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第6話 山の仕事
2 山の仕事
ホテルはむしろ山荘と言った風情だった。
部屋の鍵にぶら下がっている木札には墨で室名が記されている。部屋の入り口に掲げられた〝駒草 〟〝稚児車 〟などという室名は高山植物の名前だった。
音丸が手にした鍵には〝銀竜草〟と書いてある。
「ギンリョウソウだね。ああ……そうか。これ、たっぱちゃんのイメージだったんだ」
と手元を覗き込んだが、
「そうですか」
と音丸は三弦 から離れるようにドアを開けると、さっさと奥のベッドに行って足元にスーツケースやザックを置いた。
昔は家族で旅行をする時ツインルームなら三弦は窓際のベッドだった。祖父は入り口側のベッドで、前座の音丸はエキストラベッドである。
なのに二つ目の今は先に窓際を取るのかと何がなし不満に思いながら、ベランダの窓を開けると、窓から見下ろしたベランダの下は、切り立った崖だった。
気がつくと音丸が切るような視線でこちらを見ている。国宝級の名人が一閃のもとに切ったような鋭い一重瞼の瞳である。
「別に……」と三弦は口の中で呟いた。
だから音丸は先んじて窓際のベッドを取ったのか。師匠の孫に上座を譲るより、飛び降りないよう先手を打ったのだ。
音丸は応接セットのテーブルに用意されていた茶道具でお茶を淹れている。前座の時と同じである。茶托に湯呑みをのせて三弦に差し出すと、
「落語会は二階の大広間で五時からです。終わって八時から夕食です。私は準備がありますが、三弦さんは温泉に入ってのんびり休んでからいらしてください」
と言いながら、スーツケースから出した風呂敷包みをベッドに広げている。
今夜の衣装なのだろう着物を取り出すと、肌襦袢などを携えてバスルームに行こうとする。
思わず口をついて出た。
「やっぱ温泉嫌いなんだ?」
「はい?」
「みんなで旅行しても、たっぱちゃんは大浴場には入らなかった。いっつも部屋のバスルームでシャワー浴びてた」
「前座の身分でしたから。シャワーで充分です」
「嘘だ」とは言わなかった。思っただけで。
小学生の三弦から見ても音丸は、他人との距離が遠かった。裸のつきあいなど大嫌いなのだろう。大浴場でみんなで背中の流しっこをするなどあり得なかった。いつも一人でシャワーを浴びていたのを覚えている。
銀竜草 は高山植物と言いながら、深海の生き物であるかのような白く透き通った姿である。湿った場所にぽつぽつとパイプが立ったように咲く。別名ユウレイソウ。こちらの方が名は体を表している。
一人で山に入って高山植物の写真を撮りながら、三弦はこの不思議な植物が誰かに似ていると思っていた。今の今まで昔の世話係に似ているとは気がつかなかった。
〝山の県境落語会〟会場の大広間には音響も照明も完備された舞台がある。
そこに緋毛氈を敷いた高座が設えられており、下手側にはメクリも置かれている。
ホテルオーナーが始めたこの落語会は毎年開催されている。
オーナーのご贔屓である柾目家逸馬 が主役で、音丸は今回初めてゲストに呼ばれたのだった。
客筋は初回から通っている地元の馴染み客、たまたま投宿した旅行客、そして各地から遠征して来た落語マニアなどだった。
落語マニアとは度し難いもので、これと決めた落語家を追って全国各地に遠征する。音丸にも、たっぱ時代からそんなマニアがいて、この県境の山頂まで来ているのだった。
二人の爺様、二人の婆様(夫婦ではなく同好の士らしい)が風呂上がりの浴衣姿で最前列に陣取っている。
この四人は都心の寄席でも毎回同じ位置に座っている。さぞや悠々自適の引退生活なのだろう。年が年だけに一人でも欠けるとその生存を危ぶんだりするのだが、音丸が二つ目になって七年間無事に生き永らえている。
寄席でこのジジババと前後して必ず客席中央、高座の目の前に座っているのがあの天然パーマだった。
あいつは音丸がたっぱだった頃など知らない。しょせん浅いつきあいなのだ。いつ切れても問題はない。
なのに何を物欲しげに客席を確かめているのか。
下手側に目をやれば、若い女性が座っている。背が高くふくよかなこの女性は、音丸ファンサイトの運営管理人である。
個人的に始めたサイトに公認を求められて、自分にはまだ早いと遠慮したものの見事に押し切られた。
今や音丸のスケジュール帳よりこのファンサイトの毎月の予定表の方が正確だったりする。
普通のOLとのことだが時に有給休暇をとってこうして遠征して来る。そしてSNSにあの小難しい文章で鑑賞レポートを上げるのだ。
もし音丸の動向を知りたければ、ファンサイトを見れば、今日の演目も明日以降の予定も洩れなく知れる。
いや、あの天パーがそれを確認するかどうかは知らないが。
前座の咲也が、
「お先に勉強させていただきます」
と頭を下げて高座に上がった。そして、
「開口一番を務めさせていただきます柾目家咲也と申します。柾目家逸馬の弟子の究馬 、その三番弟子でございます」
と声を出した途端に客席がかすかにざわめいた。「女?」と口にする者もいる。
五分刈り頭に男着物で少年に見えるが、咲也は女性なのだった。女性落語家も前座のうちは男着物である。
咲也と入れ替わりに高座に上がった音丸は、座布団に座ると手前に扇子を置いて深々とお辞儀をした。
この扇子が結界である。落語家と客とを隔てる境目なのだ。これを越えて互いが交わることがあってはならない。
たとえ目の前に漆黒の巻き毛に抜けるような白い肌そして赤い唇も麗しい客が座っていたとしても、深い仲になっていいはずがない。今こそ別れの潮時であろう。
どうにも余計な事を考えながらマクラに入る。
「こちらには初めてお邪魔させていただきます。私は柏家たっぱ……」
と、つい口にしてしまう。
音丸をそう呼んだ三弦はまだ会場に来ていないようである。
「柏家たっぱが前座名、今は二つ目の柏家音丸と申します。どうぞよろしくお願い致します」
大広間に並べた座布団は七割方しか埋まっていなかったが、大半は温泉に入った後だろうホテルの浴衣を着ていた。それぞれが楽な格好で聞いているが、甚だしいのは寝転んでいたりする。
音丸が高座を下りると咲也が座布団をひっくり返して、メクリも返す。
〝柾目家逸馬〟の名前を見ただけで会場は拍手の渦である。寝転んでいた男が起き上がって正座をすると「待ってました!」と掛け声をかけている。「たっぷり!」などという声も上がる。
地元客は毎年この師匠の落語を楽しみにしているのだ。駆け付けた遠征客の数は音丸などの比ではない。
逸馬師匠は後頭部にわずかに白髪を残しただけの禿頭である。電車もバスもひたすら眠りこけており、ホテルに着いてからも夢うつつのようにふらふらと〝駒草の間〟に入って行った。大丈夫かと思っていたが、さすがに高座に上がると違う。
この年齢まで落語家を続けたベテランにはとてつもない安定感がある。座布団に正座した途端に、根が生えたかのように見えるのだ。
まずは軽く一席語って一旦高座を下りて来た。
咲也が差し出す湯呑の白湯を飲みながら、
「文七 をやる。音丸、録音していいぞ」
と言うのだった。
「ありがとうございます!」
あわてて懐からスマートフォンを取り出して電源を入れる。
逸馬師匠にはかねてより〝文七元結 〟の稽古を頼んであった。今日改めて依頼しようと思っていたのだが、忘れてはいなかったのだ。これから高座でやるものを録音してもいいとの許可が出たのだ。
幕の陰からスマホを差し出して逸馬師匠の〝文七元結〟を録音すると同時に、息を詰めるようにして聞き耳をたてていた。仕草も台詞も息の間さえも聞き漏らすまいとしていた。
傍らでは咲也も大師匠の人情噺に聞き入っている。
噺を終えた師匠が高座を下りて袖に入って来ても、客席の拍手は鳴り止まなかった。温泉タオルを顔に当てて泣いている客もいる。
音丸も少しばかり頬を紅潮させて、録音を終えたスマホの電源を切ると大切に懐にしまうのだった。
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