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番外編③ 飛星と飛月 前編 

 最後の記憶は、母親の腕の中。ふたり一緒に抱きしめられていた。薄暗い視界の中、頭の上から聞こえてくるのは、いつもの優しい声音。 「ごめんね、ごめんね、」  まだ若い少女のような声。聞き馴染みのある"お母さん"の声。ふたりはその意味が解らないまま、絶対的な安心とぬくもりに身を委ねていた。 「守ってあげられなくて、ごめんね」  その瞬間、身体が浮遊感を覚えたのも束の間、深い谷へと落ちていく――――。  鈍い音。骨が砕ける音。広がる血と肉の欠片。  痛みはなった。  目が覚めた時、ふたり、ぼんやりと立ち尽くしていた。そこは薄暗く、足元もよく見えないような、ごつごつとした岩のような地面だった。 「ここ、どこ?」 「お母さん、どこ?」  辺りを見回してもよくわからず、少しだけ歩いてみる。歩く度になにかを蹴飛ばしてしまい、その度にカランカランと乾いたような音が響く。時に布のようなものが足に引っ掛かったり、硬いものを踏んでしまったりと、とにかく歩きにくかった。  さすがに不安の方が増してきて、ふたりはお互いの小さな手を強く握り締めた。  そんな時、右奥の方に灯りが燈る。ここまでは届かないが、思わずその灯りの方へとつま先を向けていた。ふたりは裸足で、纏っている衣も何度も繕われたような跡があり、丈も膝くらいまでしかなく短かった。  やせ細った五歳くらいのふたりの幼子は、まったく同じ顔をしている。背の高さも声もほとんど同じで、どちらがどちらかわからないほどだ。 「あそこに行けば、誰かいるのかな? お母さんもいるかな?」 「わからないけど、ここは怖いから、あっちに行ってみよう?」  その灯りはぼんやりと赤かったり、仄かに青かったり、交じり合って紫に見えなくもない場所もあった。そこに近付いていくほどに、今まで無音だった場所が少しずつ賑やかになっていく。導かれるように辿り着いた先、そこに広がる光景に、ふたりは思わず瞳を輝かせた。  赤と青が灯る灯篭や提灯が点々としている様は、一年に一度だけ村で行われる、大きなお祭りのようだった。しかも目の前を歩いている者たちは皆、顔を奇妙なお面や面紗、動物の頭の皮などで覆っており、奇妙なのにどこか面白ささえあった。  賑やかな音、声、変なひとたち。ふたりはどこを見ても興味をそそられ、手を握ったままその先へと進んで行く。  周りは崖に囲まれていて、その間に多くの屋台が並んでいるようだ。きょろきょろと見回しながら、狭い路を行き交う奇妙な大人たちの中に、自分たちの"お母さん"の姿がないか捜す。 「お母さん、俺たちに気付かないで先に行っちゃったのかな?」 「うん、暗かったから、見つけられなかったのかも。それにここ······俺たちのいた村じゃないよね? お母さん、迷子になってるのかも」  しかし不思議なのは、よそ者の自分たちを見ても、お面をしているひとも動物の顔をしているひとも、まったく気にしていない様子。  大人たちの隙間を上手く抜けた先に、たくさんのお面を売っている屋台が見えた。手が届くところにあった狐鬼面をちょうどふたつ分見つけ、手に取る。店主は目の前の客の相手をしていて、ふたりにはまったく気付いていなかった。  こく、と何かをわかり合うように頷き、手に取った狐鬼面で顔を覆った。 「ちょっと借りるだけ」 「うん、後で返せばわからないよね」  大人たちがしているお面がずっと気になっていたふたりは、真似をしてみたくなったのだ。でもお金は持っていないし、後でそっとお面を戻せばいいだろうと思ったのだ。 「怖い狐さんのお面!」 「俺たち怖い狐さんだね!」  ふふ、と顔を見合わせて上機嫌になり、ふたりは探検することを決めた。色んな屋台を見て回り、飴の屋台では飴をもらい、見つかりそうになって慌てて逃げ出す。  そんなことを繰り返していたら、いつの間にか何人もの屋台の店主たちに追いかけられていた。  それさえも楽しいのか、ふたりはきゃっきゃしながら、逃げる。それを追いかける者たち。気付けば屋台全体を巻き込み、所々で悲鳴が上がる。  逃げるふたりを追う店主たちが、違う屋台を破壊してしまったり、歩いていた者を思い切り蹴飛ばしてしまったり、ふたりを捕まえようととした結果、関係なかった者たちまで巻き込まれてしまったようだ。おかげで、辺りは滅茶苦茶になり、色んな意味で賑わいが最高潮になっていた。 「このクソ餓鬼ども! って、なんであんなちび共を誰も捕まえられないんだっ!?」 「お前もだろうが! ひとのせいにするなっ」  なんだと! と血の気の多い者たちが取っ組み合いの喧嘩を始めてしまう。そう、ふたりはこんなに大人が大勢で捕えようとしているのに、まったく捕まる様子がない。それどころか、まるで追いかけっこでもして遊んでいるかのように、楽しそうに笑っているのだ。  そんな中、急に奥の方から順に静まり出し、わらわらと集まっていた大人たちが路を開け始める。それは奥に続く、二階建てになっている重層の立派な楼閣まで続き、その手前に誰かが立っているのが見えた。 「お母さん?」  ふたりは同時に呟く。  全然違うのに、なぜかそう思ってしまったのだ。ゆっくりとそのひとが近付いて来る度に、今までしん、としていた大人たちが、ざわざわと違う賑わいを見せ始める。 「谷主だ、谷主が出て来たぞ! 久々にあの方の姿を拝めるとは、幸運だなっ」 「あの悪餓鬼どもを、懲らしめに来てくれたんじゃないか? さすが谷主!」  谷主、谷主、と大人たちは口々に盛り上がり出し、その谷主と呼ばれているひとが、こちらに歩いて来るひとだろうと、ふたりにも理解できた。ふたりは遊びを止め、そのひとが目の前に来るまでその場に留まっていた。  しかし、それを見逃さなかった牛の顔を被った大人が、ふたりを捕えてそれぞれ両脇に抱えた。驚いたふたりは、ばたばたと両手両足をばたつかせ、 「飛月(フェイユエ)を放せ~」 「飛星(フェイシン)を放せ~」  と、お互いを解放するように必死に叫ぶ。この餓鬼!と牛の顔の大人が黙らせようとしたその時、待ちなさい、と落ち着いた声音が響く。 「その子たちを放してあげてください」 「しかし、こいつら、屋台を滅茶苦茶にして、」 「屋台を滅茶苦茶にしたのはこの子たちではなく、あなた方でしょう? この子たちは怖い鬼から逃げていただけ」  確かに、この状況はこの双子が直接壊したわけではなく、それを追いかけていた者たちが捕まえようとしてぶつかったり、そこから喧嘩が発生して破壊し合ったりした結果だった。 「今回は私がすべて持ちますから、赦してあげてくださいませんか? それに、この子たちは鬼子になりたてのようですし、」  どこまでも穏やかな声音で、谷主と呼ばれた者はあくまでお願い(・・・)をする。しかもこの損害をすべて自分が持つとまで言い出した。牛の顔の大人は、ばつが悪くなったのか、双子たちを解放し、なるべく丁寧に地面に降ろした。  足が地面に付いた途端、双子たちは目の前の谷主と呼ばれていたひとの許へと駆け出す。じっと見上げた先にあったのは、美しいという言葉しか似合わない容貌と、優し気な翡翠の瞳。そのひとはお面をしておらず、素顔のままだった。  背中まである茶色い髪は、右側ひと房だけ三つ編みにしていて、他は背中に垂らしている。白い道袍の上に若草色の衣を纏っていて、ふたりはその綺麗な顔を見上げたまま、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。 「なんだ、お前らも谷主に見惚れたか? うちの谷主は最高に美しいからなっ」  あんなにお互いを罵り合っていた大人たちが、急に上機嫌になり、各々が盛り上がっていた。もはや、自分たちが今まで何をしていたかも忘れているようだ。 「私は翠雪(ツェイシュエ)、この鬼谷の谷主です。君たちのお名前は?」  赤と青に照らされた路で、大勢のお面の大人たちに囲まれたそのひとは、どこまでも優しく微笑んでいた。その笑顔は自分たちの"お母さん"の面影があったが、でも別人だと思い知る。 「飛星(フェイシン)」 「飛月(フェイユエ)」  差し出された手を、それぞれが求めるようにぎゅっと握りしめる。これが谷主である翠雪(ツェイシュエ)と、ふたりの出会いだった。

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