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第4話 再会
若旦那と音丸とで背後を囲うようにして若者をマイクロバスに乗せる。
「たっぱは前座名です。お陰様で今は二つ目に昇進して柏家音丸と名乗っています」
音丸はとっさにそう答えたが、必死で記憶を探っていた。
確かに昔〝たっぱちゃん〟と呼ばれていた。
女子供という表現は今時不適切だろうが、おかみさんや子供たちはそう呼んでいた。大人の男にちゃん付けで呼ばれた覚えはない。師匠も兄弟子たちも呼び捨てだった。
師匠の関係筋か、贔屓客の可能性もある。頭をフル回転させながら、若者を後部座席に誘った。鼾がうるさい柾目家 師弟の座席から離れたのだ(今や咲也 も熟睡していた)。
音丸は何故か無意識に若者にシートベルトを着けてやろうとしていた。
そこに、
「僕だよ。三弦 。みっちゃんだよ」
と言われて、とっくに気づいていたとばかりに頷いた。
シートベルトのバックルを留める音がはっきり記憶を蘇らせた。昔こうしてこの男の子にシートベルトを装着してやったものである。
音丸の師匠、柏家仁平 の孫息子だった。
ちょうど音丸が入門して住み込み弟子になった頃、師匠の長女、華 が離婚して実家に戻って来たのだ。一人息子の三弦 を連れて。
仁平一門では一番弟子の徳丸 が真打昇進で披露興行に大忙しの時期だった。これ幸いと華まで手伝いに駆り出された。
二番弟子のなっぱは、おかみさんの両親の介護を任されていたから、三番弟子のたっぱ(音丸)が小学三年生男子の世話をするよう命じられたのだ。
運転席に着いた若旦那が「出発します」と車を発進させた。
車の揺れに合わせて会釈をすると、
「大きくなりましたね、三弦さん。今はいくつでしたっけ?」
「はたち。いたちじゃないよ」
と言ったのは落語の与太郎噺の台詞である。だがそれっきり黙り込む三弦である。
にわかな沈黙に音丸は前座時代の記憶が蘇った。
「私が入門してあの家に入ったのも、はたちの頃でしたが……もう三弦さんがはたちですか。二つ目に昇進してあの家を出たのは、三弦さんが中学一年生の時でしたね」
「帰ったら机の上に手拭いだけ置いてあってさ。僕が学校に行ってる間に引っ越しちゃって」
「すみませんでした。あの時染めた抹茶色の手拭いはもうなくなりました。今は藍色に染め直しています。後で差し上げます」
二つ目になると名前入りの手拭いを染めて挨拶に配って回るのだ。
特に音丸のように昇進時に名前が変われば、新たな名前入りの手拭いは宣伝のために重要である。今でも仕事の時に持ち歩いては配るのは、サラリーマンの名刺のようなものである。
「あの後、華さんは再婚されて三弦さんもあの家を出られたと聞きましたが……」
「うん。今は僕、蓮見三弦 なんだ。梅じゃなかったよ」
ようやく微かに口の端に笑みを浮かべる三弦である。
師匠の孫は、生まれた時は松田三弦だった。それが母親が離婚したので旧姓に戻り、竹田三弦になったのだ。
松と竹。
もし華が梅田とか梅崎とか梅の名字の男と再婚すれば、松竹梅でおめでたい。師匠宅に遊びに来る落語家達はよくそんな戯れ言を言っていた。
小学生男子はそれを覚えていたのだろう。
「蓮見さんですか。新しいお父さんはいかがですか?」
「うん。新しく妹も出来たんだ。もう三才なんだよ。赤ちゃんて可愛いんだね」
「それはおめでとうございます。四人家族になったんですね」
「ありがとう。でも今はこっちの大学で一人暮らしなんだ。大学二年生だよ」
音丸は妙にしみじみと三弦の顔を見てしまう。
記憶にある三弦はまだ背も低く、甲高い声を出す子供だった。そしてさらさら直毛の頭頂部には、いつも天使の輪が光っていた。
「たっぱちゃんは……ごめん、音丸さんは」
「いいですよ。呼びやすい方で」
三弦はふいに視線を泳がせてうつむいた。またあの渓谷を見下ろしているような空ろな表情になっていた。
「たっぱちゃんは、名前が変わって困らない?」
「慣れるまでは少し戸惑いましたが。落語家の名前が変わるのはめでたいことですから」
「そうだよね。昇進だもんね」
三弦はうつむいたまま音丸と腕を組まんばかりに身体を寄せて来る。車の揺れに合わせて、さり気なく音丸は三弦から身を離す。
「僕は名前が三回も変わったんだ。生まれた時は松田三弦だったのに、ママが離婚して竹田三弦になって。再婚したら蓮見三弦だよ。じゃあ、僕って何? 訳わかんないよね」
音丸はすかさかず答えた。
「柏家たっぱが知っているのが竹田三弦です。今、柏家音丸が見ているのが蓮見三弦です」
三弦は今度こそ音丸と腕を組んでしまった。逃げ遅れた、という気分であるが知らんふりで微笑んで見せる。
「あいにく松田三弦は、たっぱも音丸も存じ上げませんが」
と言った途端に、
「目が糸になってる」
と嬉しそうに言われた。
音丸は思わず三弦の顔を見直した。
そうか。この台詞は奴のものではなかったのか。
竹田三弦(今は蓮見三弦だが)が幼い頃に言ったのだ。全てがあの天然パーマの言葉に思える自分にうんざりする。
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