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ep17. リューシャルト子爵の長男

 甘い匂いがずっと漂っている。  花の香りのようで、美味しそうで、もっと欲しくなる。誰かに奪ってほしくなる、そんな香りだ。 「ん……ぁ、ぅん……」  甘い声が聞こえる。  媚びるような声は、自分の口から零れ落ちていた。  誰かが後ろからカナデを抱き締めてくれている。守るように包むように大事に腹に回された腕を、ぼんやりと眺める。 (誰の腕? セス?)  ゆっくり振り返ると、ジンジルの顔があった。  目を閉じて寝息を立てているジンジルは、カナデが動いても起きる気配がない。 「あ、目が覚めた? おはよう」  知っているような知らない声の方に目を向ける。 「……ソウリ、兄さん?」 (違う。同じ顔をしているけど、別人だ)  瞬時に、そう感じた。  声も話し方の抑揚も表情も、何もかもが違う。ただ顔の造形が同じだけだ。 「薬の実験の最中に突然飛び出して行っちゃったもんだからさぁ。ジンジルはよっぽど君に会いたかったんだねぇ。ずっと探していたみたいだし、仕方ないけどねぇ」  ソウリと同じ顔をした誰かが、ニタリと笑う。  その笑顔だけで、気持ち悪くて吐きそうだ。  そういえば、この部屋は独特な匂いがする。  周囲を見回すと、薬のような液体や薬草のような草がみえる。日本で言うならビーカーやフラスコのようなもの、試験管もある。 「実験て、ジルに、何して……」  なんだか、上手く話せない。そういえば、舌先が痺れる。手先や足先にも痺れがあって、うまく動かせない。 「興奮剤の実験だよ。君も沢山吸い込んじゃったみたいだから、しばらく動かないほうが良いよ。あの薬はアルファ同士でオメガに会った時のような興奮を感じられる薬なんだ。だからオメガの君には強く作用し過ぎたみたい」  男がカナデの指先をきゅっと摘まむ。 「んっ……やっ」  自分でも驚くような甘えた声が出た。  カナデの顔を眺めていた男が、薄ら笑んだ。 「自己嫌悪する必要はないよ。薬のせいだからね。第二の性の中でオメガは最も弱者だ。翻弄されるのは運命だとでも思うといいよ、君のせいじゃない」  男の顔を見上げて、懸命に睨む。 「なんでジルで実験なんか、してるんだ」  男が訳の分からないといった顔で小首を傾げる。  しばらく考えて、ポン、と手を打った。 「ああ、もしかして一方的な暴力だと思ってる? ちゃんと合意の上だよ。ここにおいてあげる代わりに、実験に協力してもらってるの。ジンジルは自分の名前と君の名前以外、何も覚えていなかったからね」  ビーカーを持ち挙げて、中の薬品を振って見せる。 「僕の実験は人を殺すようなものじゃないし、体に害が出るほどの量は投与しない。僕だって、僕の薬でジンジルが死んじゃったら寝覚めが悪いからね」  男が、ははっと笑う。 「あんた、一体、誰だ?」  カナデを眺めて、男が口端を上げた。 「やっぱり僕のこと、知らないんだね。ソウリは何も教えてくれなかった?」  くるり、と振り返り、男が一本の試験管を手に取った。 「教える訳ないかぁ。ソウリにとって僕は汚点だろうから。でも、残念だなぁ。折角作ってあげた薬を使わなかったなんて。あれを使えば、セスティ皇子から簡単に君を奪えたはずなのに」  薄紅色の液体が入った試験管をカナデの頬に押し当てる。 「婚約できたから、どうでも良くなっちゃったのかな。心が誰に向いていようと、もう君はソウリのもので、今は神様のものだもんね。一番好きな相手と好きな場所で番えないなんて、可哀想だね」  さっきまでの笑みが消えて、憐みの目がカナデを見下ろす。 「女の子の時からずっとセスティ皇子が好きなのに、家のために我慢して、ソウリに気を遣ってリアナに気を遣って、結局最後は貢物になるなんて。君の意志はどこにあるんだろうね」  まるで自分事のように悲し気に男が語る。 「簡単に、貢物になんか、なって堪るか。最後まで、抗ってやる」  男を睨んで起き上がろうとするカナデの額に、指が触れる。ツン、と押されて、ジンジルの腕の中に戻ってしまった。 「まだ動かないほうが良いよ。それに君が動くとジンジルが起きてしまうから」  シーっと、口に人差し指を持ってくる動作をする。  良い人間には思えないが、どうにも憎みきれない人だ。  カナデは仕方なく、ジンジルに抱かれたままの姿勢に戻った。 「なぁ、アンタ、リューシャルト家の人?」  カナデの質問に、男は意外そうな顔で振り返った。 「そうだよ。ああ、そっか、知らないのか。僕はリューシャルト家の長男、養子だけどね。ソウリの双子の兄、カイリだよ。よろしくね、カナデ」  指を摘ままれて、フリフリされる。さっきよりは痺れがなくなってきた。そんなカナデを眺めて、カイリがにっこりと笑んだ。 「君が使っている抑制剤は、僕が作ってる。ついでにバラすとね、ソウリが使ってる花の香水ね、あれ、君を惑わすための興奮剤で惚薬だから。もう使わないほうが良いよって伝えてくれる?」  驚きながらも納得してしまった。  ソウリから常に薫っている花の香りは、気になっていた。 「俺を惑わすって、どんな風に?」 「運命の番と勘違いさせる作用がある。けど結局は、只の興奮剤だからね。さすがに本気で勘違いはしなかったでしょ?」  逆に問われて、頷いた。  楽器保管庫でソウリを受け入れそうになったのは、香水のせいだったらしい。 (良かった。セス以外にも、誰彼構わず欲情するわけじゃなかった)  自分の本能に安堵した。 「繰り返し嗅がせ続ければ脳が勘違いしてくれるかなって思ったけど、ダメだったかぁ。実験の実証効果が知れて良かったよ」  カイリが嬉しそうにノートにメモを取っている。 「もう使わないほうが良いっていうのは、なんで?」  カナデが思うのもなんだが、今更な気がする。  セスティを運命の番として警戒しているソウリが、使用をやめるとも思えない。 「だって、ソウリはカナデの運命の番にはなれないでしょ。二人ともいなくなっちゃったら、ティスティーナ家は誰が継ぐの?」 「ん?」  言葉の意味が分からずに、カナデは首を傾げた。 「まぁ、仮に薬でソウリを運命の番にしたとして、神様にバレたら国が滅ぶかもだし、そういう危ないことはしないほうが良いよねって」  カナデと同じようにカイリが首を傾げる。   「えっと、勘違いだったら教えてほしいんだけど。運命の番も神様に献上されんの?」  カイリの言葉はまるで、共に献上されるように聞こえる。 「献上といえば、そうなのかなぁ。神様に献上されたオメガは、神様の元で運命の番を探すんだよ。自分で見付けられるような簡単なものじゃないからね」  あんぐりと口が空いてしまった。 「え? じゃぁ、見付かった運命の番は、どうなんの?」 「どうもこうも、神様の元で一緒に暮らすんだよ。二人には夫婦として神元での務めがあるからね」  開いていた口が閉じて、ごくりと息を飲んだ。 「カイリ兄さん、なんでそんなこと知ってんの?」 「むしろ、何で知らないの? もしかして中央の人って、何のためにオメガが神様に献上されるか、知らないの?」  カナデは頷いた。  カイリが大変驚いた顔をしている。 「ああ、そっか。僕は精霊と仲良しだから、それで知っているだけなのかも。もしかしたら、人に話しちゃいけなかったかもしれないなぁ」  ぼそぼそと聞こえてくる言葉に、不穏な色が混じって聞こえる。 「カイリ兄さん、精霊と仲良しなの?」 「うん。精霊の里には、しょっちゅう遊びに行っているよ。薬の作り方を教わったりね。時々、手伝いにも来てくれるから助かるんだぁ」  この人は規格外だと思った。  地図にも載っていないような場所に年中遊びに行き、契約もしていない精霊と友達感覚でお付き合いしている。 (悪気無く法を犯している。いや、この人、きっと悪い人じゃない。善悪の概念がズレてるだけなんだ)  カイリがカナデを眺めて、ニコリと笑った。 「初めて会ったのに、兄さんて呼んでくれるんだね。カナデは優しい子だね」  カイリがカナデの頭を撫でる。薬臭いその手は、優しくカナデの髪を梳いた。 「ねぇ、さっきの運命の番の話だけど」  カイリの指がカナデの唇を押した。 「これ以上は、話さない。僕が口を滑らせたせいだけど、聞かなかったことにしてくれない?」 「それは無理だよ」  カイリを見上げる。カイリが困ったように笑った。 「だよねぇ。でも、話し過ぎると僕が叱られちゃうからさ。時期が来ればわかることだし、焦らなくても平気だよ」  そういわれると、これ以上、何も言えなくなってしまう。  仕方なく、カナデは引き下がった。  部屋の隅から掛物を取ってきたカイリが、ジンジルとカナデに掛けてくれた。 「窮屈かもしれないけど、今日はそのベッドでジンジルと一緒に寝てあげてくれる?  目が覚めてカナデが隣に寝ていたら、喜ぶと思うんだ」  ジンジルの顔を見上げる。  ずっと眠ったまま目を覚まさないが、大丈夫なのだろうか。 「さっき、ジンジルには拮抗剤を打ったから、朝まで起きないと思うよ。興奮剤は消耗が激しいんだ。カナデにも寝ている間に抑制剤を打っておいたから、大変な事態にはならないはずだよ」  カナデの疑問に全部答えて、カイリが部屋を出ていった。  後ろからカナデを抱き締める腕は、解かれそうにない。 (ゲームの中のジルって、こんなに主人公に甘えていたっけ?)  記憶がなくなる前のジンジルとの関係性がいまいち掴めないまま、カナデは目を閉じた。  カイリに聞いた運命の番の話が、頭から離れなかった。

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