬼火を片手に灯し、翠雪(ツェイシュエ)を先頭に歩く。 「人界に着いたら、まずはなにをしたらいいの?」 「人界ではお金がないとなにもできません。まずはその問題をなんとかする必要があるでしょう」  素朴な疑問に、碧雲(ビーユン)が答える。前を行く翠雪(ツェイシュエ)は、そんなふたりの会話を聞きながら肩を竦めた。 「別にお腹が空くわけでもないですけど、ひとのふりをするなら色々と必要でしょうね。食べられないわけでもないですし、眠れないわけでもないですから。宿代くらいは稼ぐ必要があるでしょうね」  鬼界を出て早々、お金の問題とは······と碧雲(ビーユン)ははあと嘆息する。  そうこうしている内に、目の前に光の出口が見えてきた。出口の先、そこは、どこかの町の、市井の薄暗い路地裏だった。 「ふたりとも、なんだかあっちの方が賑やかだよ?行ってみよう!」  藍玉(ランユー)が眼を輝かせ、声を弾ませて先の方を指差す。そちらは明るく、行き交う人々で活気に満ちていた。はいはいと翠雪(ツェイシュエ)はゆったりとした歩調で後に続き、碧雲(ビーユン)はやれやれと早足で藍玉(ランユー)を追う。    その先で待っているものがなんであろうと、興味が尽きない限り旅は続いていく。  そして、けして交わるはずのなかったのふたつの運命が、今まさに交差しようとしていた――――。 ◆◇ 第一章 了 ◇◆

ともだちにシェアしよう!