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1-1 始まりの音

 ()の国。  夜になると妖者(ようじゃ)と呼ばれる魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する地。かつて国を脅かしていた、邪悪な鬼術を操る一族が、伏魔殿(ふくまでん)に封じられ数百年が経った今も、その影響は完全に止むことはなく。国の各地方を守護する五つの一族は、妖者によって日々絶え間なく起こされる災厄に、手を焼いていた。  紅鏡(こうきょう)碧水(へきすい)光焔(こうえん)金華(きんか)玉兎(ぎょくと)。    国は五つに大きく分かれており、それぞれ金虎(きんこ)白群(びゃくぐん)()雷火(らいか)姮娥(こうが)という一族が治めている。    一族の長は宗主と呼ばれ、その嫡子を公子と呼ぶ。一族に仕える者を従者、また一族の門下に入り術を修めた者を、総じて術士と呼んだ。 ****  紅鏡。金虎の邸。同じ敷地の中にいくつかの大小様々な邸が存在した。    その中でも一番小さく質素な造りで、中心に存在する宗主の邸から一番離れた場所に在るのが、第四公子とその母が住まう邸である。  小さいが手入れの行き届いた庭には、年季の入った桜の木が一本と、赤と白の模様の鯉が二匹泳ぐ小さな池があり、その周りには季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れ、そこに住む者の穏やかさを感じさせた。  邸からはいつものように奇妙な笛の音と、繊細な琴の音が奏でられている。  春。疎らな薄紅の花衣をつけた桜の木の下で、目を閉じ、適当な音程で気のままに横笛を吹いているのは、額から鼻の先を覆う白い仮面を付けている少年だった。  少年は十代半ばくらいの見た目で、上下黒い衣を纏っている。長い黒髪は赤い髪紐で結んでおり、細身で小柄な印象があった。  そこからさほど離れていない向かい側の邸の縁側で、そのでたらめな音程に合わせて琴を奏でているのは、少年の母である。  大きな翡翠の瞳が特徴的な、美しい容貌の穏やかな女性だが、少女のようなあどけなさも垣間みえる、不思議な魅力があった。  ふいに琴の音が止まり、少年の笛の音も遅れて止まる。見れば母が立ち上がり両手を胸の前で組み、丁寧に頭を下げる仕草をしていた。 (珍しいな。父上がこんな時間にここに来るなんて。奉納祭の打ち合わせとか?にしては、なんだか難しそうな顔をしてるみたい······)  母の視線の先に現れた人物に、少年も慌てて同じように立ち上がり、やや雑だが胸の前で腕を上げて囲いを作り、頭を下げてお辞儀をする。  まだ朝から昼の間くらいの刻であった。事前の連絡もなく突然訪問してきた宗主を、母が縁側から降りて自ら歩み寄り、いつものように出迎える。 「無明(むみょう)、お前も来なさい」  皆の前で見せる、厳しい紫苑(しおん)色の眼差しはそこには欠片もなく、ただ穏やかな表情で見下ろしてくる宗主。少年にとってはこちらが本物で、普段の父は見えない仮面を付けているようなものだ。  それにも理由があり、母と自分が冷遇されているかのように周りに思わせるための、唯一の手段なのであった。  邸の中に入り、各々腰を下ろす。はあ、と小さく嘆息した宗主の顔はどこか疲れた様子だった。 「父上、なにか困りごとですか?」  少年の視界は仮面に覆われているため狭く、その狭い視界の中心はよく見えるので、宗主がなにか言いにくそうな顔をしているのが解った。 「······もしかして、奉納祭の件ですか?」  母も勘付いたのか、大きな翡翠の瞳を細めて気を遣いながら優しく問う。口ごもっていた宗主はもう一度小さく息を吐き、困ったように頷いた。

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